2018年12月27日木曜日

動物愛護が聞いて呆れるわ!

日本政府は26日、国際捕鯨委員会(IWC)から脱退することを正式に表明した。
いよいよ待ちに待った商業捕鯨が再開されることになった。30年ぶりである。

ボクたち世代はクジラ肉をよく食べた。給食でもクジラの竜田揚げは定番だったし、
肉というと牛肉や豚肉などよりクジラが一般的だった。戦後間もない貧しき時代に、
貴重な動物性たんぱく質としてクジラ肉は大いにもてはやされた。

とりわけ貧しかったわが家などは、母が、
「今夜のおかずはトンカツよ!」と元気よく叫ぶと、
鼻垂れガキのボクたちは快哉を叫んだものだが、
出てくるカツはたいがいクジラで、わが家で豚カツといえば〝鯨カツ〟のことだった。

母は借金まみれの家計を助けようと、川越市内の卸専門の魚屋に働きに出た。
父の経営する会社が倒産し、社員を全員解雇。食うや食わずの生活を続けてきたのだが、
食べ盛りの子を4人も抱えていては、そのうち家計が行き詰ってしまう。
母は慣れない事務の仕事で家計を支えた。

魚屋に勤めていると案外余禄もある。
ときどき刺身をみやげに持ってくることがあったし、
当時安かったクジラの肉を大量に持ってくることがあったのだ。
日産のゴーン前社長みたいな特別背任罪(笑)ではない。
社員割引で安く仕入れてくるのである。
クジラのベーコンなどは飽きるほど食べた。
この脂っぽいベーコン、今は高すぎて手が出ない。隔世の感とはこのことだ。

そんな日本人の伝統的な食文化を知ってか知らずか、反捕鯨国のオーストラリアや
ニュージーランドは激しく反発している。反捕鯨団体の悪名高きシー・シェパードは
「日本は捕鯨するノルウェーやアイスランドという〝ならず者国家rogue state〟の
仲間入りをすることになる」
などと、偉そうに説教まで垂れている。

わが家にホームステイした〝ならず者国家〟ノルウェー出身のAksel Båhl君。
お~い、聞いてっか?
利口な君なら少しは日本人の気持ちが分かるだろ?

反捕鯨を叫ぶ連中の言い分はこうだ。
「クジラは人間の仲間で高等な頭脳を持つ哺乳類。その愛くるしい仲間を
残酷なやり方で殺し食うという。これほど野蛮な行為があるだろうか」

日本の水産庁と外務省の言い分はこう。
反捕鯨国は科学ではなく政治的な立場から、いかなる捕鯨にも反対している

われわれ日本人からすると、愛くるしい牛や豚を電殺などで屠畜する欧米人
のほうがよっぽど残酷だと思うのだが、彼らはそう思わない。
キリスト教では人間と動物の間に一線を引き、人間をあらゆるものの上位に置いた。
聖書の教えの中にも大約、
「牛や豚は人間が食べられるようにと神様が造ってくださった」
と勝手な理屈が述べられているから、彼らは牛や豚を殺すことに何のためらいも
ないのだろう。そういえば飼いきれなくなったペットの犬なども、あっさり殺処分
してしまうものね。死ぬまで面倒を見るという日本人とは〝動物観〟がずいぶん違う。

反捕鯨国の急先鋒、オーストラリア政府は、今度の日本のIWC脱退を非難して、
「極めて失望した。あらゆる商業捕鯨と調査捕鯨に断固反対する」
などとする声明を発表した。

(よく言うよ。どの面さげてこんなご託を並べられるのかね)
ボクからするとちゃんちゃらおかしい声明で、
(こいつら、いまだに白人上位の考え方に凝り固まっていやがる。
自分たちが犯してきたアボリジニ虐殺の歴史は、もうすっかり
忘れてしまったのかしら……)

オーストラリア大陸にはおよそ600万人の先住民が暮らしていた。
アボリジニと呼ばれる人たちである。そのアボリジニが今はわずかに30万人。
残り570万人のアボリジニはいったいどこへ行ってしまったのか。

ニューサウスウェールズ州の某図書館には、
こんなことが書かれた日記が所蔵されているという。
「週末、アボリジニ狩りに出かけた。収穫は17匹1927年)

アボリジニは当時、白人どものスポーツハンティングの対象だった。
手当たり次第、銃で撃ち殺していったのである。
50万人のアボリジニが住んでいたタスマニア島では、
そのほとんどが崖から突き落とされ殺された。
残った数千人は岩だらけの孤島に移され、全員が餓死した。


←1828年、白人が自由にアボリジニを
殺してもよい、とする法律を制定。
週末はカンガルー狩りをするみたいにアボリジニ
を狩った。写真は頭部のコレクション。




オーストラリアに敬虔なキリスト教徒がどれほどいるか知らないが、
いくらバカでも人間と動物の区別くらいはつくだろう。
アボリジニは人間? それとも動物?
黒いのとか褐色、あるいは黄色いのは人間ではなく〝猿〟だったっけ?

そういえばヒトラーの『我が闘争』の中で、
日本人のことを〝東洋の山猿〟と言ってたっけ。
さすがに日独伊三国同盟を結ぶ段になり、日本語に翻訳されるとなったら、
急遽この箇所はカットされたけどね。
ついでに言うと、米国のトルーマン大統領が日本に原爆を落とすかどうか
迷っている時、英国のチャーチル首相に相談したら、
「日本人は猿だからいいんだ」
と言われたとか。さすが紳士の国の首相は言うことが違うね。

そんな人種差別の国から追い出された政治犯を先祖に持つオーストラリア人だ。
「囚人の国」という元々の出自が卑しいからだろう、言うことも恥知らずで、
〝動物〟のクジラを食う日本人を野蛮だという。
〝人間〟のアボリジニをナチス並みに大虐殺しておいて、
あろうことか日本国を〝ならず者国家〟だという。

この際、ハッキリ言わせてもらいましょう。
恥を知れ、恥を!
無残に殺されていったアボリジニの怨みを生涯背負って生きてゆけ!
TPPが発効しようがしまいが、筋張ったオージービーフなんか
誰が食ってやるもんかよ!


←クジラが増え過ぎ、漁業資源が枯渇しつつある、
という科学的データをもっと信頼してほしいね。




photo/日本経済新聞

2018年12月16日日曜日

そばの〝ズルズル〟は迷惑行為防止条例違反か?

そば屋に外国人客が入ってくると、さっきまでズズーッと景気よくたぐっていた音が
ピタリと止む。「音をたてて食べるなんて野蛮だ」などと、例によって上から目線の
異人たちが言うもので、野蛮と思われたくない日本人客は、ムリしてお品よく
そばをたぐり出すのである。ところがこの異人客、日本人顔負けの〝ズルズル〟を
やり出したから、店内は一瞬〝シーン〟となるが、ほどなく客たちは一斉に〝ズズーッ〟とやりだした。世の中これだから面白い。

わが家は毎年、異国からの高校留学生をあずかっている。すでに長短期含め15ヵ国
くらいにおよぶだろうか。来年もドイツ人のイケメン生徒をあずかってはくれまいか、
と頼まれてはいるのだが、金髪ボインちゃん希望のボクは「また男かよ!」と半分
ふてくされ、いまだ意を決しかねている。

彼ら留学生と寝食を共にすると、もちろんそば・うどんを食べることだってある。
さすがにパスタ類を食べるときは音はたてないがそばやうどんとなると我らが領域だ。
さほど景気よく音をたてるわけではないが、こればっかりは天下御免とばかりに
品よくズルズルやる。ところが概ね白人たちは、音をたてて食べることに極度の
ためらいがあるから、いつだって口の中でモソモソやっている。日本ではズルズルが
憲法で保障されているし(ウソ)、「迷惑行為防止条例違反」でもないから遠慮なく
ズルズルやっていいんだよ、と委曲を尽くして説明してやっても、生れた時から
音たて食いをきつくたしなめられているから、そう簡単に〝野蛮人〟にはなり切れない。
習慣とは悲しくも怖ろしいものなのである。

そばというと思い出すのは杉浦日南子さん。漫画家であり江戸研究家でもあり、
そして無類のそば通でもあった。残念ながら13年前に急逝してしまったが、
その杉浦女史と軽井沢の「はなれ山ガルデン」でお会いし、そばに関して取材
させてもらったことがある。その際、そばの〝音たて食い〟について質問してみた。
「そばをたぐる〝ズルズル〟は江戸の昔からあったんですか?」

杉浦女史曰く、
《それはなかったですね。江戸300年の間には、上つ方の礼儀作法(小笠原流)が
下々のレベルまで降りていて、長屋の八っつぁん、熊さんでさえ、そばは口の中へ
押し送って食べていた。そばにしろタクアンにしろ、あからさまに音を立てるのは
はしたないとされてたんです》

それがまたどうして〝ズズーッ〟が一般的になってしまったのか、そのことを
重ねて尋ねてみたら、
《明治期、寄席で噺家が擬音によってそばを食べる場面を演じたら、
その所作が庶民の間で流行しちゃった。つまり仕方噺から出たというわけ》


杉浦女史の話では、《古来より日本では「にごり」を忌み、そばであるなら
「つるつる」はいいのですが「ずるずる」は下品とされてきた。だから、ふつうは
口をすぼめてたぐっていたんです》と。
おそらくこれらの禁忌は神道から来ているのだろう。神道は「にごり」と「けがれ」
忌む。言葉の濁りを忌むのもそのためだ。近頃は「やべぇ」とか「すげぇ」などと
いう濁った言葉の花盛り。日本語の清らかな響きは失われてしまった。

さて、こんな言葉がある。これも杉浦女史から聞いた話なのだが、
〝菊弥生(きくやよい)〟
という言葉だ。これを〝聴くや善い〟と洒落ることで、そばをたぐる音を聞くのは
耳に心地よい、とそばの「音たて食い」を正当化するようになったのである。
つまり、新そばが出盛る晩秋(10月末~11月初頭にかけての菊の季節)から桜の咲く
弥生(3月頃)までの期間にかぎって、かそけきそばの香りを楽しむため、音をたてて
たぐってもよし、とする暗黙のルールができたというわけ。しかし日清・日露戦役
後は、季節を問わずなし崩し的に〝ズズーッ〟とやるようになってしまった。

以上が杉浦女史から聞き取った話で、さすがに江戸文化に通じたお方、
目からウロコの「なるほど」と思わせる話ばかりであった。

こうしたそば文化にまつわる話を留学生相手に英語で説明するのは至難の業だ
ただでさえヨコ文字のきらいなボクは、
「日本では〝ズズーッ〟が正統なマナーなんだ。四の五の言わずに食べろ!」
とばかりに、異人顔負けの高圧的態度で申し渡すのである。
やはり蛮人の末裔か?








