2019年12月26日木曜日

人の進化して猿となった今日

近頃の子供たちは、寄るとさわるとスマホか携帯ゲーム機を取り出し、
一心不乱になってゲームに熱中する。どんなゲームで遊んでいるのか、
おじさんにはサッパリだが、会話を楽しむでもなく、運動するでもなく、
ただ車座になってゲーム機とにらめっこしている光景は、おじさんの目には
なんともうすら寒い光景に映ってしまう。

昨日の新聞にもあったが、スマホに熱中している子供は外遊びをしている
子供に比べ、体力も知力も劣るのだという。それはそうだ、基礎体力をつけるべき
大事な時期に、スマホなどにうつつを抜かしていたら、IT機器特有のブルーライトで
目に障害が起きるだろうし、近視乱視のもとにもなる。それにスマホに時間をとられる分、肝心の勉強だっておろそかになる。

ボクはケータイもスマホも持たない。
意地を張って持たないわけではない。今のところ必要性を感じていないから
持たないだけだ。その代わりパソコンはやっているので、連絡等に不便を感じた
ことはない。少し前まではケータイもスマホもなく、それで十分日常生活が
成り立っていたのだから、あれば便利だろうけど、
「もちろん便利にはなるでしょう。でも、だから何なの?」
という感じだ。古人曰く。『機械あれば必ず機事あり』と。
便利なものは持てば持ったで、ただ忙しくなるだけ。しまいにはその機械に
逆に自身が使われてしまう。巷間見かける〝スマホ中毒患者〟はみなその類いだ。

ボクはしみじみ思う。子供の頃は貧しかったけれど、実に子供らしい子供だったと。
川越のボクの実家の前には農業高校があった。喜多院という大きなお寺もあった。
ボクら悪童はよく農業高校に入り込み、校内にあった牛舎や鶏舎、豚小屋で
悪さをした。当時流行っていたのが「2B弾」という花火の一種で、爆竹や癇癪玉の
ように火をつけると爆発した。けっこう危険な花火なのだが、当時は駄菓子屋で
ふつうに売られていた。ボクたちは〝にーびー〟と呼んでいたが、
この〝にーびー〟に火をつけ、豚小屋でまどろんでいる豚の尻に突っ込むのである。

爆竹を突っ込まれた豚はたまらない。「ドッカーン!」と爆発した途端に、
小屋中が大騒ぎ。「ブヒブヒブヒ……」とパニクった豚どもは小屋の柵に
一斉に体当たり。その異常な鳴き声を聞きつけた〝小使いさん(用務員)〟が
たか帚(ほうき)を振り上げ、
「コッラーっ! この悪ガキどもォ! 待ちやがれ~っ!」
必死の形相で追いかけてくる。ボクたちは算を乱して逃走。 
遠くのほうから年老いた小使いさんに向かって、
「やーい、のろまの小使いさ~ん、捕まえられるもんなら捕まえてみやがれ!」
さんざっぱら憎まれ口をたたいて挑発した。

一度、この小使いのおっちゃんに捕まったことがある。
ボクではない、のろまな子がいて、みごとに捕縛されてしまったのだ。
その後、仲間はどうなったのか、覚えていない。たぶん親御さんが
菓子折りでも持って平謝りで引き取ったのだろう。
この小使いさんとの攻防はその後も数年続いた。

今から思うと、おれたちも相当なワルだったな、と反省することしきり。
あの小使いのおっちゃんにも済まないことをした。ついでに豚ちゃんにも。
スマホゲームにうつつを抜かしている令和の子供たちにはわからないだろうけど、
あの頃は毎日がスリルとサスペンスあふれる冒険の日々だった。

ボクらにとって農高と喜多院は世の中のルールや正邪美醜を学ぶ人生の学び舎だった。
それにしてはいっこうに学んだ気配がなく、ついに悪ガキからは卒業できなかった。
あれから半世紀。かつての悪ガキが道徳家ぶった作文を書いて糊口をしのいで
いるのだから、人生は皮肉だ(笑)。

ボクの大好きな斎藤緑雨という評論家は、100年も前にこんなことを言っている。
《猿の進化して人となれりといふは、人の進化して猿となるの今日に在りて、
迂腐(うふ)の見(けん)なること疑を容れず》と。
昔の人はいつだってうまいことを言う。
猿は進化して人となったが、今や(100年前)人が進化して猿になっている。
緑雨が生きた明治の時代に猿であったものが、令和の時代も相変わらず猿のままだ。

『書を捨てて町へ出でよ』の寺山修司の逆を行くわけではないが、
  《少年よスマホを捨てて書に親しもう》
と、かつて悪ガキだったおっちゃんは強く言いたい。
昔の人は「よく学びよく遊べ」といった。ボクはよく学んだ覚えはないが、
よく遊んだ。女子高生のスカートをめくって喜ばせるといった〝よい遊び〟
ももちろんしたが、風呂屋の同級生に頼んで女風呂をのぞかせてもらう、
といった悪い遊びも少しだけした。そんな悪人バラが「書に親しもう」なんて
言っても説得力はゼロだろうが、あの貧しかった昭和の時代への深い哀惜をこめて、
どうしても言っておきたいのである。

  《青少年よスマホを捨てて書を読もう》
  《少年よゲームを捨ててスカートをめくれ》
  《少年よ書も捨てて女風呂をのぞけ》





←『こち亀』にも2B弾の使い方が出ている。






©秋本治





2019年12月23日月曜日

物くるる友

ボクは人から物をもらうのが好きじゃない。
高価なものにしろ安価なものにしろ、物をもらうということが好きではないのだ。
もらった瞬間、嬉しいな、ありがたいなと思うと同時に、
(ああ、いつかお返しをしないといけないな……)
と考えてしまい、そのことがずっと頭の片隅から離れなくなってしまう。

そのことを女房に話したら、
「ちょっと異常なんじゃない?」
と言われた。そう、異常なのだ。異常なくらい心の負担になってしまい、
せっかくいただいたものもついには色あせて見えてしまうことも。

もらうのが嫌いなら、人にものをあげるのは好きなのか?
いや、あげるのももらうのも「物」という物品が介在する限り
好きになれないのだ。

ボクが人間関係で最も重視するのは常に「対等」である、ということだ。
人種や民族、出自、学歴や職歴など一切関係なく、対等につき合うこと。
もちろん長幼の序くらいはわきまえていて、敬語はそつなく使い分けるが、
気持ちの上では対等だ。それがボクのモットーでありポリシーなのである。

だから、上から目線の人や、「むかし偉かったおじさん」といった
自慢たらしい人は大の苦手で、蛇蝎(だかつ)のごとくきらっている。
ボクにとっては市長だろうと会社社長だろうと、またレジのおばちゃんも
便所掃除のおっちゃんもみんな同じ。それが証拠に言葉づかいも接する態度も
みな同じである。

奴隷を解放したリンカーン大統領の演説にはこうあった。
〝All men are  created equal〟
いかにもカッコいいこと言ってるけど、家に帰れば黒人の召使いが大勢いたし、
アメリカ先住民に対しては逆に攻撃的で、その扱いは苛烈を極めた。
〝平等〟などと言っても、かなりいい加減なところがあったのである。

『徒然草』の第117段にこうある。
《よき友に三つあり》として、一番最初に挙げているのが、
《物くるる友》、つまり物をくれる友が《医師(くすし)》や《知恵ある友》
よりも上位に置かれている。物余りの時代に生きるボクたちからすると、
兼好法師は欲深で貪婪(どんらん)な人物ではないのか、などと誤解しそうになるが、
なに、《物》とは金品だけとは限らない。貴重な情報かもしれないし、
親切心といったものかもしれない。

ボクなら《悪しき友に三つあり》として、
その第一に《物くるる友》を挙げてしまうかもしれない。
もちろんこの《物》は金品そのもので、心に負担がかかりそうな「モノ」である。

そうはいっても人の家を訪ねるとき、手ぶらでは行けない。
こっちだって友がいきなり手ぶらでやってきて、
「おい、数日泊めてくれや!」
と言われたらカチンとくる。慣習というものは怖ろしいもので、
日本では手ぶらで他家を訪問することは失礼千万なこと、となっている。

しかし手土産持参の場合は、寝床と食事を提供することで、
貸し借りなしになっている。お返しの必要はないのだ。
ボクはこの〝貸し借りなし〟のequalという人間関係が一番居心地がいい。
このバランスが少しでも崩れると、妙に心が落ち着かなくなってしまう。

だから友よ、
ボクには物を与えないでくれ。
ただし年末ジャンボ宝くじのたぐいで、
当たりそうなやつはその限りではない(←それが分かったら苦労せんわ)
もしも当たったら1割分くらいはお礼でさしあげるから、
どうか気兼ねなくちょうだいな。(←バカ)



←「こういうものは、わしゃ要らん!」
と頑固なおっちゃん



2019年12月21日土曜日

I have a dream!

ボクは中学生の頃、英語が得意だった。
通信簿の英語の成績はいつも5だった。
担任教師に勧められ英語弁論大会にも出た。
後にボクの次女が同じように中学英語弁論大会に出たものだから、
〝蛙の子は蛙〟という諺はまんざらウソでもないな、と思った。

高校、大学と英語は得意だった。が、「speaking(しゃべくり)」はからっきし
ダメだった。「reading(読み)」と「writing(書き)」は教わったが、
「hearing」と「speaking」をまったく教わっていなかったからだ。
自力更生で何とかしろ、と言われれば、それなりに頑張っただろうが、
外国人とおしゃべりする機会はほとんどゼロに近かったので、
モチベーションは上がらなかった。

最近は、町を歩けば外人ばかり。わが和光市でも、理研やホンダ本社があるせいか、
外国人がけっこう目につく。ボクの住む団地にもアメリカ人やイギリス人、
フィリピン人(全員が友達)などがいて、ボクの子供の頃と比べると大きく
様変わりしている。

川越生まれのボクが子供の頃はガイジンを見ることはめったになく、
狭山市にあった米軍基地(通称ジョンソン基地、昭和53年に全面返還)に行くと、
塀の外からアメリカ軍兵士の子供らが遊ぶ姿が望見できた。みんなきれいな
〝おべべ〟を着ていて、羨ましかった。ボクと弟なんか、ツギハギだらけの服を
着ていて、いかにも敗戦国の子供という感じだった。

娘2人は高校生の時に留学させたので、言葉には困らない。
長女はイタリア語と英語をしゃべり、スペイン語も少しできる。
次女は米国と英国に都合2年間留学しているので、日本語以上に英語はうまい。

ボクはというと相変わらず英会話が苦手だ。
ブロークンなら何とかなりそうだが、まともな英語はしゃべれない。
幸いヒアリングはまあまあなので、相手の言っていることは理解できる。
ただ、それに英語で反応できない。せいぜい単語を並べるくらいだ。

団地の中には英語に堪能な人が数えきれないくらいいる。
帰国子女がやたらと多い団地なので、ボクの知り合いの中にも
英語、フランス語、ポルトガル語などが堪能な人がごまんといる。

最近知り合ったKさんはイギリスに7年、アメリカやドイツにも数年の駐在経験が
あって、英国はウェールズ大学の大学院でMBA(経営学修士)の学位をとっている。
もちろん英語はペラペラ(聞いたことはないのだがw)らしく、ある日ボクは
訊いてみた。
「英語をしゃべれるようになる手っ取り早い方法はありますか?」

Kさんはこんなふうに答えた。
「ボクの場合は〝NYタイムズ〟といった英字新聞を音読してたね。大きな声で
立ったままいくぶん早口で音読するんだ。大事なのは音読するだけでなく、
フレーズを暗記すること。わからない単語が出てきてもいちいち調べないで
飛ばして読む。すると自分の声に耳も慣れ、1年半も続けていると、いつの間にか
スラスラと言葉が出てくるようになる。大きな声で音読しながら暗記する。
英会話への近道はこれだね」



←世界中の名演説を集めた英文の本













というわけで、ボクは今、英文を音読・暗唱している。
Kさん愛読の『NYタイムズ』はリベラルな紙面で、保守派のボクの
趣味ではなく、読めば読むほどクルクルパーになってしまうので、
孫の口ぐせを借りれば「あっちへ行って!」と選外へ。
手始めに、マーティン・ルーサー・キング牧師の〝I Have a Dream〟を
読むことにした。1963年、黒人公民権運動のためのデモ隊を前に、
「私には夢がある」と語りかけた有名な演説である。
〝I have a dream that one day on the red hills of Georgia , the sons of
former slaves and the sons of former  slaveowners will be able to sit
down together at the table of brotherhood.〟

このキング牧師のスピーチはほんとうにすばらしい。
中身もさることながら言葉本来が持つ力、人を感動させる言葉
とはどういうものか、肌に沁み入るように感得できる。
みなさんもぜひ味わってほしい。



←これは『感動する英語!』
という本の中のキング牧師の
スピーチをピックアップしたもの。

2019年12月19日木曜日

人権派なんてクソくらえだ!

昨年6月、東海道新幹線の車内で男女3人を殺傷したとして殺人罪などに問われた
男は、「一生刑務所に入っていたい」などとふざけた言い草を繰り返していたが、
今月18日、横浜地裁で「無期懲役」を言い渡された。

この被告は初公判で、
「(○○さんを)みごとに殺しきりました」
「(女性二人は)残念ながら殺し損ないました」
とうそぶき、
「もし有期刑になって出所したら、また必ず人を殺す」
と公言、執拗なほど無期懲役にこだわった。

女性二人を守ろうと、素手で犯人に立ち向かっていったUさん(38歳)はほんとうに
勇気のある人だと思う。ナタとナイフで無残にも殺されてしまったが、遺族の
無念さを想うと言葉がない。

そんな思いを知ってか知らずか、被告は無期懲役刑が言い渡されたとき、
万歳を三唱したという。これでずっと刑務所に居られると思い、
嬉しさ余って万歳をしたのだろうか。刑務官が慌てて止めに入ったというが、
後の祭りだった。ボクが刑務官だったら失職覚悟で殴り倒していただろうに。

日本の刑務所では文字どおりの〝クサい飯〟が出されていたらしいが、
今はシャバなんぞよりよっぽど居心地がよいらしく、メシは温かくて
栄養バランスが考えられ、所内の作業は土日休みの週休二日制だ。
ブラック企業に勤めるサラリーマンなどよりはるかに恵まれている。

日本では3人殺さないと死刑にはならないらしい。
この犯人もそのことを知っていて、殺すのは2人までにしておこう、
と最初から決めていたという。なんともふざけた野郎である。

ボクなんか江戸の刑罰みたいに、もっと刑法を厳しくすべきだと思っている。
人を殺めたら例外なく死刑、親殺しは即死刑。
江戸では親殺しや贋金づくりは磔・獄門と相場が決まっていた。
磔刑とは磔柱に縛りつけ、突き手が槍などで20~30回突き刺す刑だ。
また放火は、市中引き廻しの上、磔・火あぶり。恋人に会いたい一心で放火した
〝八百屋お七〟は14~15歳の少女であったが、磔刑&火あぶりの刑に処せられた。

江戸の刑は「一罰百戒」がモットー。
つまり一人を罰して多くの人の見せしめとし、犯罪を減らす狙いがあった。
鈴ヶ森や小塚原の刑場は、だから主要な街道筋にあっていやでも人目にさらされた。

不義密通をしただけで死罪(斬首の上、試し斬りにされる)というのだから、
〝不倫〟ばやりの現代にあっては、スケベーな男女はみんな素っ首が飛んでしまう。
死罪まで行かない「遠島」という刑罰もあった。奄美大島や伊豆七島へ
島流しにされる罰で、刑期はほとんど無期限だったという。
今だったら、
「わーい、奄美の海で思いっきり泳げるぞ!」
なんて逆に喜ばれてしまいそうだが、
実際はそんなのんきな話ではなかったようだ。

事件が起きると、往々にして人権が語られるが、その多くは被害者のそれではなく、
加害者の人権が中心になる。人の命を何とも思わない人非人の人権を
なぜ守らなくてはいけないのか。ボクにはそこのところがさっぱり分からない。
北町奉行所の「遠山の金さん」みたいに、
(もろ肌脱いで)おうおう、この背中に咲いた桜吹雪が、手前の悪事をちゃ~んと
お見通しなんでェ…………きびしく吟味の上、極刑を申しつけるであろう。
これにて一件落着」
てな調子で厳しいお裁きを願いたいね。
加害者の肩ばかり持つ人権派弁護士なんて糞くらえである!

連帯責任を負う「五人組」といった相互監視システムなどと相俟って、
江戸の町の犯罪率は驚くほど低かったという。
獄門とか鋸挽(のこびき)とか、あまりに残酷な刑が多すぎると思うかもしれないが、
犯罪者にとっては残酷かもしれないが、まっとうに生きているものにとっては
関係ない。上記の裁判所で万歳三唱した人非人などは、犠牲になったUさんや
遺族の気持ちを想えば、ノコギリで首をギコギコと挽き切ってやりたくなるが、
〝人権天国〟の日本ではそれもかなわない。不条理という外ない。





←片岡千恵蔵の金さんはよかったな。
いくぶん吃音者みたいにしゃべる千恵蔵。
ドスが利いていてすこぶるカッコよかった

2019年12月14日土曜日

昔は韓国大好き人間だったのに……

同じ団地内の別の棟に高校時代の恩師(現国担当のM先生)がいる。
時々顔を合わせるのだが、先だって一緒に散歩をしていると、
「嶋中君は国際政治に詳しいから、いま評判の『反日種族主義』はもう読んだろ?」
とボソリと訊かれた。
「いや読んでません。〝嫌韓〟とか〝呆韓〟関連の本はウンザリするほど読んで
いるので、今さらという感じがして……」
「ボクはもう読み終わったから、もしよかったら無期限で貸してあげるよ」
せっかくの思し召しなので、ありがたくお受けした。

で、いまカミさんと交代で読んでいるのだが、想像した以上に面白い。
自慢ではないが、ボクは韓国に関する本は相当数読みこんでいる。
もちろん韓国が好きで読んでいるわけではない。ウソつきで約束を守らない
韓国という国がきらいだから「コンチクショー!」と思いながら読んでいる。

ずっと昔はこんなふうではなかった。韓国が好きで、キムチが大好きで、
何度も韓国を旅行した。取材で全羅南道をめぐり、十数ページの記事に
したこともある。また、日韓辞典の制作をちょっとだけお手伝いし、
協力者として奥付に実名が載ったこともある(写真参照)






←ボクの名(実名)が記載されている日韓辞典






でも、今はすっかり様変わり。
韓国の反日教育の実態や、歴代大統領の反日政策を目の当たりにするうちに、
「好韓」から「嫌韓」へと180度転換し、今じゃムン大統領の顔を見ただけで
虫酸が走るくらい韓国嫌いになってしまった。何より平気でウソをつき、
歴史を勝手にねじ曲げてしまうところが許せない。これはまさに犯罪である。

『反日種族主義』のプロローグにもこんなことが書かれている。
《この国の歴史学や社会学は嘘の温床です。この国の大学は嘘の製造工場です。
そう言っても大きな間違いではないと確信しています。たいてい1960年代から
始まったので、そのような歳月がすでに60年も流れています。そのため、
2000年代に入ると、すべての国民、すべての政治が平然と嘘をつくように
なったのです……》

韓国人の中にも〝まっとうな人間〟がいるんだな、とボクはちょっぴり見直した。
でも正直、なぜもっと早く声を挙げてくれないんだよ、と不満なのも確か。
国じゅうが反日ムードの中で、「いや、それは違う!」とNON!を言い出すのは
勇気が要ることだろう。でもねェ、60年間も目をつむり押し黙っているというのは
ちょっと情けなくはないですか? 学者なら少なくとも真実を追究する義務がある
でしょ。たとえ総スカンを喰らっても、真実を語る勇気を持たなかったら、永久に
嘘が歴史に刻まれてしまうのですぞ。

それでも、あえて言います。「よくぞ書いてくれました」と。
遅ればせではありましたが、その勇気を諒とします。
もっとも元慰安婦のバアサンは、この本の著者に向かって
「あの教授は狂人!」
と口汚く罵っているらしい。
あまたの嘘がバレてしまい、バアサンも内心穏やかではないのだろう。

なにが慰安婦の少女像だ、バカバカしい。
あの像は2002年に在韓米軍の装甲車に轢かれて死んだ女子中学生(2人)の
像で、米軍に抗議するのははばかれるからと、しばらく倉庫に眠っていた。
そのうち慰安婦問題が脚光を浴びだしたので、せっかくだからと慰安婦像として
流用させてもらった、というのが真実ではないか。
インチキにもほどがあるのだよ。






2019年12月10日火曜日

近頃の日本語はムチャクチャでござりますがな

わが家のジジババ(ボクたち夫婦のこと)は職掌柄、とにかく言葉づかいにうるさい。
テレビを見ていて、政治家なり番組司会者なりが「~というふうに考えております」
などと言うものなら、すかさずカミさんが「~というふうに」と繰り返し茶々を入れる。
最近は「空気感がちがう」とか「~の世界観」なんて言葉が出ると、
「出たよ、また〝空気感〟だってさ」と、満腔の不満をぶちまける。

「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」
レストランでよく言われるセリフだ。いつ頃からポピュラーになったのか、
これも妙ちくりんな言い方だ。
「こちら嶋中さんでよろしかったでしょうか」
もよく言われる。そんな時は「全然いいです」とでも答えりゃいいのかいな?

「こちらコーヒーになります」
と言われ、すかさず「何分ぐらいでコーヒーになるの?」と質問した
いじわるな人がいるらしい(ボクではない)。ウエイトレスはその意味する
ところが分からず、キョトンとしていたとか。
「コーヒーをお持ちしました」と言えば済むものを「コーヒーになります」
なんていうものだから、ここぞとばかりにツッコまれてしまうのである。

「わたし的にはOKです」
「なにげに」
「ホボホボ」
「ふいんき」(雰囲気をそう読む若者は多い)
「すごいおいしい」
「1000円からお預かりします」
これらの〝変てこりんな言葉〟もいまは〝ふつう〟になりつつある。

言葉は生き物だ。だから時代の変化と共に言葉が変化していくのは
いたし方ない。しかしおいしいラーメンをすすりながら
「めっちゃおいしい」とか「このラーメン、やばい」と言われると、
褒め言葉であることは分かるが、花菱アチャコ流に言わせてもらうと、
「わてそんなん知らんがな。もうムチャクチャでござりますがな」
と嘆き節の一つも言いたくなる。

カミさんがテレビ画面に向かって吼えているようすを動画に撮ったら、
さぞ面白いだろうな、とは思うが、そんな動画がネット上に拡散したら、
一発で世間の笑いものになってしまう。

それにしても昨今、巷にあふれる日本語は、アチャコならずとも、
「ムチャクチャでござりますがな」と叫びたくなりますがな。








←花菱アチャコ(右)と横山エンタツの名コンビ。
といっても、今は知らない人のほうが多いか



2019年12月5日木曜日

「ちがくない?」ってどこの国の言葉だよ!

中学の頃だったか高校の頃だったか、しかと思い出せないのだが、
友人N君宅へおじゃましたら部屋じゅう本だらけだった。書棚といわず床といわず、
本であふれ返っていたのである。ボクはこれを見て(恥ずかしい……)と思った。

なぜ恥ずかしいと思ったのか。
友人がボクなどよりはるかに読書家で、本の背表紙を眺めただけで
(ボクなんか及びもつかないくらい幅広く深遠なことを考えている)
と、瞬時に思ったからだ。自分では秘かに読書家を任じていただけに
敗北感らしきものもあった。

友人の中には書棚の本のすべてにカバーをしてしまい、
何に関心を持っているのか〝心の内側〟を見透かされないように用心する者もいた。
特に社会科学系の本は背表紙を見ただけで「保守か革新か?」くらいはすぐ分かる。
だから党派性をさとられないようにするため、本に目隠しをしてしまうのである。
いずれにしろ、全共闘世代に続くボクたちの世代は政治にも関心が高く、
総じて読書家が多かった。

ところがどうだ、今朝の読売の朝刊の第一面にはこんな見出しが。
文章作れぬ若者――略語やスタンプ SNSから乱れ』と。
先日来、OECD(経済協力開発機構)による国際的な学力調査で、
日本の若者(15歳)の読解力低下が浮き彫りになった。
主語・述語が不明確で意味が通じない。要らない助詞をやたらと足す……etc。
ある大学の教授は、
「ゼミで発表させると、『そして』『そして』『そして』……を連発する学生が
いっぱいいる」
と嘆いている。「なぜなら」や「しかし」など文脈に応じて接続詞を使い分けるのが
ふつうなのだが、LINEなどの短文に慣れてしまっているためなのか、
「そして」しか使えない、というのだ。

某大学講師は、
「〝きれい〟の否定形を〝きれいくない〟と言われた」と呆れたものだが、
「ちがう」の否定形を「ちがくない」という若者がいることはすでに知っている。
電通や博報堂の作るテレビCMには、こうした妙ちくりんな言葉がしょっちゅう
顔を出す。大手広告代理店はこうした若者言葉を使うことで、「最先端」のCM
を創ってるんだぞ、と自負しているようなのだが、愚かなことだ。
ボクは日本語の乱れを助長させているのは電通や博報堂だと思っている。
昔は「士農工商、犬、広告」などといわれた。犬以下なのは相変わらずだ。

また他の大学講師は、
「〝おじいさん〟〝おばあさん〟は言えるが〝祖父〟〝祖母〟が出てこない」
と、若者たちの間に起きている言語障害的な〝異変〟を報告している。
そういえば、自分の母のことを人前で「お母さん」という若者が増えている。
こういうおバカな若者が長じると、「うちのワンちゃんが亡くなりまして」
などと平気な顔で言い出すのだ。

こんな幼稚園児並みのオツムを持った大学生がウヨウヨいるというのだから、
SNSやスマホの弊害は測り知れない。以前も書いたが、大学生の2人に1人、
つまり50%は1ヵ月に1冊も本を読まないのだという。ボクが学生の頃は
寸暇を惜しんで本を読み、年間300冊はふつうに読み飛ばしていた。
読書は習慣だから、スマホ中毒の若者にいきなり読書を勧めても
効果は期待できない。子供の頃から本に親しんでいないと、読書の習慣は
身につかないのだ。

若者の国語力が怪しくなったのは、小中高校での国語の授業で、
長文読解の訓練がなされていない、というのも大きい。
一昨年、わが家にホームステイした仏人留学生のルカは、
ヒトラーの浩瀚な『我が闘争』(英語版)を平気で読みこなしていた。
ルカが本を読んでいる時の集中力はすさまじく、周囲の物音など
まったく意に介さない、という感じだった。

人間として一番大切な教養というものは読書を通してしか身につかない。
日本は学歴社会というが、学歴など「なんぼのもんじゃい!」とボクは思っている。
どこそこの有名大学を出ました、などということにはとんと関心がないのである。
というか、「学歴」なんぞを自慢のタネにしている人間はみんなロクデナシに
決まっている。肩書きを取った丸裸の自分のキャラクタ一に自信がなく、
キャラクターだけでは人を惹きつけられないつまらない人間だからだ。

だから彼らは「学歴」や「職歴」に執拗にこだわる。結果、彼らはその金看板を
失った途端に精彩を欠くようになり、凡骨の身であることを再確認するのだ。
まったくもってご苦労なこった。

高学歴で無教養、という人は佃煮にするくらいいる。
東大出の高級官僚たちは総じてこの類だから、
「ゆとり教育」の失敗に見られるように、文科省の学習指導要領は
いつだって本質を外れた半端な物になってしまっている。
その結果が、日本語を満足に書けない若者たちの出現である。

OECDの学力調査(15歳)では「読解力」「数学」「科学」の3分野で
支那がトップだという。日本の15歳は「読解力」で15位、「数学」で6位、
「科学」で5位だった。過去最低の成績だという。
支那人の後塵を拝するどころか、すでにそうなってしまっている。
平和ボケでスマホ中毒でゲームばかりに血道を上げるノーテンキな高校生たちよ!
もっとしっかり勉強せんかい!