←杉浦さんの実兄は鈴木さんというカメラマン。
彼と何度か仕事をしたご縁で、妹御である杉浦女史
と会うことができた。生で見ると超小顔の色白美人であった。

2018年12月12日水曜日

端くれにも五分の魂

昼間っから団地内をブラブラしているから、怪しいやつと映るのだろう。
「失礼ですが、お仕事は?」
とよく訊かれる。
「ハァ……物書きです。といっても端くれですが……」
「どんなものをお書きになってるんですか?」
「そうですね、どっちかというと恥をかいたり大汗かいたりしてますね」
「…………?」

元市議会議員のI氏から、
「ささやかな自叙伝を残したいんだけど、代わりに書いてもらえませんか?」
と頼まれたことがある。まんざら知らない仲でもないので請けてもよかったのだが、
丁重にお断りした。なんだか気が乗らなかったのである。ボクは自著だけでなく、
他人の本も代筆する。いわゆるゴーストライターの仕事である。
それほど数をこなしたわけではないが、有名人の本は何冊か代筆している。

そしていま、久方ぶりに自分の新刊を出す予定でいる。
某有名出版社から、ありがたくも執筆依頼が舞い込んできたのだ。
もう齢も齢だし、頭も相当耄碌してきたので、このまま無為徒食を続けようと
虫のいいことを決め込んでいたのだが、
「お酒ばかり飲んでないで、少しは働いたらどうなのよ!」
と女房にきつく叱責され、しかたなく腰を上げることにした。
たぶん恥のかき納めになると思う。

近頃の新聞の新刊案内を見ると、純文学系の本が少なく、
ほとんどが〝ノウハウ本〟で占められていることが分かる。
こうやれば〝スマホ首〟が治る、だとか、半月板のズレを戻せば膝痛が治る、
あるいは定年後の〝断捨離〟をどうする、便秘に効くのは〝こうじ水〟
といった類の本ばかりだ。そうかと思うと、昔懐かし吉野源三郎原作の
『君たちはどう生きるか』が復活したりしている、漫画版だけど……(笑)。

安易なノウハウ本をバカにしているわけではない。
膝痛に悩むボクなんかさっそくアマゾンで注文したくらいだ。
しかしこの手の本を百万冊読んでもいわゆる教養は身につかない。
おそらく、スマホ中毒で〝スマホ首〟を患っている人間に
真の教養人は皆無であろう。片々たる情報などいくらかき集めても、
人間性に奥行きが増すわけではないのだ。

物書きの端くれとして言えるのは、月並みだが「文は人なり」ということだ。
どんな文章であっても、書き手の人間性、教養の度合い、ものの考え方、
政治的党派性といったものがすべて出てしまう。
ボクの文章は「クセが強い」とよく言われる。だから好いてくれる人が
いれば嫌う人もいる。ボクはそれでいいと思っている。
万人受けするであろう、差しさわりのない文章を書けないわけではない。
が、そんな文章を書いて何が楽しいんだ、という思いはある。

ボクの文章にクセがあるというのは、それはとりもなおさずボク自身が
クセの強い人間だからであって、ムリしてクセの強さを演出しているわけではない。「……てゆーか」とか「……っていうみたいな」とかいう、自信のなさから来る
今どきの若者言葉は一切出てこない。すべて断定調で「私はこう思う」と
ハッキリ書いてある。ボクの師匠である小林秀雄や山本夏彦、福田恆存もみな
断定調で書いていた。それはすなわち「文責はすべて私にあります」ということ
であって、語尾をボカし責任をはぐらかす姿勢とは無縁なのである。

ボクは高校時代に小林秀雄に心酔し、なけなしの貯金をはたいて
小林秀雄全集を買い込んだ。小林秀雄は難解、とよく言われた。
学校の教科書に載っている『無常ということ』といった文章に触れ、
反射的に拒絶反応を示してしまうのだろう。

ボクは格別頭がいいわけではないが、小林秀雄の文章は素直に胸に落ちた。
小林の男性的で硬質な文章がボクの好みでもあったのだ。たぶんボクは、
いまでも(小林秀雄みたいな文章が書きたい)と心の底で念じているのだと思う。
その小林の墓は北鎌倉の東慶寺にある。何度か詣でたことがあるが、
近く花でも手向けに行こうかと考えている。たまたま取材したい店が
北鎌倉の雪ノ下(小林は昔この雪ノ下に住んでいた)にあるから、よい機会なのである。

どんな文章にも肌ざわりというものがある。
その肌合いが合うか合わないか――その作家を好きになるかならないかは、
案外そんなところで決まってしまう。ボクが小林秀雄や山本夏彦を勝手に師と仰いで
いるのは、どことなく肌合いがあったから。馬なら乗ってみよ人には添うてみよ、
というではないか。作家に対しても添い寝の覚悟が必要なのだ。

ボクの本(『おやじの世直し』と『おやじの品格』)を読んだ読者が、
「古武士のよう」とか「徹頭徹尾硬派」といった感想を手紙に託して送ってくれた。
ちょっぴりこそばゆい思いがするが、素直にうれしい。
さて、次なる本にはどんな想いを託すとしようか。




←北鎌倉の東慶寺にある小林秀雄の墓。
苔むすままの古風な五輪塔だ。













2018年12月4日火曜日

モットーは「人にやさしく」

もしボクに取り柄があるとしたら、
「誰とでも気さくに話ができる」ということだろうか。
こどもの頃は「対人恐怖症」に似たある種の神経症に悩まされ、
おかげで友人と呼べる人間は一人もいなかった。
そのことは拙著などにも何度となく書いている。

いつの頃からか、過剰な自意識から解放され、
人と対しても緊張することがなくなった。
雑誌記者を長くやっていたからでもあるだろう。
〝場数〟を踏んだことで対人における〝慣れ〟が生まれたのだ。
だいいち、人に会うたびにむやみに緊張していたら商売にならない。
もちろん突っ込んだ取材などできやしない。
この記者という稼業、よくも悪くも面の皮がぶ厚くなるのである。

誰にでも気さくに話しかけられるという〝特技〟のおかげで、
友人らしきものがずいぶん増えた。今朝も隣町で朝のラジオ体操をしていたら、
和光市の元市議会議員だったというSさんと知り合った。
Sさんは東京は江戸川区の出身。昭和19年生まれというから、御年74だ。

「昔は刑務所が変わるたびに引っ越ししてな。福島にもいたし、
府中や小菅にもいた」
(えっ? このひとムショ帰りかよ……)
一瞬ドキッとしたが、Sさんの父親が刑務官だったので、
こどもの頃は転勤に次ぐ転勤だったのだという。
ああ、ビックリした(笑)。

昭和30年代だろうか、朝霞に「朝霞コマ劇場」という大層な名前の
ストリップ小屋ができて、近在の助平なオジサンたちは足繁く通ったという。
つい最近までわが家の近くにあったから、その存在だけは知っていた。
このSさんは常連で、よくかぶりつきで見ていたという。

最初は前座としてブヨブヨの不細工なおばちゃんが出てきて踊るのだが、
「もういいから引っ込め!」とか「もっと可愛い子はいないのかよ!」
などとヤジが飛ばされるという。心ない言葉といえばまことにそのとおりで、
このブヨブヨおばちゃんの胸中は察するに余りある。

時間の経過とともに踊り子たちは徐々に上玉となり、
きれいな若い子が〝俎板ショー〟を始めたりすると、
客たちは我先に舞台に駆け寄り、手を伸ばさんばかりに群がったという。
なかにはちょっと口にできないようなエログロの演出などもあって、
いくらなんでもお品のあるブログ上には書けやしない。

あれから幾星霜。小屋を閉める直前は外国人のストリッパーばかりで、
主にコロンビア出身者が多かったという。なかには馴染みになった
近くのジャズ喫茶に赤ん坊をあずけて出演するママさんストリッパーもいた
というから、いずこの世界でも生きるためには、みな必死だ。

昭和30年代、アパートを借りると東京あたりでは〝一畳千円〟という
のが相場だったらしい。池袋駅近くに借りたSさんの三畳一間は、
だから三千円だった。

一緒におしゃべりに興じていたSさんと同世代のNさん(元接骨医)は、
「あたしは六畳間を借りたんだけど、その前までずっと三畳間だった
から、六畳間に入ったときは何て広いんだ、と思った」という。
でも、その六畳間に家族6人も詰め込んだものだから、さあ大変。
夏場などはコタツを天井に吊るしてなんとか居住空間を確保したという。
貧しく必死だったのはコロンビア人だけじゃない。

で、ボクのもう一つの取り柄。
貴賤上下の別なく、人にやさしいことだろうか。
自分で言うのは小っ恥ずかしいのだが、ぼくは人を「差別」することが
何よりきらいなのだ。

蛇蝎(だかつ)のごとくきらうのは高学歴や輝かしい職歴を誇るおじさんたち。
ボクの住む団地にはこの手の〝昔偉かったおじさん〟が佃煮にするくらいいる。
話をしてみると、案の定、中身の空疎な人間が多く、
聞かされるのは糞の突っかい棒にもならない自慢話ばかりだ。
人間を長くやっていても、およそ教養の厚みというものがまるで感じられない。
「高慢」というのは実に空疎なものだ。

ボクの周りにはおかげさまで高慢ちきな人間は一人もいない。
学歴など毛筋ほども関心がないから、話題にのぼることもない。
どうでもいいのだ、そんなもの。

嗚呼、あのストリップ小屋で「引っ込め!」とヤジられたおばちゃん。
なんとか気丈に生きていってくれただろうか。
小さな幸せを掴んでくれただろうか。











2018年11月29日木曜日

天狗のお相手はわれらがご先祖さま

今月の26~27日、1泊2日で愛知県の西尾市へ行ってきた。
埼玉県和光市のわが家から往復で約800キロ。カミさんは
「運転手付きのお大尽と結婚するつもりだったから運転免許はないの」
(お大尽でなくて悪かったね……)
カネには生涯縁がないであろうという慢性金欠病の男に嫁いでしまった、
男運のないわが女房。哀れではあるが、おのれの不明を悔やむしかあるまい。
ま、そんなノーテンキな女房だから〝お抱え運転手〟のボクが右腕マヒにもめげず、
ハンドルを握るしかなかった。こちらこそ哀れである。

西尾市など聞いたこともなかった。が、カミさんのご先祖ゆかりの地だというので、
一族郎党の誰も足を踏み入れたことのない西尾市にボクら夫婦が一番乗りした。
東名高速を降りてすぐの岡崎市にまず1泊し、朝早くに一路西尾市へ向かった。

カミさん(旧姓:河合)ご先祖は河合八度兵衛(やっとべえ)という剣と槍の達人で、
三河西尾藩の槍術師範をしていたらしい。禄高は200石と記した古文書もあるし、
100石と記した『当勤知行取出所略記』もある。日本で初めての古文書の博物館とされる
市内の「岩瀬文庫」に照会してみたところ、すぐさま分限帳2冊を見せてくれた。

八度兵衛の名を探したところ、馬廻役100石とあった。その数代遡ると、
河合半兵衛重明という人物が登場。どうやらこの人物が系図で辿れる
最初のご先祖らしい。このご先祖は禄高200石を拝領していた。
古文書をスラスラ読めるという係の人の助けを借りて読み進んでいったところ、
何かの戦で武功をたてたのか、主君の覚えめでたき人物であったらしい。

いっぽう河合八度兵衛は、この地方に伝わる『天狗の羽うちわ』という民話の中に
主人公として登場している。乱暴狼藉やいたずらの絶えない天狗を得意の剣術で
懲らしめ、戦利品として羽うちわをせしめる、という逸話である。



←盛巌寺の境内で剣術の稽古に
励む河合八度兵衛。











その八度兵衛が毎朝素振りの稽古に励んだという盛巌寺にもおじゃました。
が、あいにくご住職が不在で、天狗と八度兵衛の民話が生れた背景を
聞きそびれてしまった。「後日、手紙にて照会してみるつもり」と、
カミさんはとことん調べる心づもりのようである。

つい最近復元されたという西尾城にも足を運んだ。
百石取りの武士が住んでいたという百石町(現大給町)と馬場町も
歩いてみた。民話によると、剣術の稽古に励んだ盛巌寺の近くに住まいが
あったらしい。というのは、天狗から羽うちわをせしめる際にこんな誓約を
させられる。
「(天狗から)羽うちわをもらったということは他言無用。絶対口外しないと
約束していただきたい。もし一言でも漏らせば必ず災いがもたらされよう」