←どんどんバカになってゆく日本の若者


2019年11月28日木曜日

女房と二人で囲む鍋料理

朝食はいつも別々で、互いに好きな時間に好きなものを食べているが、
昼食と夕食は基本的にボクが作ったものをいっしょに食べるようにしている。
昼は夕べの残り物か麺類、レトルトカレーなどが多いが、夕食はさまざまだ。

肉か魚かと聞かれれば、肉料理が7~8割で、残りが魚料理だ。
カミさんは魚が好きなのだが、肉派のボクが料理長なので、
自ずと肉料理ばかり食卓に並ぶことになる。娘2人も幸か不幸か
〝おやじの味〟で育ったので、孫にも味の濃い~い〝ジージの味〟が
受け継がれているかもしれない。

30年以上も台所を担当していれば誰だって料理のマンネリ化を免れない。
豚カツ、鶏のから揚げ、カレーライス、麻婆豆腐、餃子、春巻き、
小アジの南蛮漬け、キムチ鍋……etc。どういうわけか油を使った
料理が多いのだが、聞けば男の料理は一般的にこんな傾向になるらしい。

(今晩のおかずは何にしよう……)
主夫の頭を悩ませるのはいつだってこれである。
料理書をめくって決めることもあれば、スーパーの売場をブラブラしながら
考えることもある。肉や魚、野菜を見ながらその場で料理をイメージするのである。
永年、主夫(主婦)をやっていれば誰だってそのくらいはできるのだが、
イメージされるものが毎度おなじみの物ばかり、というのが難点なのである。

さて、わが家の冷蔵庫には常備菜がいっぱい詰まっている。
最近凝っているのが「野菜の甘酢漬け」。
ダイコン、カブ、赤カブ、カリフラワー、赤橙黄のパプリカ、
きゅうり、玉ネギ、きざみ昆布などを食べやすい大きさに切り、
甘酢に漬けるのである。近頃は「カンタン酢」などという便利な
物が売られているので、漬け込むのは楽チンだ。この酢の物を
〝箸休め〟的に食卓に置いておけば、身体によいという酢を十分摂る
ことができる。色合いも豊かなのでお勧めである。

寒くなると鍋料理の出番となる。
鍋が人気なのは冷蔵庫内の棚卸が同時にできることだろう。
残った肉や魚、野菜などを鍋に放り込んでしまえば、
それなりにカッコウがつく。味つけも醤油味やみそ味、
カレー味、キムチ味とバリエーションが付けられる。
鍋料理は料理初心者にとっても最適な〝入門編〟の一つなのだ

わが家にはお客さんがいっぱい来るが、冬は鍋料理を出しておけば
まず間違いはない。外国人であっても鍋料理は大受けである。
〝困ったときの鍋料理〟とはよく言ったものだ。栄養があって、
身体が温まり、おまけに野菜類をいっぱい摂れる。そして〆は
うどんやラーメン。きりたんぽや餅を入れてもおいしい。









←集会棟の裏手にあるイチョウの樹がまぶしい







で、今夜のおかずなのだが、まだ考えている。
冷蔵庫には豚肩肉の薄切りと鶏のもも肉がある。冷凍庫には
殻付きエビ、赤魚の麹漬け、サバの干物といった魚類がある。
野菜庫にはそれこそありとあらゆる野菜がいっぱいだ。
いろんな料理が思い浮かぶが、まだ決めかねている。
天候不順で、外は小雨模様。
(やっぱ鍋かなァ……)
と気持ちが傾きかけているのだが、さてどうしよう。

鍋は大勢で囲んだほうがおいしいというが、
あいにくわが家は女房と二人だけの食卓だ。
結婚早々は二人だったし、今また最初の振りだしに戻って二人だけ。
何の不足があろう。





←ベランダから眼下を見る。紅葉が美しい

2019年11月12日火曜日

本は買うものではなく借りるもの?

ボクは実名でも本を3冊出しているが、これもまったく売れなかった。
嶋中労の筆名でもパッとせず、実名で書いた本はなおさらパッとしなかった。
こんなにも〝パッとした人間(笑)〟なのに、本を書くとパッとしない、
というのはいったいどういうことなのだろう。

ボクの仲間たちはいっしょに泳いだり、キャッチボールをしたり、
旅行したり、また浴びるほど大酒を喰らったりする気安い仲だが、
ついぞボクの本を読んでくれたという話を聞かない。

「『おやじの品格』読みましたよ。面白かったねえ。女房も
いっしょに読んでますよ」
という友がいたが、聞けば図書館で借りてきたという。
(おいおい、ネットの中古品なら1円で売ってんだぜ…………ケチ!)
と内心思ったりするのだが、読んでくれるだけでもマシか、と最近思い直している。
それにしても当の作者の前で言うのだものね、悲しくなるよ。

ボクのお気に入りは、『座右の山本夏彦』なのだが、
「山本夏彦ってだれ?」
という人がけっこういるので、
(これじゃ売れないはずだ……)
と半分あきらめてもいる。
稀代の文章家で文明批評家でもある名コラムニストの山本夏彦。
ボクはこの夏彦翁の毒のあるコラムにガツンとやられ、
爾来、翁の本はすべて読破。つむじ曲がりの性格まで似てしまった。

本を出版したらすぐ夏彦翁の長男・山本伊吾氏から、
「いっしょに飯でも食いませんか?」
とお誘いの電話があった。伊吾氏とは面識はないが、
「父のことをこれほど的確に描いてくれた人はいない。ぜひ食事をご一緒したい」
と過分なるお褒めをいただいたもので、ありがたくお招きにあずかった。

山本伊吾氏は新潮社の雑誌『FOCUS』の編集長で、なかなかの切れ者と聞いていた。
指定の場所に行ったら、なぜか作家の島村洋子さんもその場にいた。
なぜ島村さんが、と訝しく思ったが、どうやら二人はできていたらしい。
三人でどんな話をしたかは、すっかり忘れてしまったが、
話の中身より妖艶でグラマラスな島村さんにすっかり魅せられてしまった。
『「不道徳」恋愛講座』などという本を出しているくらいだから、
艶っぽいだけでなく、ちょっぴり危険な匂いも。

さて、承知のように出版不況が恒常化している。
人々が本を読まなくなってしまったので、出版業界は火の車なのだ。
おまけに高校の『国語』から文学作品が消えてしまうらしい。
実際は『文学国語』と『論理国語』の二択になるらしいのだが、
教科書から漱石や鷗外が消えてしまうというのは由々しきことである。

ボクは「本は自前で買うもの」という考えだが、
「本は図書館で借りるもの」と考えている人がけっこういる。
買えば狭い家がなおさら狭くなる、というのが理由のひとつで、
それを言われるとなるほどそうだよな、とは思うが、
本に埋もれて生活するのが幸せの極致、
と考えている人間からすると、ちょっと淋しい。

読書は習慣だ。切実な内なる欲求に応えようとした習慣だ。
この習慣が身につかなければ読書家にはならない。
ボクの場合は、魂の憩う場が読書であり、多感な傷つきやすい心のシェルター
(避難所)が読書でもあった。生き抜くために絶対に必要なものが読書だった。
こうした切実な欲求を持たない人は、本など読まなくても生きていける。
それこそスマホとにらめっこして人生を終える人だっているだろう。

ボクは生涯、本を手放さないだろうし、そのつもりもない。
本と共に歩んできた半生に心から満足している。
おまけに曲がりなりにも物書きという仕事に就けた。
それこそ売れない物書きで、それも端くれのそのまた端くれだが、
自分らしくていいかな、などと近頃思っている。
負け惜しみに聞こえるだろうが、実際、そう思っているのだからしかたがない。

書きたい本はある。
コーヒー関連の本を書いてくれ、と懇意の編集者は声をかけてくれるのだが、
ほんとうに書きたいのはコーヒーとは何の関係もない。
もっと日常雑感、世相巷談的なものだ。
でも、これまた売れないだろうから、迷惑をかけてはいけないと思い、
編集者には黙っている。

一発逆転のホームランでボクも編集者もウハウハ、
というのはないのでしょうかねェ(笑)。






朝日新聞デジタルより














2019年11月8日金曜日

電子本より紙の本がいい

世の中、右を見ても左を見ても〝スマホ中毒患者〟ばかりである。
電車内は言うにおよばず、横断歩道を渡っている時も、
自転車に乗っている時もスマホが手離せない。
先日、赤ん坊をだっこしながら横断歩道を渡っているヤングママさんを
見かけたが、このママさん、一時停止をしない左折車に危うく轢かれそうになった。
そうなったら赤ちゃんもろともイチコロである。

緊急連絡が入っているのならともかく、なぜ四六時中スマホとにらめっこを
していなけりゃならないのか。スマホを持たないボクにはさっぱり理解できない。
二宮金次郎は寸暇を惜しんで読書にいそしんだ。薪を背負い四書のひとつ『大学』
を誦す子供の頃の像はあまりに有名だが、歩きながら読書する姿は〝歩きスマホ〟
を誘発するとして栃木県の某小学校はこの像を撤去、代わりに座って本を読む
金次郎像が登場したという。その学校では日頃から、「ながら行動」はしないように、
と厳しく指導しているらしい。

本好きのボクからすると、電車内から読書をする人が払底してしまったのは
いかにも淋しい。ほぼ90%以上の乗客がスマホをいじっている光景は
外国人観光客も一様に驚くらしいが、かなり異常だ。その延長線だと思うが、
今時の大学生の2人に1人は、1ヵ月に1冊も本を読まないといわれている。
これほどまで本を読まない学生を〝学生〟と呼んでいいのだろうか。
明治・大正期は〝書生〟と呼ばれていた連中である。書を読まない書生なんて、
悪い冗談でしかない。
「日本人の電圧が急激に下がりつつある」
と司馬遼太郎は嘆いたものだが、まさにそのことが現実になろうとしている。

スマホは確かに便利には違いない。
パソコンの携帯版ということだから、あの中には何でも詰まっている。
カミさんなんか、わからないことがあるとすぐスマホを手にとる。
辞書代わりに使っているのだ。また写真や動画を撮るなんて朝飯前だから、
〝一億総カメラマン〟が出現したのに等しい。有名人が隠れて逢瀬を愉しもうと
思っても、周りじゅうがパパラッチだらけなので、下手をするとすぐ「文春砲」
の標的にされてしまう。クワバラクワバラ、なのだ。

ボクは骨がらみのアナログ人間なので、当面、スマホは持たないだろう。
いや、機械に弱いから「持てない」というのが正直なところだ。
先だって、わけあって電子本を読んだ。知り合いがシベリア抑留体験を電子本に
まとめたというので、いわばお義理で読ませてもらった。正直言うと、疲れた。
内容は興味深いものであったが、パソコンの画面で活字を追うことに
心底疲れてしまったのだ。齢のせいか、近頃は視力も落ち、ディスプレーを
長時間眺めていると目がショボショボする。

アナログ人間から言わせてもらうと、「読むんだったら紙の本が断然いい」
ということだ。小学生の頃から万の単位の本を読んできたので、
本は指に唾をつけてめくる(汚ったねぇ?)というのが習慣になってしまっている。
マウスでクリックしてめくる、という読書法につい拒否反応を起こしてしまうのだ。

あと十数年したらこの世からオサラバするので、
死ぬまで〝アナログ人間〟のままでいたい、と思うのだが、
世間がそれを許してくれるかどうか。現にボクの周囲のものは
「せめてスマホくらい持ってよね」と陰に陽に圧力をかけてくる。

意外や、スマホを持ったとたんに〝中毒患者〟になったりして(笑)。
実はそのことを内心恐れているのである。
なにしろ有言不実行のいいかげんなヤツだからね、ボクは。
そのうち『スマホ万歳!』などという記事を書くに決まっている。
ダメだ、こりゃ。





←薪を横に置き、座って本を読む金次郎



2019年10月29日火曜日

吉永小百合は好きじゃない

女優の八千草薫が死んでしまった。享年88。
没年が8年前に死んだボクの母と同じである。

ボクは八千草薫が好きだった。
〝清楚〟という言葉がピッタリの美人だった。
楚々とした佇まいで、いつも品のよい微笑をたたえていた。
万事控えめな性格で、「私は大女優なのよ」などと驕った態度は皆無。
名前のとおり、八千草(多種類の草のこと)が薫ってくるような
爽やかな人となりだった。八千草には風雅な趣があった。

同じ美人女優に吉永小百合がいる。
サユリストには申しわけないが、ボクは吉永がきらいである。
顔はともかく、しゃがれた声、空っぺたな演技、そして一番ボクの癇に
さわるのがその思想性である。時に日本共産党の広告塔みたいな発言をする。

安保法制が議論されていた時、サユリ姫は安倍首相の〝積極外交〟を批判していた。
集団的自衛権の行使が可能になると「むしろ戦争につながる」というのである。

吉永に代表される〝平和の使徒〟みたいな顔をした人たちは、
平和憲法さえ後生大事に護っていれば戦争など起こらない、と考えている。
「台風来るな! 水害も起きるな!」
と呪文のように唱えていれば、台風も避けてくれて災害列島でなくなる、
みたいな考え方である。こういうオメデタイ考えを、
ボクは〝念力主義〟と呼んでいる。

日本国憲法第9条第2項にはこう書いてある。
『……陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、
これを認めない』と。
つまり、想定外の事態に直面した時でさえ自衛権は放棄する、と言っている。
領土を侵略されても、女子供が辱めを受けても、一切抵抗しませんから、
ご自由にどうぞ、というわけだ。

吉永だったら「日本は平和を愛しているから戦争をしないのよ」という理屈に
なるのだろうが、世界は「日本は戦争のできない国」「腰抜けの国」
と見るだろう。目の前で愛する人が凌辱されようが、なんの抵抗もせず、
ただ見ているだけの国。女性が犯されようが奴隷にされようが、
はたまた人間の尊厳が徹底的に踏みにじられようが、命あっての物ダネという
スタンスだ。サムライの子孫たちも、ずいぶん品下がったものである。

今国会では憲法改正論議をまず第一に進めるべきなのに、野党は揃って
与党閣僚たちの失言を追及する姿勢を崩さない。〝メロン〟で辞めた
菅原経済産業相、〝雨男〟と〝身の丈〟発言で問題視されている河野防衛相と
萩生田文科相。一国の安全保障の問題より、こうした尻のつっかい棒にもならぬ
つまらない失言のほうが大事、というのだから野党のオツムの程度が知れる。
さぞや支那や韓国・北朝鮮はほくそ笑んでいることだろう。

国会の運営費は1日当たり3億円もかかるという。
どんなつまらない議論でも、また野党が質疑をボイコットしても、
議員1人当たり1日およそ20万円が支払われる。
メロンや香典を支持者たちに配ったというだけで、
野党は鬼の首でも捕ったように騒ぎ立てる。
正義漢づらして悦に入っている野党の議員さんたちよ、
お前さんたちだって少しは身に覚えがあるだろ!
ボクは声を大にして言いたい。「この税金ドロボーめ!」と。

心地よい八千草の香りが、飛んだキナ臭いニオイに変わってしまった。
ボクの師匠・山本夏彦翁はこう言っていた。
「平和主義者が戦争を起こす」と。

「何があっても戦わない」というのは平和主義でも何でもない。
東須磨小の先生が同僚たちにいじめられたというニュースがあったが、
ボクが被害者の先生だったら、まず〝女帝〟と呼ばれる女教師の顔面に
一発喰らわせている。この被害者には同情するが、あれほどいじめられて
無抵抗なのはいただけない。ラグビーの日本代表みたいに、
死ぬ気になって戦えば勝機はあるのだ。無抵抗で白旗を掲げるのは
ただの敗北主義である。
てめえ、キン〇〇つけてんのか? 死んだ気になってボコってこい!
とボクはお上品にハッパをかけてやりたい。

日本国憲法も同じ。金は出すけど血は流さないという
〝命あっての物ダネ主義〟が一貫したトーンで、
「それでもサムライの子孫かよ!」
と世界じゅうから笑われているのが現状だ。事実、あの湾岸戦争(1990~)時、
日本は130億ドル(国民1人当たり1万円)も拠出したが、
〝too little too late〟と嫌味を言われ、「小切手外交」「血と汗のない外交」
などと西側諸国から揶揄された。130億ドルが〝too little〟ってか。
偉っそうにお説教を垂れた国、出せるもんなら出してみろよ。

そういえば野党の面々にはサムライの子孫はほとんどいない。
主だった人たちはほとんど〝在日〟だからだ。在日がきらいなのではない。
日本という国に世話になっていながら〝反日主義〟を崩さない、
その忘恩ともいえる姿勢がきらいなのである。

かつてサンフランシスコ講和条約に猛反対したのが在日朝鮮人たちだった。
日本が独立することに猛然と反対したのだ。当然だろう。彼らは
警察権が及ばないことをいいことに、好き勝手に闇商売をやっていた。
ボクの親の世代は総じて朝鮮人がきらいだったが、おそらく戦後の彼らの
無法ぶりを間近に見てきたからだろう。占領軍も見て見ぬふりをしていた。

物の本によると、日本が占領されていた7年の間に、大金持ちにならなかった
朝鮮人はいないといわれている。駅前の一等地をわがもの顔に占拠し
パチンコ屋を始めたのも彼らだった。友人K君の知見によると、
「GHQも日本人がギャンブル依存症の〝腑抜け〟になってくれればいい、
と半ば第三国人の横暴を黙認していた」
ということらしい。彼らが日本の独立に反対したのもむべなるかなだ。
その流れは民主党政権の時代まで続いていた。

土井たか子以下、福島瑞穂、菅直人、枝野幸男、福山哲郎、辻元清美、前原誠司、
そして小沢一郎でさえ在日となると、野党議員の面々の中に日本人を探すのは困難
とさえいえる。悲しいかな日本の国会は「多数派日本人の与党」と「多数派在日の野党」
という対立構図なのである。

ああ、八千草薫のいないニッポンは右も左も真っ暗闇でござんす。




←こら、おれの薫ちゃんを
気安く落書きするな!











2019年10月24日木曜日

「桜の戦士たち」が恋しいよ

なんか気が抜けたようにボーッとしている。
「毎度のことでしょ!」と言われると困るのだが、
今回は〝ボーッと〟の中身が違う。ラグビーW杯の準々決勝で日本代表が負けてしまい、
もうあの「桜の戦士たち」が観られないのかと思うと、淋しくて、切なくて、
悲しくて、その言い知れぬ喪失感にただボーゼンとしている、という感じなのだ。
世間では〝ペットロス〟ならぬ〝ラグビーロス〟と言っている。

呑兵衛仲間たちと会えばラグビーの話題だった。
朝の散歩の時に会う仲間たちも、口を開けばラグビーの話だった。
「あのガツンとぶつかってゆく雄々しさがいいな」
「倒れても前に進もうとする姫野君のガッツがいいわね」
「笑わない男・稲垣のあのムスッとした顔には笑っちゃったよ」
姫野、稲垣、田中、リーチなどと、十年の知己みたいに気安く呼んでいるが、
ついこの間まで、名前すら知らなかった連中である。

ボクもご多分にもれず〝にわかファン〟の一人である。
何度観てもルールが分からないという、末席のそのまた末席を汚している
へっぽこファンである。そんな即席ラーメンみたいに出来上がったファンなのだが、
少しも腰は浮ついていない。岩盤みたいにしっかと足をつけたファンなのである。

ボクは「いよいよ〝筋肉の時代〟が来たぞ!」などと周囲に吹聴している。
ただのマッチョではない。ガツンとぶつかり合って、時にエキサイトすることもあるが、
試合が終わればノーサイド。互いに健闘を讃え合い、リスペクトし合う。
サッカーなどではサポーター同士で争ったり、最近の「韓国対北朝鮮戦」みたいに、
「まるで戦争のようだった」と、反則のオンパレードになることだってある。

反則ならラグビーでも起きるが、サッカーには「シミュレーション」と呼ばれる
卑怯な手がある。相手選手に反則を食らったと偽装するパフォーマンスである。
ブラジルのエース・ネイマールがファウルを受けた際の〝過剰演技〟はつとに
有名だが、なに、他の国の選手だって平気でやる。VTRで再生すると、
ぶつかってもいないのに大げさに倒れ込むシーンが映っている。あのオーバーな
リアクションには誰だって鼻白んでしまうだろう。

柔道の試合にもシミュレーションに近い偽装攻撃がある。
〝掛け逃げ〟である。投げる気もないのに投げるふりをして、
相手に消極的指導を与えるように仕組む。ポイントで勝敗を分ける
〝JUDO〟ではしばしばこの偽装攻撃が用いられる。

ラグビーを手放しで絶賛するわけではないが、こうした偽装攻撃は皆無で、
あくまで正々堂々と戦う、というのを表看板にしている。
実際、インチキプレーをやっているヒマなどなく、
スクラムハーフの田中史朗などは大会直前に奥さんに向かって、
「もし俺が死んだら、新しいいい人見つけてな……」
などと言い残して家を後にしている。この言葉が決して大袈裟なものでないことは、
試合を観ればだれでも納得する。みんな満身創痍、命懸けで戦っているのだ。

20日の「対南ア戦」は瞬間最高視聴率が50%を超えたという。
2人に1人は観ていたことになる。近年では珍しいフィーバーぶりである。
結果は3対26とボロ負けだったが、スタジアムの観客たちは桜の戦士たちに
惜しみない拍手を送った。選手たちも泣いたが、観客も泣いた。
日本中が感動の涙に包まれていた。鳴り物入りの応援合戦などなくても
試合は盛り上がる。むしろ鳴り物応援がないほうが自然な一体感が生まれ、
心が一つになる。鳴り物ぎらいのボクには嬉しい光景だった。

ボクは前期高齢者と呼ばれる役立たずのジイサンだが、
姫野や稲垣選手のようなキン肉マンをめざし、日々筋トレに励もうと思う。
みごとムキムキ男になれたあかつきには、思いっきり突進してみたいのだが、
さて誰に向かってタックルを仕掛けていったらいいのだろう。
こんど100㎏超の婿殿が来たら、ぶつかり稽古のお相手をつとめさせよう。
婿殿は元早大アメフト部の猛者。相手に不足はありませぬ。いざ……




←見よ、この雄々しいタックルを!





2019年10月3日木曜日

「正論おじさん」は人類の敵か?

わが町にもうっとうしい「正論おじさん」がいた。
町のシンボルでもある「県営和光樹林公園」の芝生広場で、
ノーリードで犬を遊ばせている複数の飼い主に向かって、
「規則を守れ!」と猛烈に叱責したおじさんがいたのである。
おかげで犬を連れた愛犬家たちはパッタリ姿を見せなくなってしまった。
早朝、〝激かわ〟のワン公と同じく激かわの〝人妻たち〟とのふれ合いを
楽しみにしていたおじさんはガッカリである。

複数メディアで面白おかしく取りあげられた「正論おじさん」の元祖は、
三重県松阪市の商店街で話題になった人物で、看板が歩道に1㎝でも
はみ出していると無断で撤去、看板を出した店に猛烈なクレームを入れるという。
このため商店街は活気を失い、いつの間にやらさびれてしまった。
おじさんは89歳になる立派な〝じいさん〟だが、法律を楯に一歩も引かない。
現役時代は「最高官庁に勤めていた」と自分で言っているくらいだから、
エリート意識がいまだに抜けていないのだろう。

また路上のライブ活動は違法だ、と女性シンガーのCDを目の前で踏みつけて
問題になったおじさんもいる。これも「正論おじさん」の同類で、
法律の条文に書いてあれば絶対に正しい、と思い込んでいる正義感のかたまりだ。
しかし女性シンガーは事前に警察の許可を得ているかもしれないのだ。
であれば道交法違反にはならないし、憲法21条では「表現の自由」が
保障されている。また事前許可を受けていなくても、周辺の安全や円滑な交通が
阻害されない限り柔軟に対処しよう、というのが警察の立場で、
むやみに禁止したり、ましてや器物を損壊したりはしない。

法律の条文に書いてあることは絶対に正しい、とする教条主義的な考え方は、
専門的な言い方だと「形式的法治主義」というらしい。
一方で現代の民主主義に沿うように、柔軟に対処しようとする
「実質的法治主義」という考え方もある。

和光樹林公園の芝生広場で、それも早朝、人っ子一人いない南端の空き地で、
犬のリードをちょっとだけ放すという行為が、それほど危険なことなのか?
周辺の安全や交通を著しく阻害する行為なのか?
でないとしたら、愛犬家たちを猛烈に叱り飛ばした「正論おじさん」は
現代的な法の解釈、すなわち法律を現実に沿った形で柔軟に解釈しようとする
実質的法治主義に反しているといえる。あまりにガチガチ過ぎるのだ。

こうした正論ばかりを吐いて悦に入っている〝困ったちゃん〟は、
おじさんやおじいさんの専売特許かと思ったら、
「正論おばさんもいるわよ」
と、やはり愛犬家のおばちゃんの一人が言う。彼女は練馬から片道約40分かけて
この和光市の芝生広場まで2匹のワンちゃん(ムギ&ハナ)を連れてきているのだが、
彼女の近所には「正論おばさん」がいて、ノーリードの犬がいるとスマホで撮って、
ご苦労なことに公園の管理事務所に〝写メ〟するのだという。
このありがた迷惑な行為、どこか隣国の〝告げ口外交〟に似ている。

芝生広場に出没する「正論おじさん」の話を他の公園仲間(🚺)に話したら、
「もし嶋中さんが犬たちといっしょにいたら、
そのおじさんも注意をためらったんじゃないかしら」
「……?」
「プッ……見た目怖そうだし、身体がごつくて強そうだしね(笑)」
「…………」

たしかに、いなくてよかったかも。
いたら朝霞警察署で3回目の調書を取られていたかもしれない。
すでにDNAはしっかり採られているしね(笑)。
しばらくは静かにしていよっと。












2019年9月26日木曜日

マウンティングおじさんのお通りだぃ!