八度兵衛はこの約束を律儀に守るが、十数年後、友人宅で酒を酌み交わしている際に、
酔余の勢いなのか天狗との約束をついつい忘れてしまう。天狗との果たし合いに
勝って羽うちわをせしめたと、うっかり自慢気に口外してしまうのだ。
すると突如門外で「火事だ、火事だァ!」と叫ぶ声が。あわてて飛び出すと、
自宅のある盛巌寺の付近から朦々(もうもう)と火の手が上がっている。

←哀れ屋敷は燃えてしまった。
可哀そうなご先祖さん(笑)。









八度兵衛は一目散で駆けつけるが、屋敷はみごと灰燼(かいじん)に帰していた。
古今東西を隔てず、童話とか民話には「うそをつくな」とか
「親の言うことはよく聞け」といった訓戒話が多いのだが、
この『天狗の羽うちわ』には「約束事は守ろうね」とか「自慢話はほどほどに」
といった戒めがこめられているのかもしれない。

われらがご先祖さまが約束を破った張本人として描かれている、
というのはご愛敬だが、それも剣術の達人であったからこそ
天狗の相手役に抜擢された、ということであって、
子孫にとって名誉であることには変わりはない。
もっと言えば、この民話には運と不運、名誉と不名誉が表裏一体のもの
として描かれている。『平家』の盛者(じょうじゃ)必衰の理(ことわり)
とまでは言うまいが、人生の流転変転を暗示しているところが教訓的で、
われら凡夫匹夫は四の五の言わず謹んで承る、というのが筋なのではあるまいか。

またこんなふうにも考える。ご先祖が一介の武弁、すなわち四角四面の
しゃっちょこばった武人ではなく、おっちょこちょいで軽忽(けいこつ)
一面を持った剣術遣いだった、とするところがかえって親しみやすく、
多くの共感を呼ぶような気もする。

ボクの直接のご先祖さまではないが、相方の側にこんなユーモラスな
ご先祖さんがいた、ということだけでも、なんだかホッコリとした気分になる。

長時間のロングドライブは老骨の身にはいささか厳しいものであったが、
得るものもまた大きかった。女房も至極ご満悦な顔で帰途についた。



←小ぶりだが、勇壮な威容を誇る西尾城。


2018年11月21日水曜日

今年も年賀状は控えさせていただきます。

ボクは満65歳を迎えたのを機に、心と身体の〝断捨離〟をすべく
年賀状やお中元、お歳暮の類のやりとりを一切やめてしまいました。
しかしカミさんは別で、従前どおりのやりとりを続けております。

お役所から「前期高齢者」のレッテルを貼られたこと自体には多少の反発を
感じましたが、身体のあちこちが錆びついて、油切れを起こしているのは
確かなことなので、この際、心身ともにすべてを〝初期化〟し、もういっぺん
ゼロから出発しようと考えたのであります。

伝統主義者のボクとしては内心忸怩(じくじ)たるものがあったのですが、
義理と人情のしがらみにがんじがらめになっていると、やるべきことが
できなくなる恐れがありますので、この際、目をつぶって「エイヤーッ!」
とばかりに、あえて不義理を断行させてもらったのであります。

というわけで、今年も年賀状は失礼させていただきます。
お歳暮も贈りません。年賀の挨拶回りもいたしません。
なかには「無礼千万なやつだ!」とお思いの方もあるでしょう。
兄弟親戚といった身内のものは、みなそう思っているかもしれません。

ただ賀状と中元、歳暮のやりとりを控えさせていただく、
というだけで、向後いっさいおつき合いをやめます、というわけではありません。
おつき合いは今までのまま、ただ形式ばった賀状や物品のやりとりは
控えさせていただく、というだけであります。

『血は水よりも濃い』という西諺がありますが、一方で、
『遠くの親類より近くの他人』という諺もあります。
疎遠になった親類より親密なつき合いの他人のほうが、
いざとなったら頼りになる、という意であります。

ボクも正直そう思います。実際、赤の他人の友人たちのほうが
何かと力になってくれますし、仲間内に長幼の序にうるさい叔父叔母の
ような人はいません。兄貴風を吹かす小うるさい輩もいません。
気楽でいいのです。

唐突ですが、Christmas is just around the cornerであります。
そしてほどなく大晦日が来て新年が明けるでしょう。
あっという間であります。
まるで人の一生のようです。

思えば突然襲ってきた右腕神経マヒとの闘いの1年でありました。
箸も満足に持てなかった右腕がちょっとずつ、ちょっとずつ動くようになり、
今では曲がりなりにもキャッチボールらしきものもできるようになりました。
医者はやたらと手術を勧めましたが、やらなくてよかった、と今は思っています。
マヒの原因である頸椎にメスを入れる手術は成功の確率が低く、
運よく成功しても、
「5年後に25%くらい動くかな……」
などと、担当医はのんきなことを言っていました。

しかし失敗する確率が高く、へたをすると下半身マヒの車椅子生活だよ、
と物騒なことも言われていました。そのため女房とよく相談し、
総合的判断から手術をあきらめたのです。

代わりにリハビリ科のある病院に転院し、腕の可動域を拡げるトレーニングを
根気よく続けました。その熱意が天に通じたのか、ピクリとも動かなかった
右腕が徐々に動くようになりました。発症から1年が経過しましたが、
医者の言う5年後25%どころか、わずか1年で80%くらい回復しています。
周囲のものは回復力の早さにみなびっくりしています。
手術をしなくてほんとうによかった。

「ボーッと生きてんじゃねーよ!」ではなく「あんまり頑張りすぎるんじゃねーよ!」
と、あのチコちゃんに特別バージョンで叱られそうな1年でありました。

来年はもっと良き1年でありますよう、粉骨砕身努力いたす所存であります。



←去年出した年賀状欠礼のお知らせ。









2018年11月20日火曜日

小児のような年寄りになりたい

ボクは雑誌記者を長くやってきた。
月刊誌の編集をやっていた頃はもちろん、フリーランスの記者になってからも、
手当たり次第に記事を書き、雑誌に投稿していた。
食わんがために、エッチな記事もいっぱい書いた。
今は雑誌に記事を書くような仕事はまれにしかしていなくて、
たまにゴーストライターの依頼があれば、
有名人の本をリライトしたりしている。

記者生活が長いと、当然ながら多くの人と出会う。
テレビによく出てくる有名人もいれば、文化勲章を
もらうような偉い人もいる。多くは名もない庶民だが、
彼らは一様にこう言う。
「あなたと話してると30分で丸裸にされちまう」と。

取材の場数を踏むと、どんな能無し野郎でも一丁前のフリはできる。
ボクのようなボンクラでも、傍目には腕っこきの記者に映るのだ。
記者稼業を長くやっていると、自然と度胸というか、図々しさが身につき、
どんな偉いさんと会っても動じなくなる。ほんとうはあがってしまっているのだが、
平常心を装う術に長けているので、傍目にはわからない。
心臓に毛が生えているのである。

取材で大切なことは、相手を過度に緊張させないことだ。
硬い質問ばかりでなく、時には冗談を飛ばし、雰囲気を和ませる。
むずかしそうに思えるかもしれないが、場数を踏んでいれば、自然と
身につく話術で、要はふだん通りの自分を出して話せばいい。
つまり、しゃっちょこ張らずに気さくに話しかければいいのだ。

初めて会う人でも、だいたい10分間話すと、人物の軽重が知れてくる。
もっと話すと教養を形作っているであろう知のバックグラウンドが容易に想像できる。
自己韜晦(とうかい)しようとしてもダメ。
目を見れば、心の裡側が問わず語りに見えてしまう。

(ああ、この人は人物だなァ……)
と畏れ入るような大器は、めったにいない。
上から目線の偉ぶっている人ほど小物が多く、発言も月並みだから、
ほとんど記事にならない。実るほど頭を垂れる稲穂かな、
という俚諺をそのまま実践しているような高徳の人物はすでに払底して
しまったのか、絶えてめぐり会ったことがない。

親鸞は自分のことを愚禿(ぐとく)と称した。
親鸞に倣ったわけではないが、ボクも自身を愚物だと思っている。
さて、わが団地には高学歴の人が多く、大学の先生やら医者、弁護士といった
〝偉い人〟が佃煮にするくらいいる。辞を低くする謙虚な人も中にはいるが、
たいていは自分のことを世の中で一番利口だと思っている。
ひとかどの人間だと思い込んでいる。ボクにはそう見えてしまう。

団地総会や棟の総会で発言する人はいつも同じ顔ぶれ。
(またあいつかよ……)
みな半分呆れている。吐くのは手垢にまみれた正論ばかり。
周りがみんなバカに見えるのか、得意満面の高っ調子でしゃべり続ける。
みなウンザリしている。

こんな田舎町の団地に高徳の士を求めること自体が荒唐無稽なこと
なのかもしれないが、「おれは一番の利口者」といった高慢チキな顔に出会うと、
つい顔をそむけてしまう。ボクは鼻っ先に才気をぶら下げ、
得意になっているような人間が大きらいなのだ。

いつも若芽のように好奇心にあふれ、
齢を重ねても金輪際〝わけ知り顔〟はしない――。
そんな小児みたいな年寄りになりたいと、
いまは心より希っている。









2018年11月19日月曜日

メロスになれるかなれないか

英語のことわざに A friend in need is a friend indeed.というのがある。
「まさかの友は真の友」とか「困ったときの友こそ真の友」という意味だ。
太宰治の『走れメロス』という作品を思い浮かべたりするが、人質にとられた
友セリヌンティウスの命を救うため、メロスは様々な困難に打ち勝って、
今まさに処刑される寸前の友を助ける。メロスは途中でいっそ逃げ出そうと何度も思い、
そのことをセリヌンティウスに正直に打ち明ければ、友もまた一瞬ではあったが
メロスを疑ったことを告げて詫びた。

こんな美しい友情というものが、塵芥にまみれた薄汚いこの世に、
ホンマに存在するのかいな、なんて、若い頃は信じがたく思っていて、
実は今もほとんど信じていないのだが、この友情を親子や夫婦の愛情
という関係に置き換えると、ストンと胸に落ちるというか、十分あり得るな、
と納得できるのである。女房や娘たちのためなら、命がけで救出に向かう。
親であり夫であれば、誰もがそうするだろう。

ボクには〝飲み仲間〟とか〝キャッチボール仲間〟〝水泳仲間〟といった
仲間たちがいっぱいいる。あえて〝仲間〟と呼ぶのは、友達とか親友と呼ぶのが
いささかはばかられるからである。自著にも幾度となく書いているが、
ボクにはかつて友と呼べる人間がひとりもいなかった。

だから早くから生身の人間との友情をあきらめ、死んだ人との友情を深めることに
力を注いできた。ボクと親しく語り合ってきたのは、いつだって死んだ人だった。
「読書尚友」という言葉がある。書物を通じて先人に親しむという意で、
目黒のサンマではないが、友達は死んだ人にかぎるのだ。

そうはいっても、気のいい仲間たちに囲まれていると、
生身の人間たちとの友情も捨てたもんじゃないな、とも思う。
しかし便宜的につながっている友情でもあるので、
いつ壊れてしまうかは互いの努力次第ということになる。

ボクは1年ほど前、頸椎損傷による右腕の神経マヒにおそわれた。
腕神経叢ひきぬき損傷というのも同時に併発した。ダブルでマヒしてしまったのだ。
右腕はほとんど動かず、箸すらも持てないありさまだった。
ボクは大好きな水泳をあきらめ、ギター演奏をあきらめ、仲間たちと
毎週やっていたキャッチボールをあきらめた。左腕一本で
生きてゆこうと心に決めた。

ところがリハビリの効果か、動かなかった右腕が少しずつ動くようになった。
今では曲がりなりにも泳ぐことができるし、ギターも弾ける。キャッチボール
だってそこそこできるまでに回復した。仲間たちはこの復活を心から喜んでくれた。
この1年、意気消沈していたボクの気持ちを支えてくれたのは、家族と仲間たちだった。

しかし一方で、「in need」なときにそばにいてくれなかった仲間もいる。
毎週のように会っていた仲なのに、1年の間、一度も顔を見せなかった。
ボクにはそのことがとても悲しかった。
彼が落ち込んでいた時には、いつだってそばにいてやったのに……。

A friend in need is a friend indeed.
この西諺が否応もなく心に沁みる1年だった。






←太宰はどんな気持ちから
この作品を書いたのだろう。
ボクにはよくわからない。

2018年11月14日水曜日

政治の話ができない男はタ〇なし野郎!

近頃の若い人は政治の話をしないのだそうだ。
NHK BS1の「クールジャパン」という番組で、そんな調査報告をしていた。
たしかにそうかもしれない。若者同士でお堅い政治談議を戦わせている場面など、
ついぞ見たことがない。

実際、番組の中で街行く人に訊いてみると、
「ええーっ、政治の話ですか? しないですね。関心ないし……」
「政治の話をすると雰囲気がギスギスしてくるでしょ? それがいやですね」
「いろんな考え方の人がいて、政治の話題だと考え方の違いが
もろ浮き彫りになっちゃう。誰もみな友達と対立するのがいやなんですよ」
などという意見が大半だった。互いの親和を築くことが優先され、
意識的に対立を避けている感じだ(ボクなんか、そこまでして友達がほしいなどとは思わない)。

女性はそもそも対立を避け親和を築こうとし、逆に男性は対立点を見出し、
異論をぶつけ合うことで真の友情を育もうとする――そんな内容のことが
物の本に書いてあった。あたらずといえども遠からずか。

ボクなんかもろ対立を厭わない部類で、むしろ意見の対立を望んでいるような
ところがある。生来酔狂な性格なのだ。世代的にはスチューデントパワーが吹き荒れ、
大学の構内に〝立て看〟があふれかえっていた世代で、話題といえば
辛気臭い政治の話ばかりだった。ボクはノンポリながら、どちらかというと
左翼思想のシンパだった(今はリベラル嫌いの最右翼だけどねw)

ボクはよく酒を飲み、仲間たちと議論を戦わすが、話題といえばほとんど
政治絡みの話ばかりである。日韓の慰安婦問題、徴用工問題、憲法改正
すべきか否か、戦後民主主義はインチキか否か……酒の肴は苦みの利いた
政治の話ばかりなのである。

仲間の中にはボクが蛇蝎(だかつ)のごとくきらう朝日新聞大好き人間や、
中国大好き人間、またウソと整形顔だらけの韓流ドラマに目がないおばちゃん
などもいるが、ボクはまったく気にしない。
いろんな考え方があってしかるべきだし、絶対的に正しい意見なんてあるわけない。
ボクは相対的な考え方の持ち主なので、異論は大歓迎なのだ。

ただし、虫の居所がわるい時はケンカになることもある。
言い争えばしこりは残る。論破したからって、相手に恨まれるだけで、
何の得にもならない。でも、勢い余って「顔を洗って出直してこい!」
などとやってしまう。持ったが病で、こればっかりはどうしようもない。
根っからの〝ケンカ屋〟なのだ。

去年、わが家にホームステイしたフランス人留学生のルカLucas Blancは、
「お父さん、捕虜の生体実験をした731部隊についてどう思う?」とか、
「ドイツは謝ったけど、日本はアジア諸国に謝っていないよね」
などと、さもしたり顔でボクに論争を挑んできた。

高校生のルカとbook-wormのボク(年齢差50年)とでは知識の絶対量がちがう
だけでなく、彼は戦勝国に都合のいい歴史を習ってきているので、
事実誤認があるよと軽く反論するだけで黙らせてしまうことができる。
しかしボクは歴史や政治に興味を持ち、相手が嫌がりそうな質問もあえてする
「その心意気や良し」と思っている。
ところが日本の若者ときたら、そもそも「731部隊」を知らないし、
先の大戦のことなど何も知らない。

「えっ? 日本とアメリカが戦争をしたんですか? で、どっちが勝ったんです?」
これ、日本の高校で実際にあった生徒たちの反応だという。

一方、フランス人とイタリア人は「女と政治とサッカー」の話ばかりしている
というから、ルカが政治や歴史に興味を持つのはごくごく自然なことなのだろう。
しかし、通っていた日本の高校で、同級生たちと政治の話ができただろうか?
おそらく政治の〝せの字〟も出なかったであろう。政治家志望のルカにとっては、
さぞ欲求不満の日々だったに違いない。

若者よ、差し障りのないインターネットゲームや女の子の話ばかりしていないで、
たまには政治や歴史の話をしたらどうなんだ。意見が対立したって
いいじゃないか。言い合いになったら、最後は腕っぷしにものを言わせてやれ。
世の中「暴力はんた~い!」「話し合えば分かりあえる」の掛け声だらけ。
そのせいか、なよなよした草食系の男ばかりが拡大再生産されている。

対立こそが親和を生むのである。
対立を避け、自分を押し殺して築いた友情なんて屁みたいなものだ。
あっという間に砕け散り、跡形もなく消え去ってしまうだろう。

自分の思想的立場を旗幟鮮明にし、大いに論争をやるべし。
そして大いにケンカをすべし。
思いきり言い合い、殴り合ったら、互いの健闘を称え合い、肩を組んで飲むべし。
男の友情なんてものはそんな古典的図式の中にしか生まれない、
と昭和生まれのボクはいまだに信じている。



←こういうの、むかし何度もやったなァ。



2018年11月6日火曜日

ご先祖さんは槍の達人

勝海舟、山岡鉄舟と並び「幕末の三舟」と謳われる高橋泥舟。
徳川慶喜に仕えた槍術師範で、その技量は海内(かいだい)無双、
神の業に達したとの評もあった。槍は自得院流(忍心流)で、
無刀流で知られる山岡鉄舟は義弟に当たる。

高橋は槍術の腕を見込まれ講武所槍術教授となるが、後に伊勢守を叙任、
幕府が鳥羽伏見の戦いに敗れた後は、徳川慶喜の護衛役をつとめ、
その任を解かれた後は二度と再び仕官することなく、草莽(そうもう
に隠れて生涯を終えた。

仕官しない理由を、
狸にはあらぬ我身もつちの船  こぎいださぬがかちかちの山
と昔話の『かちかち山』にかけて狂歌に詠み込んでみせた。
「泥舟」と号したのは、おそらくこの狂歌に拠っているのではあるまいか。
槍の達人ながらこうした洒脱さも茶目っ気もある。書にも優れていたというから、
文武両道の鑑みたいな男だったのだろう。

泥舟はこんな歌も詠んでいる。
野に山によしや飢ゆとも葦鶴(あしたず)の  群れ居る鶏の中にやは入らむ
武士は食わねど高楊枝。痩せ我慢こそが高貴な美意識を生む。
節を曲げ自分を貶めてまでべんべんと生き永らえたくない、ということだろう。
ボクはこうした泥舟の潔い生き方が好きで、
人間はすべからくこうありたいもの、と常々思っている。

「卑怯なマネをするな!」
「人と群れるな!」
ボクのモットーがこれで、高橋泥舟の孤高の生き方から多くを学んでいる。
娘二人にもそう教えたつもりだ。付和雷同はボクの最も唾棄(だき)するところ
なのである。

ボクの母方のご先祖は武蔵国一の大藩・川越藩の藩士だった、と聞いている。
禄高等はわからない。たぶん下級武士とか足軽の類だろう。
一方、浜松出身の女房(旧姓・河合)のご先祖は、三河西尾藩の藩士で、禄高は300石。
西尾藩士の俸禄をみると100石以下がほとんどだから、
300石となれば立派な上士だったにちがいない。

こうなると彼我の力の差というか貫禄の差は明らか。
何かの拍子に女房と口げんかをしたりすると、
「下郎、無礼は赦しませぬ、下がりおろう!」
などと一喝、ついでに思いきり打擲(ちょうちゃく)されるかもしれない。
嗚呼、くわばら、くわばら(笑)。

さて徳川家康・織田信長連合軍と武田信玄がガチンコ勝負した「三方ヶ原の戦い」。
あいにく家康は大負けしてしまったが、その戦いにも我らがご先祖様は参戦している。
河合八度兵衛(やっとべえという名で、童話の『天狗の羽うちわ』にも登場する
人物である。

つまり、ボクらはサムライの子孫で、おまけに河合八度兵衛は西尾藩の
槍術師範だった。ボクの敬愛する高橋泥舟と同じ槍の達人だった、というだけで、
ボクなんか感泣(かんきゅう)してしまうのだが、八度兵衛は女房殿のご先祖さま。
ボクとはまったく関係ないのだが、どうかすると深い縁(えにし)みたいなものを
感じてしまうのはどうしたことか。

日本人の宗教観は神道と先祖崇拝から出来上がっているという。
ご先祖さんが武士だろうと、農民・町人だろうと関係ない。
自慢じゃないが、ボクの父方のご先祖さんはおそらく秩父あたりの
〝山猿〟であっただろう。それでもご先祖あっての今の自分である。
猿だろうと貉(ムジナ)だろうとあだやおろそかにはできぬではないか。
せいぜいご先祖さんの名を汚さぬよう、これからも公明正大に生きてゆきたい
と思っている。



←映画『どら平太』。
新任の町奉行・望月小平太が藩の悪人バラを
退治する痛快時代劇がこれ。役所広司が主演で、
大ヒットした。この藩の舞台となったのが、
女房のご先祖さんが出仕した三河の西尾藩。
小藩ながら時の老中などを輩出した由緒ある藩
として知られる。原作は山本周五郎の『町奉行日記』。
筋の運びが巧みな優れた小品である。









さて長い間、ブログをお休みさせてもらったが、
気候もよくなったので、またぼちぼち書かせてもらうことにします。
どうかご贔屓に。



2018年7月26日木曜日

夏期休業



あんまり暑いので(ゼーゼー)、
ブログはしばらくお休みします(ゼーゼー)。


ただでさえ腐りかかっている脳みそが、連日の酷暑で発酵し、
文字どおりの〝マルコメ味噌〟になりかかっているのです。


いまは一日中、ボーッとしています。
何も考えられません。脳が機能停止状態なのです。


子供の頃は暑い夏が待ち遠しかったのですが、今は逆。
もう夏はコリゴリです。たくさんです。


頸椎(けいつい)損傷のため右腕もマヒ状態。
得意の水泳もかないません。
だから運動不足でデブデブになってます(これがまたよく飲み、よく食べるもんね)
これではせっかくのイケメンも台無しです(←自分で言うな!)