花も鳥も美しい風景も、ボクにはとんと興味がない。
だから旅行も行かない。若い頃、国内外の主だったところはさんざっぱら見て回った
から(ほとんど仕事で)、今さら見聞を広めようといわれても食指が動かないのである。

加齢もあると思う。それと膝痛。65歳を過ぎた頃から極端なものぐさ人間になり、
隣町へ行くのもめんどうになってしまった。おまけに「モノ」に対する無関心。
その感性は小さい頃から変わらず、きれいな花の写真を見せられても、
「きれいですね」と月並みな言葉を添えるものの、心は動かされていない。
ボクは「モノ」より「コト」、コトを為す人間にしか興味が持てないのである。

嶋中さんはコーヒーの専門家なんです、などと人前で紹介されると、
尻がこそばゆくなってしまう。『コーヒーに憑かれた男たち』や
『コーヒーの鬼がゆく』といった本を書いてはいるが、
コーヒーそのものの専門家ではない。書いたのはコーヒーに〝憑かれた人間たち〟
であって、コーヒーは何がうまいとか深煎りがお奨め、などと書いてあるわけじゃない。人が憑りつかれる対象はコーヒーではなく酒でもマンジュウでもいいのだ。
要は何ものかに憑かれてしまった人間の心のありようを描きたいのであって、
憑かれた対象は何でもいい。

ボクは毎朝、近くの公園を散歩する。公園には犬を連れた〝人妻〟たちや、
紙飛行機を飛ばしているおじさんたち、ヨロヨロと走り回っているおじさんやおばさん、
大きな声で本を朗読しているおばさんやオカリナを吹いているおばさんもいる。
なかには池の亀を手なずけている〝カメおじさん〟やカラスに餌付けしている
〝カラスおじさん〟もいる。

ボクは気さくに声をかけ、こうしたおじさんやおばさんと言葉を交わすのだが、
いっこうに口を開こうとしないおじさんや、逆に一方的にしゃべりまくる
おじさんもいる。概ね、おばさんたちは社交的で礼儀正しいが、
おじさんには非社交的な人が多く、ボクなんかつい、
(この無口なおじさんも見切り品の野菜みたいに〝わけあり〟なんだろうな……)
などと、勝手に想像をたくましくしてしまう。
ボクの趣味は昔も今も変わらず〝人間観察〟オンリーなのである。

公園でもちらほら見かけるが、いわゆる〝マウンティングおじさん〟と呼ばれる
珍種がいる。いや、外国では比較的珍しいそうなのだが日本では全国各地に
広く棲息している。マウンティングというのは、多くの哺乳類のオスが
交尾の時にとるポーズで、他のものに馬乗りになる行動だ。サル山などでよく
見かける行動で、個体間の優位性を誇示するポーズといわれている。

人間もサルの仲間だから、DNAに〝マウンティング〟の習性が刻み込まれている
にちがいない。最近ではタワーマンションなどでもマウンティング行為は
よく見られるらしい。値段の高い上層階の住人が値段の安い下層階の住人を、
文字どおり〝下目に見る〟という擬似的マウンティングだ。

ボクがよく言う「むかし偉かったおじさん」という種族は、
会話の中になにげなく、ほんのうっすらと、自分の有能ぶりを織り込んでくる。
現役の頃は十数億の金を動かしたことがあるとか、超一流の大学を出ているとか、
露骨には言わず、さりげなく、微妙な言い回しで、相手が察してくれるように
アピールする。

以前、ある人物を取材した時、ボクが出身校を訊こうとしなかったので
(記事に必要なかったから)、この人物はご苦労なことに、あの手この手で
そっちのほうへ話題を振ろうともがき始めた。そしてしまいには、
『♪嗚呼玉杯に花うけて』を鼻歌まじりに小声で歌い出したのである。
自分は実は東大出身なのである、と何としてでも伝えたかったのだろう。
東大卒って大変なんだな、とボクは心より同情した。

こうした手の込んだ自己宣伝を「安っぽいプライド」と一蹴するのは簡単だが、
ボクにとっては大切な〝お客さま〟で、巧みに相槌を打ちながらそのプライドを
くすぐってやる。相手を値踏みして自分が「勝った!」と思ったおじさんは、
マウンティングできた喜びをかみしめながら去ってゆく。
これも〝自己承認欲求〟の別バージョンなのだろう。

おじさんという生き物は悲しいかな、絶えずマウンティングしていないと
気分が落ち着かないようだ。おばさんたちのように相手と〝親和性〟を築きながら
会話する、というのではなくて、自己の優位性をキープしながら会話に興ずる、
というのが理想だから、勝った負けたで一喜一憂するボス猿的な行為は
いっかなやめられないのである。

ボクが住む1600世帯のマンモス団地には、この〝マウンティングおじさん〟
と称する厄介なおじさんたちが佃煮にするくらいいる。そういえば、
同じ棟の中には苦労の絶えない東大出がウジャウジャいるし、医者や弁護士、
大学教授といったおじさんたちが目白押しだ。ボクはどっちかというと
マウンティングするよりされるタイプで、「こんな粗末なお尻でよかったら」
と進んでお尻を突き出してあげる(笑)。

おじさんという悲しい生き物は、定年後であっても絶えず序列にしばられ、
自分が仲間内でどのくらいの位置にあるのか、確認しないでは生きられない。
ナイーヴだから自尊心が傷つけられるのを極端に恐れている。
傍目には強がっているが、生命力はおばさんほど強くはないのだ。

ああ、今日はどんなマウンティングおじさんに出会えるだろうか。
馬乗りされ過ぎてお尻が擦りむけてきたけれど、秘かな楽しみでもある。
われながら〝変な趣味〟だとは思う。万事控えめな善人を装ってはいるが、
これこそ究極のマウンティングだったりして(笑)。
底意地が悪いのだよ、きっと(笑)。




←サル山でのマウンティング。
馬乗りならぬ〝サル乗り〟だ。

2019年9月4日水曜日

ニンゲン様は偽善がお好き?

英国最大の野党・労働党が先ごろ公約を発表した。
①商業捕鯨の再開をやめさせる←これは明らかに日本を標的にしている。
②競馬でムチを使用しない←お尻が痛いの、と馬が訴えてるんだって。
③ロブスターやカニを生きたまま茹でない←熱くて火傷すっから、だって。
➃ガチョウやアヒルに強制的に餌を与え肝臓を肥大化させるフォアグラ。
その輸入を禁止する←フォアグラは旨いけど、確かにこれはちょっとかわいそうだな。

①イギリス人ごときに言われたくないよね。
世界中を植民地にし、数世紀にわたって暴虐の限りを尽くしたくせに、
なに? 「頭のいいクジラを殺すなんて、日本人は野蛮よ!」だって?
ふざけるな。お前たちが狩りのように殺しまくったニンゲンは、
クジラ様より頭のわるいゴキブリ以下の生き物なのか?

お前さんたちに人権や動物の権利を語る資格などハナからありませんよ。
クジラを食べたり犬を食べたりするのはその国固有の文化で、
日本にはいただいた肉への感謝や弔いの意をこめて造った鯨塚がいっぱいある、
という事実すら知らんだろ。包丁塚や人形塚も同じ。生命が宿っていないものにも
感謝の思いを捧げる。生きとし生けるものには命が宿る、とする古神道的な心性
が無機的なものにまで及ぶ、と考えるのが日本人だ。鯨の油だけ搾り取って、
肉も皮も骨も髭もポイと海に捨ててしまう欧米人などとは、
人間の出来がちがうのだよ。

②たしかにムチで叩かれれば痛いよね。人間も動物もおんなしだ。
でも、もともと人間の快楽のために始めた競馬でしょ? 
ドッグレースにしたって同じ。動物にしてみりゃ、(なんで走らにゃいかんのよ?)
と思うでしょ。みんな人間がわがまま勝手に始めたこと。動物に競走させて、
勝った負けたと賭け事に興ずる。敗戦後、マッカーサーは靖国神社を
ドッグレース場に変えようとしたからね。何を今さらムチは使わない、だ。
そういうのを偽善と申します。

③エビやカニにしてみりゃ、いきなり熱湯に入れられたら驚くよね。
だからせめて息の根を止めてから茹でるべき、というのだけれど……
日本にはシロウオやタコの踊り食い、なんていう食べ方がある。
欧米人から見ると、ひどく残酷に映るらしいけど、あれって、けっこう旨いんだよね。
活け造りだって、まだ肉がピクピクしてるのを日本人は平気な顔して食べる、
と欧米人は顔をしかめるけど、アメリカ先住民の村を襲って、
赤ん坊を放り投げ撃ち殺したり、妊婦の腹を裂いたりする残酷さに比べたら、
まだマシでしょ。道徳家ぶるんじゃない、と言いたいね。

➃バブル期、ヨーロッパの星付きレストラン数十軒をめぐって、
数百万も散財し(スポンサーの金で)、高級ワインやフォアグラなどの珍味を
いやというほど堪能したことがあるけど、たしかにフォアグラやキャビアはうまいな。
でもフォアグラができるまでの工程を知ったら、ガチョウにいささか同情した。
ガヴァージュ(強制給餌)の仕方がとても残酷で、ガチョウが苦しそうなのだ。
むりやり肥大させた肝臓を食べておいしいと舌つづみを打つ人間という生き物。
地球は人間の天下なのだから仕方ないことかもしれないが、
ボクも偽善者の一人だから、フォアグラは当分食わないことにする。
いや、ほんとうは懐がさびしくて食えないのだけれどね(笑)。

英国労働党の公約に対するボクの正直な感想は以上のようなもの。
動物愛護の精神には敬意を払うけど、偉そうに上から目線で言われると、
いささかカチンとくるね。欧米人のダメなところはそこ。
自分たちが同じ人間に対して行った無慈悲な行為は棚に上げ、
「動物の権利を守りましょう!」などと善人ぶった正論を吐く。
「どの面さげて言うのか!」とボクなんかは思ってしまう。

左翼的な思想の凝縮されたリベラリズムは今、欧米でも行き詰ってしまっている。
唱えていることは正論で文句のつけようのないことばかりなのだが、
political correctnessがすでに破綻しているように、リベラル的な思想は
〝偽善〟だということが白日の下に晒されてしまっている。

英国労働党の掲げた公約はまさに〝偽善〟そのもので、
日本語でいうところの〝ええかっこしい〟というやつだ。
さんざっぱら馬の尻を叩き、茹でたエビやカニを食いまくり、
フォアグラに舌鼓を打ってきたのに、突然、動物愛護の化身となって、
「残酷なことはもうやめましょう!」と唱え出す。
ええかげんにしいや、とボクは言いたい。

以前、アリを踏み殺してはかわいそうと、注意しながら歩いていたら、
脚がこんがらがって転んでしまった。動物愛護もほどほどにしたほうがいい。



←残酷?なガヴァージュ(強制給餌)



2019年8月30日金曜日

世の中にたえて鶴瓶のなかりせば……

NHK総合に『鶴瓶の家族に乾杯』という番組がある。
笑福亭鶴瓶がゲストと共に旅をし、知らない街を散策しながら
地元の人たちとふれ合う、という紀行・バラエティ番組である。
放送開始以来23年も続いているというから、人気長寿番組の一つなのだろう。

鶴瓶はボクと同年の67歳。人懐っこい笑顔が特長で、
「あのクシャっとした笑顔に癒される」というファンも多いと聞く。
タレントの石塚英彦(ホンジャマカ)も同類で、クシャクシャっとした笑顔を作ると、
いかにも好人物、という印象を受ける。

さて飲み仲間のYさんは大阪生まれ。「鶴瓶は好きかい?」と訊いてみたら
「好きだね~。面白いもの。鶴瓶の出てる番組はたいがい見てるよ」
とのこと。関西生まれはやはり関西人のお笑いが性に合っているようだ。

Yさんには申しわけないが、ボクはこの鶴瓶というタコ顔の男がきらいである。
『家族に乾杯』の中で、見ず知らずの人の家に入り込み、
「奥にいる爺ちゃん呼んできて!」
などと偉そうに命じている。このタコ男、いったい何様だと思っているのか。
あたしが奥にいる爺ちゃんだったらタダじゃおかない。

有名人のおれ様がわざわざ訪ねてきてやったんやから感謝せえよ、てな調子である。
あのいけ図々しさは大阪人特有のものなのか、東夷(あずまえびす)のあたしには、
サッパリ理解できまへんわ。

ハッキリ言うが、鶴瓶も含め関西系のお笑いタレントは少しも〝笑えない〟。
というか、ちっとも面白くないのだ。鶴瓶はCMなどにも起用されているが、
あのクシャっとした作り笑いを見るたびに、
「気色わるいやっちゃな、こいつは」と思ってしまう。

あのダミ声もきらい。風采もパッとしない。
おまけに箸の持ち方がメチャクチャで、食事作法に品がない。
育ちの悪さがぜんぶ出てる、といったら言い過ぎか。
今流行りの〝コミュ力(コミュニケーション能力)〟
は少しはありそうだが、東夷にはどうにも気持ちがわるい。
もし鶴瓶に一片の面白味があるとしたら、関西など〝地域限定〟のもので、
関東はもちろん外国などでは通用しないような気がする。

顔わるい、声わるい、目つきがわるい、品がない、図々しい、
汚らしい、見た目が愚鈍そのもの、標準語が話せない……ときたら、
いいところは一つもないが、実際、どう贔屓目に見ても、
評価すべきところが一つもないのだからしかたがない。

それに鶴瓶はつむじが左巻きだ。かつてこんな発言をしている。
「違憲という人がこれだけ多いのにもかかわらず、何しとんねん!」
自民党が国会を通そうとした通称「安保法制(正式には平和安全法制)
に対して、鶴瓶が発した難クセである。

言っちゃ悪いが、鶴瓶ごときに何が分かる。
「戦争は絶対しちゃだめ!」などと言っているが、
そんなことは当たり前ではないか。じゃあ、戦争を未然に防ぐためには
どうしたらいいのか、国土防衛の具体策を挙げてくれ、と問われたらどうする。
まさか半世紀前に社会党が唱えた〝非武装中立〟だなんて妄言を
引っ張り出すんじゃないだろうね。

餓狼(がろう)のような国に囲まれている悲しき日本である。
十年一日のごとき野党の、
紛争は「話し合いで解決すべきだ」という言い草じゃあ通らんだろ。

またこのタコ顔の男は、
「竹島なんて、(韓国に)あげたらええやん」
などと放言している。自国領土を平気で譲り渡そうとする非愛国的で未熟な精神。
ロケ隊とともに、この売国奴がわが町に一歩でも踏み込んだりしたら、
六尺棒でなぎ倒してやるから覚悟しておけ!