で、何するでなく家の中で終日ボーッとしています。
本を読めば数分で眠りこけてしまいます。
無為徒食がもっぱらで、ただべんべんと日を送っているだけ。
まるで痴呆老人みたいです。


脳の機能が正常?に戻りましたら、ブログを再開いたします。
しばしのご猶予を(たぶん8月いっぱいはダメかも……へたすると9月も🙇)。



←かつて水泳大会に出ていた頃の
ボクの勇姿。自慢じゃないが、
バタフライではちょっとしたものだった。

2018年7月12日木曜日

天下にバカを公言する「ら抜き」言葉

テレビの〝バラエティ〟と称するバカ番組をたまたま目にすると、
出演者のほとんどが「出れる」「見れる」「食べれる」などと、
いわゆる「ら抜き」言葉を使っている。ひどいのになると、女子アナまで
いっしょになって「出れない・見れない」などとやっている。
ボクはこうした薄汚い言葉を耳にすると、自動的に心悸が高ぶり凶暴性が
増すので、これまた自動的にチャンネルを変えることにしている。

衆寡敵せずというが、いまや「ら抜き」言葉に抵抗しているのは、
日本国じゅうでわが家だけではないのか、と錯覚を起こすほど、
「ら入れ」派の形勢は風前のともしびとなっている。
言葉の感染力はペスト以上に圧倒的なものなので、近く「ら入れ」派は壊滅し、
「出れる・出れない」などと無教養な言葉を操る日本人ばかりが国じゅうに
溢れかえることであろう。
末世というほかない。

ボクは6年前に文藝春秋社刊行の『日本の論点』という浩瀚な本に、
最近の日本語についての考察を書かせてもらった。ごく一部だが抜粋してみる。
《「ら抜き」に次いで猛威をふるっているのが「さ入れ」言葉だ。
「読ませていただきます」が「読ま〝さ〟せていただきます」、
「行かせていただきます」が「行か〝さ〟せていただきます」
といった具合だ。
 鳩山由紀夫元首相のスピーチは「させていただく」のオンパレードだった。
伝染力が強いのか、政治家は「お訴えをさせていただきたい」とか
「汗を流させていただきたい」という言い方を好んで使う。
 東国原英夫前宮崎県知事などは、あるとき自らの談合問題にふれ、
「私も、かつて不祥事を起こさせていただきましたが……」と口走ってしまい、
あわてて言い直す始末だった……中略……「さ入れ」言葉は、一律に
「動詞+させていただく」式に変換していくため、自動詞を謙譲語化するたびに
「させていただく」が飛び出してくる。
 「させていただく」という表現を〝下品〟と評するリンボウ先生こと林望氏は、
「これを多用する世界の人たち、すなわち芸能人、学者、政治家というのは、
内実傲慢で外側だけ謙遜という共通した属性を持つのが一般的」
と冷たく切り捨てている》

文芸評論家の福田恆存は「ら抜き」言葉についてこんなふうに言っていた。
まず《音がきたない》と。「見れる」より「見られる」のほうがきれいに
響くのは後者のほうがmiとreの間にraが入るから、としている。

母音だけひろうと前者はi・eとなり、後者はi・a・eとなる。aは最大の広母音
で、iは最小の短母音である。広母音は広大、寛濶(かんかつ)の感を与え、
短母音は急激、尖鋭の感を与える。つまり広母音のほうがゆったりと大らかな
響きを与え、「ら抜き」の短母音はせわし気で尖がった響きを与えるというのだ。

それともう一つ。福田氏は《「見られる」のほうが歴史が長い
と言っている。換言すれば、過去の慣習に負っているということだろう。
明治以来、殊に戦後は「過去」とか「慣習」とかいう言葉は
権威を失ったが、少なくとも言葉に関する限り、これを基準としなければ
他に何も拠り所がなくなってしまい、通じさえすればよろしいということに
なってしまう

箸の持ち方が悪くても、食べられさえすればいいじゃん、とする
「結果オーライ主義」。戦後はまさにこの〝結果オーライ〟の天下だが、
「ら抜き」「さ入れ」もおそらくその延長線上にあるのだろう。

言葉も立派な日本人の歴史であり、民族の共通の記憶である。
美しい日本語を後世に伝えるためにも、通じさえすればいいとする
「ら抜き」や「さ入れ」言葉を徹底して排除しなくてはならない。

多勢に無勢、ということはむろん承知している。
しかし嶋中家の血を継ぐ者たちは、少なくとも「ら抜き」「さ入れ」言葉には
徹底抗戦する覚悟だ。この点については、女房もめずらしく賛同してくれている。
徒労感にむしばまれること必至だろうが、最後の一人になるまでがんばるつもりだ。


←この本で、ボクは「日本語」と「環境問題」
というテーマを担当した。

2018年6月25日月曜日

サッカーはこの世の写し鏡か

外国へ行くと、横断歩道で交通信号を守らない人がけっこういる。
右見て左見て、車が来なかったら赤信号でも平気で渡ってしまう。
ただしマヌケなことに轢(ひ)かれてしまったら、自己責任で文句は言わない。
交通ルールは尊重するけど、それを絶対とは思わない。
融通無碍と言うのか、法律とは個人を縛るものではなくむしろ解放するもの、
という考え方で、責任取るんだから「文句ねえだろ!」という理屈なのだ。

ボクも横断歩道の信号は守ったり守らなかったりする。
明らかに車が来なかったら、堂々と渡ってしまう。
ただし小学生などが信号待ちしていたら青になるまで待つ。
子供たちのお手本になるべき大人が、平気で赤信号を渡ったら
ちょいとばかりあんべえ悪いだろ。もちろん偽善的な行為だが、
ここは「ホンネ」ではなく「タテマエ」で押し通すのである。

子供の見ている前で、赤信号を無視して渡るという手だってもちろんある。
「世間なんてものはな、きれいごとだけじゃあ済まされないんだよ!」
と、大人の世界の実相を目の前に広げて見せてやる。
もちろん実践教育の一環としてだ。

子供の視点から見た大人世界の奇怪さを童話にしたのが、
ボクの愛読書でもあるサン=テグジュペリの『星の王子さま』だ。
王子さまは大人たちの奇矯な行動を目にするたびに、
〝The  grown-ups are certainly very odd.(大人ってわけわかんなーい)
と当惑気味につぶやく。

さて、ボクも含めた大人たちは子供たちを前にこう言って諭す。
●ウソはつくな!
●卑怯なマネはするな!
●ルールは守れ!
立派な教えで、古くは会津藩の「什(じゅう)の掟」にもあるし、
薩摩藩の郷中(ごじゅう)教育の中にもある。

話変わってロシアW杯のサッカーについて一言。
あれを子供に見せるべきか否か、という問題だ。
ボクは正直、サッカーは好きではない。
理由ははっきりしている。どいつもこいつも反則ばかりで、
汚い手のオンパレードだからだ。

ペナルティキックを得るためとかフリーキックを得るために、
敵方とぶつかり合うたびに大げさに倒れ込む。ダイブと呼ばれる反則行為だ。
スローで見てみると、ちょいとさわった程度なのだが、
足の骨を折ったかのように大仰に倒れ、ウンウンと唸りピッチを転げまわる。
しかし審判が無視すると、数秒後には何事もなかったかのようにすっくと立ちあがり、
元気いっぱい走り出す。
何なんだよ、あれは?

ブラジルの名選手ネイマールも、ロシアW杯のコスタリカ戦でそれをやらかした。
ビデオで見ると、ネイマールは誰ともぶつかっておらず、明らかに
〝シミュレーション(ファウルをされたふりをする行為)〟だと分かる。
フェアプレー精神もクソもない。サッカーという競技は騙すかだまされるか、
という「反フェアプレー精神」を、これでもかというくらい究極まで追求した、
実にあざとく、とことん勝利至上主義に徹したうす汚い競技なのである。

こんな反則ばかりがてんこ盛りの競技を純な心を持つ子供に見せたら、
「大人って汚いね」「ぜんぜんルールを守らないね」
「誰も見てなかったら、悪いことをしてもいいんだね」
「大人の世界ってウソで固めた世界なんだね」
などとこの世の実相に絶望し、反社会的人間になってしまうのではないか。
ボクはついそんなことを憂え、考えこんでしまうのである。

子供の社会が純粋で美しい、などとは毛ほども思わないが、
できれば「予定調和的」に、この世の実相をちょっとずつちょっとずつ
知っていってほしい。男女の秘め事だって時が来れば自然と分かる、
というのが一番いい。だがインターネットが普及した時代にあってはそれは叶わず、
若年にして知らなくてもいいことを知ってしまう。
早熟も早熟、けた違いの早熟児が世界中に溢れ返っている。
この事実は、決して喜ばしいことではない。

子供は徐々に大人になるのがいい。
正邪美醜、理非曲直は齢を経るごとに自然と理解するのがいい。
急いで学んだものにロクなものはない、と知るべし。

現にボクは、小学生の時すでに吉行淳之介の『砂の上の植物群』や
『原色の街』『驟雨』といった娼婦を題材にした小説を読んでいた。
早熟だったのだ。で、とどのつまりはロクデナシになり果てた、というわけ。
これ、ボクのささやかな人生訓だ。

←なんと大げさに倒れることか。
サッカー選手より役者をやれ!










2018年6月21日木曜日

自己主張は恥ではない。

概して日本人は自己主張が苦手といわれている。
「あの人は自己主張が強くて……」というと、日本では褒め言葉ではなく
協調性のない自分勝手な人、というマイナスイメージにつながってしまう。

また日本人は国際的な交渉の場では口べたで議論に弱い、ともいわれる。
そういえば日本人は国際社会から「3S」の〝尊称〟を奉られていたことがある。
国際会議などでは、いつも「Smile」「Silent」「Sleep」が常態化していて、
まるで存在感がなかったからだ。それが「島国の民」の美点といえば
美点なのだが、悲しいかな外交の場では逆に弱点になってしまう。

その弱点がもろに露呈したのが、いわゆる「湾岸戦争」('90~'91)の時だ。
約12万のイラク軍がクウェート領内に侵攻したことから始まった戦争で、
29ヵ国からなる多国籍軍がイラク軍を追い払った。憲法上の制約で、
日本は自衛隊を送ることはできなかったが、代わりに大きな財政支援は行った。

その額が、サッカーの大迫勇也選手じゃないが目ん玉飛び出るくらい
「半端ない」額なのである。多国籍軍支援と周辺国支援のために、
国民に増税まで課して捻出した総額は130億ドル(当時のレートで1兆7000億円)だった。
国民一人当たり1.5万円ほどを負担した計算になる。

ところが諸外国の反応は冷たかった。
要約すると、
①平和憲法を楯に後方支援の役割さえ果たそうとしない。
②血は流さない、汗も流さない。
③金だけで済ませようとしている。それもイヤイヤ小出しにして出した。
戦費の大半を日本一国が、それも増税までして負担してやったというのに、
感謝どころか批判の声が巻き上がった。これはいったいどうしたことなのか。

戦後、多くの国の支援によって救われたクウェートは『ワシントン・ポスト』紙や
『ニューヨーク・タイムズ』紙など米国の主要紙に感謝を表す全面広告を出した。
その広告には感謝の言葉と共に、支援を行った30ヵ国の国名が連ねてあった。
オーストラリア、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、スペイン、イギリス、
アメリカ……その中にはアフリカのセネガルやニジェール、世界最貧国といわれる
バングラディッシュの名前もあった。しかし、いくら目を皿のようにして探しても
〝Japan〟の5文字がないのである。

日本と同様、軍隊を出していない、すなわち血を流していないドイツは、
なぜかちゃっかり名を連ね、クウェートに感謝されている。
日本だけが感謝対象国のリストから外されていたのである。
日本政府はすぐさま抗議し、負けじと反論文の全面広告を出すべきだった。
しかし日本の外務省はそれを怠った。
そのため130億ドルという血税がムダになってしまったのである。
自己主張しない日本人の悪弊はこんなところにも顔を出してしまう。

ボクが敬愛する雄弁家であり作家の加藤恭子氏は、
私的な文章ながら以下のような反論文を起草している。

われわれは先の戦争に対する反省から生まれた平和憲法によって、
軍隊を出すことは規制されている。ゆえに多国籍軍と共に戦い〝血〟を
流すことはできなかった。
 しかし平和を愛する国クウェートと、その解放に邁進する多国籍軍を
後方から支援するために、多額の経済的援助を行った。その全体額は
あまりに巨大であるため、〝富んだ国〟と見なされているわれわれでも、
一朝一夕で用意できるものではなかった。政府は増税を決意し、国民は
それを敢然と受け入れた。クウェートと多国籍軍の支援のために。
 それを何回かに分けて受け取ったのは盟主、アメリカである。
 もう一度言う。われわれは共に血を流すことはできなかった。しかし、
国民の税金から拠出されたこの援助金は、国民の汗の結晶である。われわれは
少なくとも、共に汗は流した。
 しかし、3月11日のクウェートによる『感謝の全面広告』の中に、
日本の国名はなかった。われわれは、合計で130億ドルの援助を行った。
それは、Japanというたった一つの単語にさえも値しなかったのであろうか?
 日本国民は、深く傷ついている(『言葉でたたかう技術』より)

胸のすくような論述ではないか。
日本の無能な外務省には加藤恭子のような骨のある日本人など一人もおるまい。
東大法科卒の高級官僚というだけが自慢で、日本国のためには何ひとつ尽くさず、
われこそはエリートなり、という顔をして偉そうにタダ飯を喰らっている。
愛国心のかけらもない、こんな役立たずの省庁など即刻つぶしてしまえばいいのだ。

支那人や朝鮮人みたいに、あることないこと大仰に主張しろ、
と言っているのではない。理のあることは堂々と主張すればいい。
謙遜や謙譲は日本人の美質だが、生き馬の目を抜くような、
抜け目のない国際政治の場では、かえって国益を害してしまう。

自己宣伝は品よくユーモアをもって堂々とやるべきだろう。
ああ、それにしても130億ドルはむざむざと砂漠の露と消えてしまった。
いけ図々しくもアメリカがそのほとんどを持っていってしまったと聞くが、
日本は相変わらずアメリカの属国で、なおかつ気前よくカネを出す、
便利なお財布代わりだということがよく分かる。

マッカーサーに押しつけられた、つまらぬ「平和憲法」などというものを、
不磨の大典のごとく後生大事に奉っていると、どこの国からも尊敬されず、
このような辱めを受けてしまう。理不尽である。

サムライ国家が、心ならずも町人国家になり果てると、
こんな仕打ちを受けなくてはならないのか? 
かつて日本国の軍人は世界有数の精強ぶりだった。
軍律きびしく、他国からも尊敬され、子供たちの憧れの存在でもあった。
その軍人たちが手足をもがれ、PKOの現場では哀れ外国の軍隊に
護られながら活動している。
こんなことから、陰では〝海外青年協力隊〟などと揶揄されてもいる。
誇りを傷つけられた自衛隊員の胸中や、察するに余りある。

自衛隊員の、いや日本人の誇りを取り戻すためにも、
憲法改正を急がなくてはならない。











2018年6月14日木曜日

結愛ちゃん、ゆるしてね!

《ママ、もうパパとママにいわれなくてもしっかりと 
じぶんからきょうよりか もっともっとあしたはできるようにするから
もうおねがいゆるしてゆるしてください おねがいします 
ほんとうにもうおなじことしません ゆるして》

目黒区のアパートで両親に虐待され、わずか5年でその短い生涯を閉じた
船戸結愛(ゆあ)ちゃん。朝まだきに起き、衰弱した小さな体を奮い立たせ、
ひらがなの書取り帳にこんな反省文を書いていた。こんなにも悲しく、
こんなにも切ない作文があるだろうか。この愛に飢えた薄幸の子を誰も
救うことができなかった。この子のさみしかったであろう心中を思うと、
涙が止まらない。

ボクの1歳になる孫は両親や祖父母から溢れんばかりの愛を注がれている。
子が生まれれば、「這えば立て 立てば歩めの親心」で、親というものは
子供がつつがなく成長してくれるように願うものだ。ボクたちもそうだったし、
娘夫婦だってそうだろう。

しかし中には、こんな夜叉みたいな親もいる。食べ物も満足に与えず、
病気になっても医者にすら診せない。おまけに言うことを聞かなければ
殴る蹴るの暴行。まるでケダモノ以下の所業である。同じ国に生を受け、
片や幸せいっぱいに育ち、片や親の愛を知らずに衰弱死する。
こんな不公平があっていいものだろうか。あまりに可哀そうすぎるではないか。

こんな目を覆いたくなるような事件が近頃多すぎやしないか?
新幹線に乗れば隣席の男がいきなりナタで斬りかかってくる。
また若い看護士が、インターネットで知り合った複数の男たちにむりやり
車に押し込められ、数週間後、全裸の死体で発見される。
テレビや新聞を見れば、こんな陰惨な事件ばかり目に飛び込んでくる。
ニッポン人はどうかしちまったんじゃないか。

ボクはこうしたニュースを目にすると、「目には目を」のイスラム法が
逆に羨ましく思える。西洋発の近代法は加害者にも人権がある、
という発想だが、ケンカ両成敗的なイスラム法のほうが感情的には
しっくりくるような気がしてならない。結愛ちゃんを虐殺した鬼親たちには
「石打刑」で臨み、新幹線のナタ男には「八つ裂きの刑」を処するとか……。

さて、聞くところによると江戸時代は凶悪犯罪の少ない時代だった
といわれている。実際、江戸の時代265年間に発生した犯罪件数は、
今日の日本の1年間に起きる犯罪件数より少ないのだそうだ。
「五人組」といった相互監視システムや、午後10時には木戸を閉めて
外出できなくしてしまうという仕組み。あるいは辻番や自身番(交番みたいなもの)
が各町内にあり、不審者の監視につとめていた、という事実も大きいだろう。

ボクの義理の姉は府中に住んでいて、車で訪問するときは
高い塀に囲まれた府中刑務所の横を通っていく。この刑務所、
日本最大の刑務所として知られ、主に重罪犯たちが収監されている。
その数はおよそ3000人。その大半が外国人だという。

外国人といっても欧米系は少なく、中心となるのは支那人と韓国人だ。
それに支那系と韓国系日本人が続くという。
つまり日本における凶悪犯罪の担い手はほとんど支那人と韓国人なのである。
この事実に対しては「なるほど」と容易に首肯できるだけでなく、
「さもありなん」とさほど驚かないところが、かえって怖い。
それだけ「支那人&韓国人=悪い人たち」という負のイメージが
日本社会に定着しつつあるのだろう。

結愛(ゆあ)ちゃんは悲しくも愛を結ぶことなく死んでしまった。
子は親を選べないというが、いったいこの世に何をするために
生まれてきたのだろう。
イジメ殺されるためだけに生まれてきたのか? 
そのためだけにオギャーッと生まれてきたのか?
そうじゃないだろ。
親や周囲の愛に育まれ、希望に満ちた人生を歩むために生まれてきたんだろ!

生れてきてよかった、と一度でもいいから心底思わせてやりたかった。
好きなものをお腹いっぱい食べさせてあげたかった。
でもそれは、もう叶わない。

結愛ちゃん、助けてあげられなくてごめんね。
大人たちの無力をどうかゆるしてください。


←こんなかわいい子に、何てことをするんだ!









写真提供/朝日新聞デジタル















2018年6月9日土曜日

英語は好きだけど

中学の頃、英語の担任に勧められ、市だか県だかが主催する「英語弁論大会」
に出場した。が、それらしき賞状もトロフィーも残っていないから、たぶん成績は
大したことなかったのだろう。その無念(そもそも記憶があいまいなのだから無念もヘチマもないが
晴らしてくれたのが次女で、やはり中学の英語弁論大会に推薦で出た。
結果は一等だか二等だったような気がするが、老人ボケのせいで、記憶があまり
ハッキリしない。

ボクの英語好きは今も変わらず、英語にはできるだけ触れるようにしている。
しかし語彙力の衰えはいかんともしがたい。英語の小説などはごくふつうに
読んでいたのだが、近頃は電子辞書のお世話になることが多くなった。

小説だけではない。ボクは外国の教科書なども読んでいる。アメリカの学校で
実際に使われている国語や歴史の教科書である。どんなことが書いてあるのか
興味があって、わざわざアマゾンで取り寄せたのである。

中国や韓国の歴史教科書にはウソばかり書かれている。
これもあちらの教科書の翻訳版を読んで確認してある。
アメリカも同類だろうと思って読み始めたが、少し違った。

たとえば1840年代のアメリカ・インディアンの処遇だが、当初、
合衆国政府は西部のどこにでも自由に住んでいいと約束していた。
ミズーリとアイオワ以西は〝Permanent Indian Frontier(恒久的なインディアンの辺境地帯)
とされ、白人は通商目的以外は立ち入ることができなかったのである。

ところが例のゴールドラッシュや鉄道、牧畜と開拓民たちがそのフロンティア
の土地を欲しがるようになると、連邦政府は開拓民の味方をし、平気で約束を
反故にするようになる。そして新しい約束をしては次々と破っていった。
尖閣諸島沖に莫大な海底油田が発見された途端に中国が領有権を主張しだした
のとまったく同じである。

映画にもなったカスター将軍率いる騎兵隊とスー族との戦いでは、
カスターは悲劇の英雄のように描かれていたが、実際は合衆国軍本隊の
指令を無視し、インディアンの野営地に奇襲をかけた卑怯者で、皮肉にも
逆にスー族の戦士たち2500人に取り囲まれ、カスター以下265人の騎兵隊は
全滅させられてしまった。

それでも白人と先住民との力の差は歴然。遠からずアメリカの先住民たちは
生まれ故郷を追われ、〝useless land〟すなわち荒れ野の狭い居留地に
閉じ込められるようになった。戦車の名前などにも残るシャーマン将軍などは、
スー族など滅ぼしてしまえと同胞たちに呼びかけた。
〝even to their extermination, men, women, and children.
(男も女も子供もすべて殺し、皆殺しも辞さない)

アメリカ大陸に白人たちが足を踏み入れた時、北アメリカの大地には数千万頭の
バッファローと二億三千万羽の旅行鳩(食用に捕殺され、1914年に絶滅)が天地に溢れ、
一千万人のインディアンたちが平和に暮らしていた。

白人たちはその平和な大地を血に染め、およそ200年で旅行鳩を絶滅させ、
野牛を絶滅の際に追い込んでいった。先住のインディアンはどうなったか?
先のシャーマン将軍曰く、
白人国家の優れた力を思い知らせ、戦いを挑んだことを悔やむように、
兵士もその家族も徹底的に殺す

その宣言どおり、狩猟の対象でもあるかのように撃ち殺されていった。
それもひどく残虐に。妊婦は腹を裂かれ、胎児を引っ張り出される。
子供たちもゲームのように撃ち殺され、頭の皮を剥がされた。
その殺し方があまりに残酷過ぎて、もはや描写の煩に堪えない。

結局、インディアンたちは降伏し、ついには同化政策の下、アメリカ文化に
融け込まされていった。インディアンの若者を同化させるための学校も
造られたが、創設者はこんなふうに言っている。
Kill the Indian and save the man.(インディアンを殺し、人間を救うのだ)
どうやら白人にとってはインディアンは人間ではないらしい。