とまあ、いくぶん芝居がかったセリフでこきおろしてみせたが、
要は鶴瓶という厚かましくも無芸なタコ男が、心底きらいなのである。
あんな気色わるい男、後生だから公共電波にのせないでいただきたい。
もし『家族で乾杯』をまだ続けるおつもりなら、
「NHKから国民を守る党」に一票入れちゃいますからね、お覚悟召され。

       世の中にたえて鶴瓶のなかりせば春の心はのどけからまし




←気色わるいタコ男の鶴瓶



            





2019年8月23日金曜日

坊さんもすなる〝あおり運転〟

あおり運転をしたうえ、相手の運転手の顔をしこたま殴りつけた宮崎文夫容疑者。
「殺すぞ!」と叫びながらこっちに向かってくる様子は尋常ではない。
カモにされた相手の運転手も相当ビビったのではないか。

その話題を団地の仲間たちに振ったら、
「相手の運転手が嶋中さんだったら、宮崎のほうが逆にビビっちゃうんじゃないの?」
「何よ、それ」
「だって、見るからに凶暴そうでガタイもデカいし……ケンカも馴れてるし」
「…………」
「そうだよ。おれが宮崎だったら踵を返して逃げるね。
なんてったって傷害で2回も捕まってんだから、ハンパないよ」
「…………」


仲間のひとりY君は大阪生まれ。宮崎と連れの醜女ガラケーおばさんがとっ捕まった
大阪のマンション前はYの実家の近くだという。現在、妹御が住んでいて、
「あれっ? 犯人の捕まったマンションって、うちの近所とちがう?」
兄のYにラインで緊急のメールを送ってきたらしい。

宮崎容疑者は天王寺高校から関西学院大に進んだエリート。
Yの話だと、天王寺高校から東大や京大へ行く生徒は殊のほか多いという。
関西学院大といえば、わが家も無縁ではない。娘婿の兄が関西学院大アメフト部の
現役コーチなのだ。宮崎のような凶暴な卒業生を輩出したとなれば、
大学としても不名誉極まりないことだろう。

それにしても、宮崎容疑者はよく周囲にこう漏らしていたという。
(自分が乗ってる)ポルシェが軽(自動車)に追い抜かれたりすると無性に腹が立つ」と。
こういう輩って、悲しいけどけっこういるよね。変形した「事大主義」というか、
有名ブランドの持ち物(車やバッグ、時計など)で
自分を大きく見せようとするやつ。

宮崎という男は口を開けば「女と車の話ばかり」で、
ほとんど中身はなかった、と知人たちは口を揃える。
せっかく名門と呼ばれる学校を出ているのに、女と車の話ばかりでは
お里が知れるというものだ。どっちにもさっぱり興味のないボクなんか、
宮崎の目の前で大あくびをしてしまいそうだ。
「てめェ、ぶっ殺すぞ!」
宮崎に凄まれたら〇〇タマが縮み上がってしまう。

それにしても〝あおり運転〟がいっこうになくならない。
1月には大阪・堺市で寺の住職(61)があおり運転をしたうえ、
相手の運転手の胸ぐらをつかんだ疑いで、書類送検されている。
ホトケ様に仕える出家の身であっても、カッとなると何をしでかすかわからない。
悟りを開いたような顔をしていても、きっと野狐禅(やこぜん)のたぐいなのだろう。

坊さんなおもって〝あおり運転〟を遂ぐ。
いわんや俗人をや。






←胸ぐらつかんで〝辻説法〟か。


2019年8月22日木曜日

朝の公園は人間交差点

和光市には東京ドーム4.3個分の広さを誇る「県営和光樹林公園」がある。
ボクはほぼ毎朝、この樹林公園で数時間過ごす。
公園内には1周1キロのジョギングコースがあり、毎朝ジョガーたちが
必死の形相で走っているが、ボクはヒザ痛の持病を抱えているので、
ウォーキングやジョギングはパス。芝生広場で軽い体操や筋トレをやっている。

緑に囲まれた芝生広場には、早朝、愛犬家たちが集まってくる。
広場の端のほうで、リードを外し、思いきり走らせているのだ。
いわゆる〝ドッグラン〟状態。ノーリードは規則違反なのだけれど、
ほんの数十分だけだからと、管理事務所の職員も見て見ぬふりだ。

ボクはこの愛犬家のおじちゃんやおばちゃんたちと、いつの間にか
言葉を交わすようになり、今ではほとんど毎日、おしゃべりに興じている。
犬たちの名はモモ、ユキ、ムツゴロウ、クリス、フクサブロー……といったもので、
犬種もさまざまだ。犬同士も逢うと嬉しいらしく、しっぽを振りながら
じゃれ合っている。その様子がとても可愛く、つい頬がゆるんでしまう。

芝生広場には他に名物の〝紙飛行機おじさん〟たちも来る。
それぞれ自慢の紙飛行機を飛ばしているわけだが、
(いったい何が面白いのかねェ……)
と、ボクにはいまだに理解不能で、自分で作って飛ばしてみよう、
などとは金輪際思わない。あのパフォーマンスも〝自己承認欲求〟の
一種なのかもしれないが、魅力の本質がさっぱり掴めないので、
おしゃべりにはつき合うが、
紙飛行機の飛ぶサマはほとんど無感動のまま眺めている(Nさんゴメンネ)


←この紙飛行機おじさんは
Nさん。もと整骨院の院長で、
自転車レースで名を馳せた人でもある。








公園にはさまざまな人間が集まってくる。
今日初めて会ったおばちゃんは、芝生公園の端っこで本を音読していた。
見ると歌舞伎の口上や〝生麦生米生卵〟といった早口言葉、古典の名句などが
集められている本で、こうした名句を高らかに音読することで、心と身体を
鍛えているという。おばちゃんは馴れないのか、恥ずかしそうに音読していたが、
腹から声を出すのは身体によさそうだ。また暗唱すればボケ防止にもなる。

そうかと思うと、木陰でオカリナを吹くおばちゃんたちがいる。
『蘇州夜曲』『東京ブギウギ』『高原列車は行く』といった懐メロで、
どちらかというと親の世代に流行った曲ばかりなのだが、幼い頃に聴いた
曲調が耳に残っていたので、いっしょに歌ってみたら、おばちゃんたちは
殊のほか喜んでくれた。

毎日顔を合わせれば、自然と「おはようございます」の挨拶が交わされる。
こうして知り合った〝ともだち〟がけっこう多くて、友達の輪がどんどん
広がっていく。幸い、ボクは誰とでも気さくに話せるオープンな性格なので、
彼らも自然と受け入れてくれるようだ。いくぶん残念なのは、知り合いになった
人たちのほとんどがボクより年上で70代、80代の人ばかり。
ほんとうは〝若い人妻たち〟を友達リストに加えたいのだが、
実際は〝年老いた人妻たち〟ばかりで、いまひとつモチベーションが上がらない(笑)。

そうは言っても、鏡に映ったわが身を見ると、紛うかたなき〝おじいさん〟で、
人のことをとやかく言えた義理ではないのだけれど、そこはまだ現役の〝🚹〟
であるからして、ムダな抵抗と知りつつ、一言いってみたいのである。

朝晩、ようやく涼しくなってきた。
明日も、また明後日も、樹林公園で〝若い人妻〟探しの旅が続くだろう。
ホンにご苦労なこった。


←やや〝若い人妻〟(笑)。
ワン公は左が「モモちゃん」、
右が「ユキちゃん」。





2019年8月13日火曜日

人生は悲しみひとつ

飲みすぎと夏バテが重なって体調がチョー悪し、という感じだったので、
命を護るため高らかに禁酒宣言を発した。

で、どうなったかというと、2日間の完全禁酒に成功した。
大方の予想では「1日だってムリでしょ」が大勢を占めていたから、
2日も禁酒したら大成功である。あんまり嬉しいものだから、
ここ数日、仲間たちと祝い酒に興じている。

先日、ボクの親友が膀胱ガンで亡くなった。まだ60代半ばである。
最愛の夫を失った奥方は、
「もう二度とあの笑顔に会えないのかと思うと心底辛い。そしていまだに
そのことが信じられない」と嘆いていた。
また友人Nの娘婿はすい臓ガンと診断され、Nはほとんど絶望している。
婿さんはまだ40代。子供も3人いる。サイレントキラーと呼ばれるすい臓ガン。
めったなことは言えないが、生還を祈るしかない。

ボクの愛読書でもある『The Little Prince』の中に、王子がいろんな星を
訪ねるシーンがある。その中の一つは酔っぱらいの住む星だった。
王子様は酔っぱらい男にこう尋ねる。
❛What are you doing there?❜
酔っぱらいは悲しそうな顔してこう答える。
❛I am drinking,❜
❛Why are you drinking?❜
と重ねて訊くと、この酔っぱらいは、
❛So that I may forget,❜と答える。
王子はやや同情気味に、
❛Forget what?❜と訊けば、酔っぱらいは、
❛Forget that I am ashamed,❜と首うなだれながら答える。
王子はなおも、
❛Ashamed of What?❜と訊く。
酔っぱらいは、こう答えて口を閉じた。
❛Ashamed of drinking!❜

酔っぱらいの気持ちは半分わかる。
辛いこと、悲しいこと……生きていれば「愛別離苦」は誰にだって訪れる。
宗教家の紀野一義は、人の生涯は〝悲しみ一つ〟と思いきわめろ、と言っている。
「親鸞は〝悲しみをよく知る人〟であった。悲しみをよく知る人でなくては
大勢の人を幸せになどできないのである」

人生は悲しみひとつ。
そう思いきわめれば、
そこはかとない無常観に包まれ、
生きとし生けるものに対して優しい眼差しが向けられる。
ボクが求めている境地はココなんじゃないか。
悲しみを根っこに持つ明るい無常観、とでもいうべき境地なのではないか。
 

今の瞬間が幸せでも、次の瞬間は不幸の淵に立っているかもしれない。
一寸先は闇で、突然の輪禍であの世に逝ってしまうかもしれないのだ。
現にそんな事件や事故が後を絶たない。

酒を飲みながらそんなことにのべつ思いをめぐらせているわけではないが、
「苦い酒」「悲しい酒」の味だけは心に刻んでおいたほうがいい。

星の王子様は酔っぱらいが住む星を去る時、こんなふうに呟く。
❛The grown-ups are certainly very , very odd,❜



2019年7月16日火曜日

鼻の上下 臍の下

知り合いのNさんが、
「嶋中さんは相撲見てる?」と訊くから、
「見てますよ。最近は小兵の炎鵬とか竜電とか、
勢いのある新しい顔ぶれも出てきたからね」
と応えると、Nさんはニヤッと笑って、
「あたしは砂かぶりで観ている和装の〝きれいどこ〟を見ているんですよ」
ときたもんだ。この狒々爺さん、相変わらず女好きときてる(笑)。

相撲中継を見ていて気づくのは、土俵下の砂かぶり席に着物姿の〝きれいどこ〟が
多いことだ。あの着こなしを見ると花柳界のお姐さんや高級クラブのママたちだと
思われるが、なぜ彼女たちが特等席ともいえる土俵際の見物席を占めているのか。
芸妓は相撲が死ぬほど好きなのだろうか?
それとも彼女たちは相撲取りのタニマチなのだろうか?

こういう古川柳がある。

        日に千両 鼻の上下 臍(へそ)の下

寛文年間に作られたもので、鼻の上は目だから「歌舞伎芝居」。
鼻の下は口だから日本橋の「魚河岸」、そして臍の下とくれば、
言わずもがなの「遊里吉原」に決まっている。

これが当時殷賑(いんしん)をきわめた三大消費経済の中心で、
文字どおり日に千両、合わせて三千両が動いたという。

いささか三題噺めいた話になるが、震災(関東大震災)前の歌舞伎の隆盛を
支えたのは、魚河岸と色里の連中だった。〝総見〟と称して、日頃狂言に
馴染みのない者たちも打ち揃って見物してくれたのである。

歌舞伎役者(芸人)や漁民(海民)も、そして色里の遊女たちも、
身分的にはみな賤業視されてきた仲間同士だ。

魚河岸の連中が歌舞伎をひいきにしたのも、互いに〝化外(けがい)の人〟という
身の上が同じだったからに違いない。化外の人というのは文化の及ばない
野蛮な人の意である。歌舞伎役者はもともと河原乞食と呼ばれた連中だし、
漁撈の人たちも「士農工商」の身分制度の外側にいた。もちろん遊女たちは
最底辺に位置づけられたものたちである。

その被差別の者たちが、昔からの絆を大事にし、生活互助会的な見地から、
互いに助け合い支え合っていたとしても不思議はない。
「いや、ただのタニマチだよ」
といわれればそうかも知れない。本場所だけでなく地方場所に和装の美女たちが
多く出没するというから、相撲取りたちがひいきにしているクラブのママ
というのがたぶん真相だろう。

あの砂かぶりの特等席は「溜席(たまりせき)」と呼ばれるもので、
日本相撲協会に寄付した人たちが座れる席だ。15日間の通し席で、
東京場所だと年間390万円以上、地方場所だと130万円以上かかるという。
なかには暴力団がらみの人たちもいるというが、彼らを業界では〝維持員〟
と呼んでいる。古来からの相撲の維持発展に協力しているから「維持員」
と呼ぶのか。

芸者もクラブママも〝水商売〟と呼ばれる人たちだ。
客の人気だけが頼りで収入が不確かだからそう呼ばれる。
実はボクみたいなフリーのライターも彼らの同類で、
お堅い銀行屋から見ると、金を貸したくない最右翼らしい。
実際、ボクなんか食うや食わずの生活なのだから、
水商売と呼ばれるのも当然だろう。

先述した歌舞伎役者も、漁撈関係の人たちも、また芸妓たちも人気や
天候によって収入が左右される立派な〝水商売〟である。歌舞伎役者などは
名門と称して偉そうな顔をしているが、元をただせば河原乞食と呼ばれていた
〝化外の人〟たちで、つい最近までは堅気の人たちと画然と区別されていた。

以前も少しふれたが、藤山寛美が人気絶頂の頃、街中を歩いていたら、
小さな女の子が指さして「あっ、寛美よ。お母さん、寛美がいる!」
と叫んだら、かたわらの母親が、
「指でさすのはおやめ。指が腐る」と言ったとか。

今なら人権侵害といわれるかもしれないが、虚業と実業は当時ハッキリ区別されていた。
差別ではなく区別。事実、芸人は大衆に愛された。愛されはしたが、正当な労働で
稼いでいるわけではないから区別された。あぶく銭で食っている人たちばかりに
お天道様が当たったら、汗水たらして働いている堅気の人たちが報われまい。
そんなまっとうな精神から、この「区別」が生れたのである。
そんな世間の〝眼〟が肌身に沁みているからだろう、芸の鬼と呼ばれた勝新や寛美は、
その日稼いだあぶく銭をその日のうちに使い切ってしまおうと、狂ったように散財
したという。

さて砂かぶりの〝きれいどこ〟は誰なんだ、という話が妙な方向へ行ってしまったが、
歌舞伎役者も相撲取りも、また花柳界のお姐さまたちも、みな〝同じ穴の……〟
のような気がする。共通項は昔でいえば〝化外の人たち〟であり、現代風に言えば
〝水商売〟である。つまり堅実さを伴わない仕事、すなわち虚業に生きる人たちで、
ひと昔前であれば「指が腐る」と後ろ指をさされた人たちである。

ならば犬畜生と同類かといわれれば、そうではない。
水商売にも水商売なりの気概がある。矜持(きょうじ)もある。
ボクなんか金がない分、矜持だけで生きている。
しかし所詮はコトバという符丁を操って飯を食わせてもらっている〝虚業〟
という事実は片時も忘れたことはない。
だから、ごく控えめに、目立たないように地味に生きている。
地味でないのは酒の飲みっぷりだけ。
これだけは〝どもならん〟のでお赦しを(笑)。







←観戦中、ずっと正座だもんね。
膝痛で正座ができないボクなんか羨ましくて……


2019年7月11日木曜日

素描・いけ好かない人たち

(どうもこの人、いけ好かないな)と思うことはよくある。
理屈は正しいのだが、どうでもいいような些事を取り上げては、
ひとこと物申す、という感じで、団地総会などでこの手の御仁が発言しだすと、
みな(またかよ……)といったウンザリ顔で、時計を気にしたりする。
悲しいことに本人は得意満面のドヤ顔で、あたりを睥睨(へいげい)
するかのように胸を張っている。で、またやたら長いのですよ、
この手合いの話は……。

そんな、どこにでもいそうな〝変な人たち〟を思いつくままに挙げてみる
(おれもヒマだな)
気位の高い人
知り合いのひとりなのだが、自分からは絶対に挨拶しない。こっちが「Sさん」と
呼びかけると、さも驚いた風を見せ、挨拶を返してくれるのだが、なに最初から
気づいているのである。このSさん、「若い頃はさぞや」と思わせる美人のおばさん
なのだが、このわざとらしいおトボケぶりが欠点といえば欠点。
たぶん一生この調子だろう。

相手の顔をジロジロ見るおじさん 
比較的年配のおじさんに多いタイプ。散歩のときなどで、
すれ違う際にジロジロ顔を見られる。「こいつはどんな素性の男なんだ?」と、
訝しそうな顔で通り過ぎる。国際的なマナーでは、相手の顔をジロジロ見る
というのはバッドマナーの典型。発展途上国などでよく見られるマナー違反だが、
先進国の日本でも〝おじさん〟と呼ばれる種族はよくこれをやる。

人の話を聞かず、自分ばかりしゃべりたがる人
記者時代は職掌柄、三分七分で(相手が七分)、どっちかというと聞き役に
回っていたが、今は四分六分くらいになっていると思う。時々、
「嶋中さんは聞き上手よね」などとお褒めの言葉をいただくことも。
話が盛り上がる時は互いに話のキャッチボールをしている時。
一方だけがしゃべり、それも自慢話ばかりだったら確実にきらわれる。

いわゆる〝正論おじさん〟
一部で社会問題化しているのがこの〝正論おじさん〟や〝暴論おじさん〟の存在。
言っていることは正しいのだけれど、重箱の隅をつついたような
枝葉末節のことばかり。「あなたもそう思うでしょ?」と時に同意を
求められたりするのだが、ボクは顔で笑顔を作りながら、
心の中で(ハイ、ハイ)と聞き流している。わが団地にも佃煮にするくらいいる。

〝ながらスマホ〟で自転車に乗ったり車を運転したりする人
おしゃぶりを手放せない赤ん坊みたいに、スマホ中毒にかかっている大人たちが
いっぱいいる。スマホの画面に夢中で、通行人や車に無頓着なヤングママがいた。
あろうことか彼女はベビーカーを押していた。ボクは思った。
(豆腐のカドに頭をぶつけて死んでしまえ!)と。電柱のほうがいいか(笑)。

〝本人〟の幟(のぼり)をたて、やたら握手をしたがる候補予定者
選挙期間外に自分の名前を出したり演説したりすると〝公選法〟違反になる、
というのは知っている。だが、あの〝本人〟と謳った幟やタスキを見かけると、
(バカみたい)とつい思ってしまう。自転車で走り回っている候補者を見ると、
どんなに高潔な人物であっても〝マヌケ〟に見える。いけ好かないな、
あの〝本人〟の幟は。

スーパーのレジで執拗に小銭で支払おうとするおばあさん
レジ係も呆れ、列に並んだ客たちから舌打ちされたりしているのに、
われ関せずとばかりに、財布から一円玉や五円玉を取り出そうとするおばあちゃん。
そしてまたその動きがスローモーション映像みたいに遅い。
小銭をためておきたくない気持ちはわかるが、
少しは周りの空気を読んでくれないと……齢は取りたくないもんだ。

ストリートアートと称して落書きをする無法者ども
ボクはそもそも落書きというものが大きらい。他人の家の壁や塀にスプレーで
落書きをし、「これはアートです」と開き直るものがあったら、平手打ちを
喰らわせてやりたい。バンクシーの落書きだけはアートとして価値が
認められているそうだが、これもおかしな話で、落書きする人間はどいつも
こいつも一網打尽にしてひっ捕まえ、法外ともいえる罰金を科したほうがいい。
なにがアートだ、バカバカしい。


←バンクシーの落書きだけが許されるなんて……








2019年7月4日木曜日

甘ちゃんの政治屋どもがはびこる国

例によって米国のトランプ大統領が言いたいことをいっている。
「日米安保条約は不公平だ」と。
日本が他国に侵略されたら、アメリカはそれこそ死力を尽くして日本を護るが、
逆の立場だったらどうか。日本はアメリカを助けてくれるか。アメリカのために
兵士たちは命がけで戦ってくれるか?

アメリカの言うことにも一理ある。日本は安全保障関連法が成立したおかげで、
米艦を防護したり、集団的自衛権の〝限定行使〟がほぼ可能になった。
それでもアメリカは日米安保条約を「片務的な合意だ」と不平を鳴らす。
安倍内閣のおかげで相当部分双方向の中身に変わりつつあるのだが、
やはり現行憲法の制約で、死力を尽くして共に戦う、というわけにはいかない。
ボクだったらトランプちゃんにこう言うね。
「グチャグチャ文句を言うなよ。本(もと)を正せばお前たちが無理やり押しつけた
憲法じゃないか。文句をいうなら、改憲の後押しでもやったらどうだ!」



かつてアメリカはフィリピンでヘマをやらかしている。
1991年11月、米国のクラーク空軍基地をフィリピンに返還しているのだ。
この年の4月、同国のピナトゥボ火山が噴火し、火砕流が空軍基地を覆い、
多くの建物が倒壊した。当時、〝冷戦終結〟という環境変化もあって、
この機にアメリカはスービック海軍基地と共に、フィリピンから撤収
することにしたのである。

するとどうなったか? さっそく中国のお出ましである。
南沙諸島の環礁の一つであるミスチーフ環礁を埋め立て、人工島を造って、
軍事基地化を推し進めているのである。そして今、3000m級の滑走路まで造り、
実効支配している。この環礁はフィリピンだけでなくベトナムも領有権を主張
している。が、そんな弱小国の言い分に耳を傾ける中国ではない。

「この海域は昔から中国のもので、歴史的にもそのことが証明されている」
などと一方的に主張。「九段線」なるもので、南シナ海がスッポリ収まるような
境界線を勝手に引き、主権や歴史的権利を主張している。フィリピンやベトナムは
これに猛反発、国際司法の場に訴えた。国際司法裁判所は原告側の主張を全面的に
認め、中国の主張にはまったく根拠がないと一蹴した。しかし厚顔な中国は、
「そんな紙っぺら1枚に何の価値もない」
とうそぶいた。そしていまだに中国の実効支配は続いている。

このミスチーフ環礁の事例は決して対岸の火事ではない。
アメリカの軍事的プレゼンスがなくなった途端に、中国やロシアがこれ幸いと
その空隙を埋めようとする。国際政治の場は、油断も隙もあったもんじゃないのだ。

沖縄の玉城デニー知事は、前任の翁長知事とまったく同じ口調でこう言っている。
「普天間基地の県外移設と早期返還をお願いしたい」と。
沖縄には申し訳ないが、普天間飛行場から米軍が撤収したら、
フィリピンの二の舞になるかもしれない。尖閣どころか台湾も沖縄も中国に分捕られ、
軍事基地化されてしまうかもしれないのだ。
「そんなの杞憂ですよ」
と誰が確信をもって言えよう。

沖縄が中国のものになれば、太平洋への入口が一気に開かれる。
中国とロシアがそのことをどれほど望んできたか。
地政学的な価値からすると、沖縄は中国にとって垂涎の的なのである。

アメリカのトランプがあんまりゴチャゴチャ言うようなら、
こう言い返してやればいい。
「日本も核開発しますよ」と。
開発した核を世界一静粛性の高い日本の潜水艦に積んで東シナ海を遊弋(ゆうよく)
させれば、さすがの中国も手が出まい。イギリスは核弾頭付きのトライデント・
ミサイルを搭載した4隻の原子力潜水艦を保有している。たった4隻でも抑止力は
十分で報復を恐れどの国も手出しができない。この比較的安価なイギリス方式を
マネればいいのである。

集団的自衛権の行使は違憲であり、安保法制は〝戦争法案〟だ、
などと、相変わらず日本の野党はいきり立っている。
では日本の平和と安全をどうやって守るのだ、
揚げ足取りばかりやってないで対案を出せ、と言ってもそれはないという。
「話し合いで解決すべきだ」
などと子供じみたことをいう。話し合いで解決できないかしら、
とフィリピンやベトナムは国際司法の場に訴えた。で、解決したか?