ボクが読んでいるのは比較的リベラルな歴史教科書だと思われる。
が、インディアンを残酷に殺した事実などにはもちろん触れていない。
清純無垢な子供たちにそんなことは教えられない。それに、白人入植者たちの
常習的な嘘や残虐性を暴いたら自己嫌悪に陥り、そもそも愛国心が育たない。
だからインディアン掃討は間違っていた、と事実は事実として伝えてはいるが、
どこかに〝Manifest Destiny(西部への領土拡大は神の意志である、とする思想)〟を正当化したい
思惑と苦い贖罪意識というものが綯い交ぜになっている。

しかしアメリカの白人だけを正当化しても収まらない。19世紀中頃までには
オーストラリア人のアボリジニ狩りとか、中南米のインディオ狩りとか、
あるいはアフリカからの黒人奴隷や北米インディアンへの虐待・虐殺などが後を
絶たなかった。白人たちの専横と暴虐ぶりには目にあまるものがあったのだ。
いったいあの「白人優越主義的な驕り」は、いつ頃から芽生えたものなのだろう。

ボクは英語が好きで、外国人の友達もいて、白人の留学生も時にわが家で
預かっている。しかし白人に対する微かな嫌悪感みたいなものは心の奥底に
染みのように残ったままだ。
人間というものはいやなものだなあ
とする師匠・山本夏彦の慨嘆が再び三度よみがえってくる。

←映画『カスター将軍』の中の
リトルビッグホーンの戦いの1シーン。
カスターは一時英雄として崇められた
時期もあったが、後には〝狂人〟として
描かれるようになった。

2018年6月7日木曜日

生身の友より「ネト友」が好き

鳥目散帰山人(とりめちる・きさんじん)と号する変わった男がいる。
まるでうがい薬みたいな雅名で、思いっきり「ガラガラガラ、ペーッ!」
とやったらさぞ気持ちがいいだろな、と思わせたりもするが、
実際に会うとなかなかの曲者で、「トリセツ」でもないと火傷しそうな
雰囲気を全身に漂わせている。

この帰山人、コーヒーの業界では〝超うるさ型〟で通っている。
コーヒー卸しとか喫茶店やカフェを経営しているわけではない。
ただのコーヒーフリークで、コーヒーにまつわることなら誰にも負けない
博覧強記、というのが大方の見方で、コーヒー関連のイベントや講演会には
ヒマでもあるのだろう、足繁く顔を出す。そして最後の質疑応答の場面では
われ先に手を挙げて、なんとも答えにくいような難問を投げかけては悦に入る、
という困った性格で、ギョーカイ内では世に聞こえた講演者泣かせの男なのである。

この度し難い男はネット上に『帰山人の珈琲漫考』という人気サイトを
開設している。その中身はさながら〝コーヒー百科〟の様相を呈していて、
コーヒーの科学』や『珈琲の世界史』で知られる旦部幸博の『百珈苑』と
ほぼ人気を二分している。

ほんとうは『珈琲珍考漫考』というタイトルにするつもりだったらしいのだが、
これではあまりに露骨過ぎ、アダルトサイトと勘違いされそうだったので、
泣く泣く「珍考」を削った、という経緯がある。

帰山人は独特の文章を書く。決して平易ではない。
難解晦渋とまではいかないが、クセのある捻りのきいた文章を書く。
大変な教養人でもあるので、一つ一つの言葉にはボカシの入った皮肉が
散りばめられていたりする。およそ凡夫匹夫にすんなり読めるような代物
ではなく、言葉遊びが好きな分だけ解読に手間取ってしまう。

こんな男の文章だが、個性的といえば個性的なので、ボクは
拙著『コーヒーの鬼がゆく』の〝あとがき〟を書いてくれないか、
と丁重にお願いした。氏は快諾してくれて、めでたく本は出た。

原稿執筆をお願いしたものの、ボクと帰山人は互いに面識がなかった。
本の発刊後、一度だけ顔合わせをしたことがあるが、その後はインターネット上で
言葉を交わしているだけで、親しく膝をつき合わせて話をしたことはない。

当今の〝人づき合い〟というのは存外こんなものか。
淡きこと水のごとし、ではあるが、このほうが長持ちするという意見もある。
ネット上で知り合った友人は帰山人にかぎらず、いっぱいいる。
互いのブログにコメントを出し合うことで知り合った仲がほとんどだから、
会う前から考え方の大筋は読めている。「文は人なり」で、
ブログを読むだけであらかた人間性は知れてしまうのだ。

ボクの場合は、「メル友」ならぬ「ネト友」か。
どちらも生身の人間ではなく、インターネット上で交誼を重ねる、
というところに特徴がある。ならば生身の友より友誼に薄いかといわれると、
そうでもない。ボクなんかはむしろ百年の知己のように感じる時もある。

つくづく不思議な時代に生きているもんだな、と思う。
そんなボクに向かって、帰山人は、
「早くあの世へにじり寄って行ってください!」
などと、丁寧な言葉ながらしきりに〝あの世ゆき〟を勧める。
で、ボクは礼儀をわきまえた後輩思いの紳士ゆえに、
やさしく「after you」と応え莞爾(かんじ)として微笑むのである。










2018年6月5日火曜日

ボーっと生きてんじゃねえよ!

履歴書とか改まった書類の「職業欄」には〝文筆業〟と書くことにしている。
勤務時間などの制約を受けないから〝自由業〟と書く手もあるのだが、
自由業と謳うと1年じゅうのんきに遊び暮らしているようなイメージだし、
ちょっと怪しげな雰囲気もつきまとってくる。

そこへいくと、文筆業なら読んで字のごとく「ペン1本で食ってんだぞ!」
という感じがよく出ているし、着物姿で髪の毛を掻きむしりながら原稿に
向かっている、というレトロなイメージが、坂口安吾とか太宰治のそれと
重なってきたりする。ボクは無頼派でも破滅派でもない、ごくごく平凡で
非力な物書きなので、文筆業などと大上段に振りかぶるのはいささか
〝こっぱずかしい〟のであるが、半分は草莽に隠れた身のうえ、
いまさらカッコをつけても始まらない。

「お父さんは文筆業というより〝分泌業〟って感じだわね」
こう言って茶々を入れるのはわが女房殿である。
「だって、何やらクサそうなニオイを体じゅうから分泌するんだもの……」
などと失礼なことをのたまう。

まァ、ボクとしては「文筆業」だろうとクサそうな「分泌業」だろうと、
どっちでもいいのだが、ここは常識的判断として「文筆業」に軍配を
挙げておくことにする。

「どんな作品を書いておられるんですか?」
こんな問いかけをする人がいる。
「いやァ、かいているのは本ではなく大恥とか脂汗ばかりでして……」
などと、いつもは冗談交じりにこう言ってゴマかすことにしているのだが、
実際のところ「この本です」と自信をもって薦められる本がないので、
いつも妙な具合の脂汗だけをかく、という恥ずかしき仕儀となってしまう。

そんな中、某有名出版社のベテラン編集者から本の執筆を依頼された。
ゴーストライターの仕事ならそこそこあるのだが、自著となると久しぶりだ。

で、ふつうなら「ありがとうございます。ぜひ書かせてもらいます」と
一も二もなくお受けするところなのだが、どういうわけか気乗りがせず、
あっさり断ってしまった。書けばなんとか書けそうなのだが、
どうにも気が重い。たとえ書いたとしても魂の入らない駄本に終わって
しまいそうな気がする。本というのは、何がなんでも書きたいとする
内なる声に導かれたものでないと、人の魂を揺さぶるまでには至らない。
やっつけ仕事で書いた本など、たとえ売れても価値はないのだ。

じゃあ今、いったい何が書きたいの?
と問われても困る。今は特に書きたいものが見当たらない。
NHK総合の人気番組『チコちゃんに叱られる!』の中の、
5歳のチコちゃんの決めゼリフ、
ボーっと生きてんじゃねえよ!
的なエピソードを連ねた〝憂国おじさんの叫び〟みたいなエッセーなら
いつでも書けそうなのだが、それ以外はまったく思いつかない。
もともとそれほど才能豊かなほうではないので、たぶんこれが限界なのだろう。

数時間前、10㎏のダンベルを詰め込んだリュックを背負い、
近くの公園のウォーキングコースを数周してきた。歩きながら、
(おれはいったい何をしてるんだろ……)
と思った。リハビリには違いないのだが、その先に何があるのかというと、
いまひとつ「その先」が視えない。

前期高齢者の仲間入りを果たし、リッパな高齢者になったのだから、
余生はのんびり過ごせばいいじゃないの、とする声も聞こえてくるが、
足腰がまだしっかりしているうちは何かしら働いたほうがいいんじゃないの、
とする心の奥底からの叱責が聞こえてきたりもする。
働きバチの日本人には、どうあっても楽隠居はゆるされないらしい。

嗚呼、まじめな日本人をまっとうするのもけっこう骨が折れそうである。














2018年6月1日金曜日

拉致被害者を奪還するためにも

某業界で〝レジェンド〟と呼ばれている人と酒を酌み交わしました。
ボクより五つ年上の団塊の世代で、温厚篤実を絵に描いたような人物であります。
酔いも手伝ったか、この白髪の紳士が突然こう問いかけてきました。
「嶋中さん、非武装中立というのをどう思いますか?」

一瞬、(ああ、懐かしい言葉だなァ……)とボクは思いました。
その昔、テレビの国会中継で旧社会党の石橋政嗣が与党自民党の首相に
向かって、盛んに持論を展開していたからです。この「非武装中立論」は
当時の社会党の党是でもありました。

ボクもまだ甘ちゃんだった若い頃は、この「非武装中立論」にささやかな
シンパシーを寄せていたものですが、今はもういけません。馬鹿々々しさを
通り越して滑稽そのものです。そんな思いを失礼のないようにやんわり
伝えたところ、このレジェンドはしばらく沈黙したのち、
「非武装中立というのは、やはりだめですか……」
と嘆息、酒席は再び沈黙に包まれました。

このレジェンドは心やさしき人ゆえに「護憲派」なのかもしれません。
護憲派というのはGHQが押しつけた、いわゆる〝平和憲法〟を
後生大事に護り抜きましょう、とするオメデタイ一派であります。
〝オメデタイ〟とは言い過ぎかもしれませんが、リベラルを自称する
人たちの人間観や世界観がリアルな現実からあまりにかけ離れているので、
失礼ながらボクは〝オメデタイ人たち〟と呼ばせてもらうのです。
護憲派はふた言目には「憲法九条の精神を守ろう!」と唱えます。
憲法九条さえ守っていれば、永久に日本の平和は保てるというのです。

ここで第九条の全文を確認しておきます。
一、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力により威嚇又は武力の行使は、国際紛争を
解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
二、前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。

何度読み返しても、ひどい条文です。
こんなものを戦後七十有余年、無批判に守ってきたのかと思うと、
日本人のオメデタぶりが心底いやになります。「戦争を永久に放棄する」
と条文に謳えば、戦争のない平和な国が築けるのだとしたら、世界中の
国が憲法の条文に書き入れているはずです。しかしそんな憲法が
日本以外の国にあるとは、寡聞にして存じあげません。

「平和にな~れ、平和にな~れ」とお題目のように唱えていれば平和になる
というのなら、「台風よ来るな!」「地震も起きるな!」「津波も来るな!」
と憲法に書き込んでおきさえすれば、自然災害のない平和な国が築ける
のでしょうか。失礼ながら、平和憲法を掲げる護憲派の皆さんにボクは
言いたいです。
「日本が平和でいられたのは憲法のおかげなんかじゃありません。
在日米軍と自衛隊の抑止力おかげなんです。あなたたちの唱える平和主義は、
〝念力平和主義〟と言います。念力ではミサイルは撃ち落とせません」

念力ではミサイルどころか拉致された国民も連れ戻せません。
もしアメリカ国民が北朝鮮に拉致されたとしたら、アメリカという国は必ず、
特殊部隊を投入して奪還作戦を敢行するはずです。ところがサムライの
子孫であるはずの我われの国の憲法はおバカな憲法第九条を戴いているおかげで、
自国民を助けに行くことすらできないのです。護憲派の人たちは、
拉致された人、拉致被害者の家族の方たちに、どのように申し開きを
するのでしょう。平和主義者たちはふた言目には〝人権〟を口にしますが、
拉致被害者たちの人権について真剣に考えたことがあるのでしょうか。
日本は自国民も守れない腰抜け国家だ、と他国から侮られてもいいのでしょうか。

平和主義といえば、永世中立を唱えるスイスは国家予算の三分の一を費やして
重武装化しています。もちろん国民皆兵で、女性とて銃をとって戦います。
同じく永世中立を掲げるスウェーデンも、今年一月から徴兵制を再開しました。
ノルウェーも徴兵制を敷いていますし、フィンランド、リトアニア、エストニア
も徴兵制を敷いています。北欧諸国やバルト三国は隣国のロシアの動きを
気にしています。クリミア併合に見るロシアのあからさまな領土的野心に
警戒心を募らせているのです。

あのフランスでさえ徴兵制を復活させようとしています。二〇〇一年にいったん
廃止されましたが、マクロン大統領は一八~二一歳(約六〇万人)を対象に
一カ月間に限って軍事教練を復活させようとしています。わが家にホームステイ
したフランス人のLucasなんか、女の子といちゃついてばかりいましたから、
いい薬になると思います。それに新選組に憧れてもいましたから、
彼にだって勇猛心のかけらくらいはあるでしょう。この徴兵制の復活案、
軍事的意味合いは薄いですが、イスラム過激派のテロなども頻発している折、
国家防衛の自覚を促す、という意図があるようです。

このように世界は〝非武装〟どころか〝重武装〟の方向へ向かっています。
悲しいですが、世界の人たちの99.99999……%以上は〝性悪説〟を信じていて、
〝性善説〟を信じているのはノーテンキな日本人くらいしかいないのです。
現に、日本人のように心やさしきチベット人や新疆ウィグル人たちは、
性悪説の標本みたいなシナ人にあっけなく侵略されてしまいました。

日本国憲法の「前文」にある《平和を愛する諸国民の公正と信義》などという
ものは幻想でしかなく、どの国も他国に対しては疑心暗鬼がふつうなのです。
「日本国憲法に〝ノーベル平和賞〟を!」などというおバカな運動がありましたが、
それこそ悪い冗談です。あの平和憲法を世界中の人たちが読んだら、
みな呆れ返ると同時に腹を抱えて笑い出すことでしょう。
そのことを思うと、ボクなんか恥ずかしくて舌を噛み切りたくなります。

拉致被害者たちを一日でも早く日本に奪還するためにも、
ラチもない現行憲法(親父ギャグかいな)は廃棄しなくてはなりません。
順序としたら「廃憲」が先で、次いで日本人による日本人のための憲法を、
翻訳調の似非日本語ではなく、美しい日本語で書かれた憲法を
制定しなければならないのです。それは日本人の誇りを取り戻すための
営為でもあるのです。


←新選組大好き人間のLucas。
1カ月といわず、10年くらい
軍隊で鍛え直したほうがいい。

2018年5月22日火曜日

白人は実は黒人だった

以前、「イギリス人はドイツ人」という話を書いた。
で、今回は「白人は実は黒人だった」という話をしたい。

サセックス侯爵夫人――誰のことかというと、数日前に結婚した
英国ヘンリー王子の夫人、メーガン・マークルさんのことである。
メ―ガンさんは母親がアフリカ系のアメリカ人、
父親がオランダ・アイルランド系のアメリカ人である。

ロイヤルファミリーに初めて黒人の血が入る、
と賛否両論があった。多様性を重要視する時代だから賛成、
という進歩的意見があれば、黒人のプリンセスなど許されない、
とする保守的な意見も多かった。

白人は人類の中で一番優れている、とダーウィンが登場する前から
白人たちは思っていた。動物の中で人間が一番賢く、その人間の中で
白人が最も優れた人種であると固く信じていたし、
今もそう考えているフシがある。

モンテスキューは『法の精神』の中で、
《黒人が人間だと考えるのは不可能である。なぜなら黄金より
ガラス玉を好むからだ》などと失礼なことを言っている。

で、ギリシャ・ローマ文明につながるエジプト文明を調べれば、
その証拠が見つかるだろうと、王墓を発掘しその壁画をつぶさに観察してみたら、
《王は褐色の肌で、それにまず黒人が列し、次に黄色人が並び、
最後に入れ墨をした白い肌の野蛮人が並んでいた》
これはロゼッタストーンを解読したシャンポリオンが、
その失望を友人に書き送ったものである。
エジプト文明は黒人種のもので、当時は白人種が最も未開の人種であった。
予想外の結果に白人たちはガックリと肩を落とした。

ダーウィンの『種の起源』によれば、猿の毛がだんだん抜けて人類になった
のだという。ところが白人黒人黄色人を並べてみると、一番毛深いのが白人種だ。
つまりダーウィン説によると白人が最も進化の遅れた人種、
ということになってしまう。悲しいかな、これも〝やぶへび〟だった。

人類の祖先はアフリカ・エチオピア高原の黒人だった、
というのが今では定説になっている。その黒人の一部が狩猟の場を求めて
ヨーロッパに渡り、また別の一派は東へ向かった。
黒い肌は紫外線を通さないため、皮膚でつくられるビタミンDがつくれない。
環境適応の視点で考えると、黒人たちはゆっくりゆっくり皮膚の色を適応させ、
白色になっていったと考えられる。黒色から白色になるまでの期間は?
ざっと5000年と考えられている。約5000年かけて黒人は徐々に白っぽく
なっていったのである。

黒人の血を引くメ―ガンさんが英国ロイヤルファミリーの一員になる、
ということだけで大騒ぎしているが、そもそも5000年前に遡れば、
偉そうな顔をしている白人たちもそろって黒人であった。
王室の血が穢れる、などと言っている連中に対して、
ボクは声を大にして言いたい。
「あなたたちの遠いご先祖さんは色がまっ黒だったんですよ!」

実はアメリカにいるボクの従兄弟たちはメ―ガンさんと同じく
黒人の血を引いている。ボクの父方の叔母はアフリカ系のアメリカ人と
結婚したからだ。フロリダで大きな農場を営んでいた叔父と叔母。
すでに鬼籍に入ってしまったが、従兄弟たちはアメリカの国内外で
みな元気に暮らしている。従兄弟の子供たちにはスペイン系もいたりするから、
まさにみな民族多様性を絵に描いたような顔立ちをしている。

ボク自身もフランス人に間違えられたくらいだから、
皮膚の色や見てくれなんて、要はどうでもいいのだ。
ボクは子供の頃、パンに擬して人種の違いを描いた
変わった絵本を読んだことがある。こんな感じだった。

《パンを焼きました。オーブンから出してみたらまだ生焼けでまっ白でした。
再び焼きました。出してみたら焼き過ぎて真っ黒けでした。
こんどは慎重に焼きました。
出してみたらこんがり黄金色のおいしそうなパンでした》。

これとても〝黄色人種優位主義〟の変形バージョンにすぎない。
イギリス人も1500年前はドイツ人だった。時間軸をちょっとずらして
相対化すれば白人も黒人になるし、黄色人だって黒人になる。
ご先祖様が同じという意味では「人類みな兄弟」という言い方は正しい。

たかだか数百年に過ぎない「近・現代」をリードしたからといって、
白人どもよ、あんまり偉そうな顔をしなさんな。
時間軸を少しずらすだけで、優位性などすぐ逆転されてしまうものだ。

大事なのは歴史をつぶさに学ぶこと。その歴史から〝価値の相対性〟
というものを学ぶこと。人類の全歴史において白人が天下を取っていた時期など
ほんとちょっとだけだ。そのことを知らずに上から目線で語ることは、
「私たち白人は無知蒙昧な人種です」と天下に公言しているようなものだろう。
メ―ガンさん、つまらぬ中傷なんかにめげず、どうか幸せになってください。



2018年5月14日月曜日

愚一片の 無限の明るさ

敗戦の翌年、師範学校の教職を辞し、それこそ無一物となって
仏教の伝道に生涯を捧げた毎田周一(まいだしゅういち)。
思想家としても多くの著作を遺した。その中から一部を抜粋する。

●信ずるとは 赤ん坊のようになることだ
それはどうすることか 無用心になることだ 

●むつかしい顔をすることは、少しも要らないのである。
いつもにこやかな顔をして、すべての人に向かえばよいのである。

むつかしい顔をするのは、
ただその人の度量の小ささを語るのみである。
私はかくもケチな、チッポケな人間です、というばかりである。
狭っ苦しい殻をかぶり、われとわが世界を縮めているような、
せっかく生まれてきた人生を、
いつもこせこせと、しみったれて生きているような、
小人ですと、告白するばかりである。

微笑は自由の象徴である。
一切を容れて世界と共に生きるものの歓びの象徴である。

平和は、この微笑から来る。

ひとかどの人間だと思うから 自由になれないのです
この世のやくざ 大やくざ
人間の世界の屑であることに 目覚めるとき――
私は豁然として自由です

世の中で一番大切なことはどういうことであるか。 
頭を下げること。
一番詰まらぬことは。
高慢。

●人間最高の徳は?
謙虚。
人間最大の不徳は?
高慢。

●こんなに簡単な そして ただ一つのことを
それがわからないで 人がみな苦労している

それはどういうことか つまり それというのは
自分が馬鹿だってこと これがその一つのこと

自分を利口だと 思っていればこそ
みんながみんなこんなにも 苦労しているのだ

それこそは御苦労なことだ
そして恨みようもないこと
愚一片(ぐいっぺん)の ああ
無限の明るさ――

●純粋な情熱は ついに人を溶かす

才能も要らぬ 容色も要らぬ

ただ一つ 純粋は 無邪気と知れ

●唯一の真理は無常。

●悲観する人に――
悲観するも何もないよ
一切の苦の人生に
悲観のほかに何がありますか
仏の慈悲は
絶対悲観ですよ
(つまり君は認識不足なんです)


懇意の歯医者が言っていた。
「時々、待合室で騒いでいる人がいます。なかにはこんな人もいました。
待たされて気が立っているんでしょう。受付の子に向かって、
『おれを誰だと思ってんだ! (一部上場のあの有名な)〇△社の専務だった
んだぞ。いったいいつまで待たせるんだ!』。(カッコは筆者が入れました)
もうご隠居さんなんですがね、昔の栄光の金看板が忘れられないんでしょうね。
なだめすかすのに往生しました(笑)」

それにしても、よくもまあ恥ずかしげもなく、こんなセリフが吐けますね。
あの医院、待合室はいつも人でごった返しているのです。
そんな場所で、一部上場会社の取締役だったんだぞ、と力んでみたって
仕方ないじゃないですか。たいした会社じゃないですよ、
その程度の人を役員にしている会社は。

偉くなると、自分はその辺にころがっている有象無象とは違うんだ、
自分は神から選ばれた〝選良〟で、ひとかどの人間なのだと勘違いして
しまうんですね。よくいますよ、この手の高慢チキなおじさん。
おのれ自身を「愚一片」と悟るまでの道のりは相当険しそうです。

人間って愚かな生き物ですね。
だからこそこの世はおもしろいのかもしれません。