国際政治の場は「話し合いで解決」できるような生やさしい場ではない。
軍事力を背景としたパワー対パワーがぶつかり合う決闘場みたいなところで、
そんなことは少し歴史を齧れば分かることだ。世界は冷徹な〝パワーポリティクス〟
によってどうにか均衡が保たれているのである。国同士の〝善意〟が通用する
ような場では金輪際ないのだ。

まずは憲法を改正して自衛権の問題を現実的なものに戻さなくては
何も始まらない。それより何より、日本国は〝平和を愛する隣国〟の
善意によって護られている、といった内容のあの恥ずかしい〝前文〟を
何とかしてくれ。気恥ずかしくて読むに堪えない。
恥を知らない野党の〝税金ドロボーたち〟には到底理解できまいが、
憲法改正は国家の存亡に係わる喫緊の課題なのである。





←中国が軍事基地化を進めている
南シナ海の人工島。

2019年6月22日土曜日

白いパンは生焼け、黒は焼けすぎ、黄色は?

アメリカで社会保障番号みたいなID番号を取得するには役所で申請書を
書かなくてはいけない、という話を前回書いた。で、そこには髪の色とか目の色、
肌の色を記入する欄がある。「肌の色」の欄は白人はCaucasian、黒人はBrownとか
Darkと書くらしい。日本人は黄色人種だからYellowと書くと思いきや、
役人は「Mediumと書け」とおっしゃる。ならば、ちょっと色白の日本人は
Medium-rareなのかよ、と皮肉まじりに尋ねてみた、という話を書いた。

さて、このWhite personをCaucasian(コーケイジャン)と書くのはアメリカだけ
なのだという。ヨーロッパでは使っていないらしい。白人は人種分類では
Caucasoid(コーカソイド)と呼ばれる。接尾語の「……oid」は「~のような」
の意で、「コーカサス出自の人種」という意味である。つまりカスピ海と黒海に
挟まれたコーカサス地方出身の人種に由来していて、ご承知のように黒人は
ネグロイド、黄色人種はモンゴロイドと呼ばれる。

なぜ白人はコーカソイドなのか。それは『旧約聖書』を読めばよく分かる。
旧約の創世記によると、紀元前3000年頃、地球上に40日間にわたって大雨が降り、
大洪水に見舞われたという。日時は2月17日だ。(昔も昔、気の遠くなるほど大昔の出来事
なのに、なぜそんな詳しいことが分かるんだよ、などと茶化してはいけない。ホントもウソも聖書に
そう書いてあるのだからしかたがない)


←ボクが持っている『旧新約聖書』。
日本聖書協会発行の旧字体の聖書で、
至る所に赤線や書き込みがしてある。
『原始(はじめ)に神天地を創造(つくり)
たまへり』で始まる文章は格調が高い。







いわゆる〝ノアの方舟〟の伝説である。ノアはこの時、年齢が600歳だった。
双子姉妹で100歳を超えたきんさん・ぎんさんなどの及ぶレベルではない。
他にも1000歳なんて人間が旧約には出てきたりするから、当時の人間はみな
並外れて(外れ過ぎだが)長寿だったのだろう。もっともイエス・キリストは
処女懐胎したマリアさんのお腹から生まれたというから、『旧約』も『新約』も
〝トンデモ説満載のトンデモ本〟の一種であることはまずまちがいない
(クリスチャンの皆さん、暴言妄言の数々をどうかお赦しください)

そのノアの方舟は現在のコーカサス地方のアララト山(標高5137㍍)にたどり着いた。
ノアの息子3人は上からセム、ハム、ヤペテ。だれが決めたんだか、
この3人の息子たちが人類の始祖ということになっている。大まかに言うと、
セムの子孫が黄色人種、ハムの子孫が黒色人種、ヤペテの子孫が白色人種と
されている。つまり「インド・ヨーロッパ語族」と称する白人たちはすべて
〝ヤペテ系〟なのである。

人類の中でヤペテ系の白人が最も優秀で容姿も美しい、と唱えたのはドイツ人医師の
ブルーメンバッハだ。当時の人類学は科学的根拠に乏しく、人種差別的な思想が
色濃く投影されていたから、「白人至上主義」的な考えがはびこったのも無理はないが、人類の祖先はアフリカの黒人で、白人は黒人の白子(albino)に過ぎないという説が
有力な今日、白人優位説はどう考えても説得力を持てそうにない。

アルビノという色素欠乏症の個体は2万人に1人くらいあるらしい。ボクが子供の
頃にも、近所に白子の男の子が一人いた。髪は白色で、肌もすべて真っ白だった。
メラニン色素を合成できないという遺伝子疾患を持つ個体だそうで、時々テレビの
ニュースなどでも白いライオンや虎などが話題になったりするから、
皆さんよくご存じだろう。

アルビノは色素を持たないから太陽の紫外線に耐えられない。
で、アルビノのグループが酷暑のアフリカから命からがら逃げ出し、
彼らの多くが住みついた場所が寒冷なスカンジナビア半島だった、
という説がある。それが白人の起源なのだそうだ。

北欧出身の人には金髪が多い。金髪も実はアルビノの一種で、
髪の毛の色素がないとされている。一般に、アルビノの寿命は短い。
30歳まで生きられれば御の字というから、悲しいかな黒人の劣性遺伝である
アルビノは至極短命なのである。

どうやって寿命を延ばしていったかというと、メラニン色素を持っている
他の人種と適度に混じり合ってきたからだ。ブロンドだって、最初はまっ白だった
が、長い年月をかけて混血しながらほどよい色付けがなされてきた。
よく欧米人を「金髪に青い目」などとシンボライズするが、あの魅惑的な青い目は
ただ単に血管の静脈が浮き立って青く見えているにすぎない。


←先天性白皮症(アルビノ)の美しい少女









肌が白くてうらやましい、などと日本の女性たちは白人女性に憧れたりするが、
その白人たちは陽に当たるとすぐソバカスができてしまう。瞳も虹彩の色が薄い
ため、光の量が調節できず、サングラスを手放せない。すべてがアルビノ(白子)
と症状が一緒なのである。白人は人類の中で自分たちが一番優秀だなどと
威張っているが、もとをたどれば黒人の遺伝子疾患に過ぎず、たまたま近・現代、
とりわけ19世紀に世界制覇を果たしたため、「俺たちはすごいんだ!」と勘違い
してしまったのだろう。

ボクは白人だろうと黒人だろうと「差別」はしない。ただし「区別」はする。
男女の更衣室やトイレを区別しなかったら、それこそ大変なことになる。
その「区別」である。以前にも少しふれたがボクの父方の叔母はアフリカ系の
アメリカ人と結婚したから、アメリカに住むボクの従兄弟やその子供たちは、
みな陸上のサニブラウンやNBAにドラフト指名された八村塁みたいに色が黒い。
当たり前のことだが、人類のご先祖様により近く、メラニン色素が多いからだ。
そんな事情もあって、白人至上主義などというノーテンキな思想は一切受容でき
ないし、思いきり蹴っ飛ばす。人類の歴史を少しでも齧れば、あの思想がいかに
噴飯ものであるかがよくわかる。

わが家にホームステイした留学生は過去に10数人いるが、およそ7割が白人で、
他が中国やタイ、ベトナム系などの〝ミディアム〟であった(笑)。ボクは
そもそも相対的な考えの持ち主なので、白人が一番といった絶対主義は迷わず
一蹴する。そんなものはちょっとばかり学問をすれば容易に分かることだ。
現に白人至上主義を掲げるKKK(クー・クラックス・クラン)などといった秘密結社の
メンバーは、みな学問のない差別主義者ばかりではないか。

人種差別にしろ男女差別にしろ、「差別」というものは人間として最も薄汚い行為
といえる。これは初耳なのだが、日本が真珠湾攻撃をした時、アメリカにあった
黒人グループの多くが警察に捕まったという。彼らが日本に協調して内乱を起こす
と思われたからだ。

当時、イスラム教徒や黒人たちにとって日露戦争に勝ち白人をやっつけた日本は
希望の星であった。また第一次世界大戦後のパリ講和会議で、「人種差別撤廃」を
訴えたのは日本が最初であった。アメリカのウィルソン大統領によって否決されて
しまったが、支配者面した白人たちに堂々と叛旗をひるがえしたのは、有色人種の
中で日本人だけなのである。黒人たちの〝希望の星〟になったのもむべなるかなだ。

いま、ヨーロッパにはイスラム教徒の移民・難民がはびこり、
アメリカでは増え続ける有色人種たちに追われ白人が少数派になりつつある。
白人至上主義が消えるのも、もはや時間の問題だろう。



←黒人の親に生まれたアルビノ(白子)。
アフリカではアルビノの肉を食べると
不治の病も治る、と信じられ非情にも
〝アルビノ狩り〟が行われているという。
無知と迷信はなんとも罪深い。

2019年6月16日日曜日

ミディアム・レアにしておくれ

山本夏彦以上の辛口コラムニストが高山正之だ。
ボクはこの高山の本をほとんど全部読んでいる。
辛口が過ぎて、読んだあと軽いめまいが起こるのが玉にキズだが、
テレビに出たがり屋の三流評論家などでは相手にならないくらいの論客だ。

さてその高山が、かつて産経新聞ロサンゼルス支局長として
アメリカに赴任していた時、Social Security Number(略称SSN)
というものを申請した。日本でいうなら社会保障番号みたいなものだろうか。

アメリカには日本のような戸籍制度がないので、日本のマイナンバーみたいな
ID番号が必要になる。それがSSNで、個人の証明だけでなく銀行口座の開設や
運転免許の取得などにも提出を求められるから、外国人就労者は必ず申請
しなくてはならない。

さてそのSSNには個人を識別するための項目欄があって、そこには「目の色」や
「髪の色」「肌の色」といった記入欄がある。これらを自己申告だが埋めなくて
はならない。外国の小説を読むと、登場人物の髪や目の色などが必ず書き込まれている。
日本人はみな同じだから、いちいち髪や目の色を書く必要はないから、最初、
違和感を感じたものだが、たしかに欧米では肌や髪の色はさまざま。個人を識別
するためには目の色や髪の色は申告しておくべきなのだろう。

で、高山は、
「おれの眼の色が黒いうちは……」とか「緑の黒髪」なんて言葉があるから、
たぶん黒で大丈夫だろうと書き込んではみたが、「肌の色」の欄でハタと
考え込んでしまった。
(いったい何色って書けばいいんだろう?)

支局の前任者に聞いたところ、「イエローって書いとけば」ときたもんだ。
(いくら黄色人種といったって、肌の色がまっ黄色なわけではないでしょ)
戦後、日本に進駐した米軍の将校が、
「日本女性は白人女性より色が白い、と驚いた」
とするエピソードを評論家の日下公人が紹介していたくらいだから、
イエローと書くのはどうしたってはばかられる。

思い余って高山が「何て書けばいいの?」と国務省の役人に訊いたところ、
「ミディアムって書きなさい」
と言われたとか。

白人たちはCaucasian(コケージアン)と書き、
黒人はBrownとかDarkと書くらしい。
で、日本人はMedium。なんだかステーキの焼き具合みたいだ。

高山は少しおふざけ気味に、
「少し色白の日本人はmedium-rare(ミディアム・レア)って書くのかしら?」
と窓口の役人に重ねて尋ねたところ、冗談が通じなかったみたいで
やっこさん、キョトンとしていたという。この話、けっこう笑える。

ああ、それにしても黄色人種はミディアムかよ。
俺たちゃビフテキじゃねえぞ!


2019年6月12日水曜日

オジサンがオバサンになる時

市の総合体育館へ初めて行ってみた。
65歳以上は筋トレやストレッチ体操などの施設利用と講習が無料なのだ。
で、すでに利用している友人の案内でちょっとだけのぞいてみた。

筋トレルームにはさまざまな器具が並んでいた。
腕力を鍛える器具、足腰を鍛える器具、胸筋を鍛える器具……。
見れば知り合いのおばちゃんたちがいっぱいいる。
同じ団地のおばちゃんたちだ。

ボクはout-goingな性格もあって、知り合いが殊の外多い。
なにしろ近所のスーパーに行くまで(約100㍍)に、
何度も立ち止まらなくてはいけない。
10㍍進むごとに知り合いと会ってひとしきり立ち話をするから、
なかなかスーパーにたどり着けないのだ。

ボクの中ではすでに「オバサン化」が始まっていて、
いまや細胞の80%くらいがオバサン細胞になっている。

立ち話の相手は9割方オバサンだ。
そもそもオジサンは立ち話を好まないし、サマにならない。
それにどこかバカにしているところがある。
「ラチもない話をしやがって……」
自分たちは女どもと違って、もっと高尚な話ができるんだぞ。
おまえたちに天下国家が論じられるか?
などと、オジサンたちは自分たちを高みに置いてオバサンたちを小バカにしている。

ボクは長年オジサンをやってきたが、近頃オジサンに愛想をつかしている。
オバサンのほうが結局偉いんじゃないか、立派なんじゃないか、と思っている。
逆に偉そうにしているオジサンたちがバカに見えてきた。

オジサンたちの顔はいつも外に向かって閉じている。
イギリス人は人を介して紹介されない限り一言も発しないそうだが、
まさにそんな顔をしている。口を真一文字に結び、「おまえは何者だ!」と
誰何(すいか)するような顔つきで、正直言って怖い。

その点、オバサンの顔は外に向かっていつも開いている。
娘時代は閉じていても、オバサンになるにつれて開くようになる
(逆ならいいんだけど……←コラッ! 何考えてんだ!)
こっちが声をかけると「あっらーっ、お久しぶり」などと言って笑いかけてくれる。
オジサンはそうはいかない。たとえ知り合いであっても、
最初はちょっと身構えるようなところがある。
オバサンより警戒心が強い分、顔の筋肉がほぐれるまで時間がかかるのだ。

筋トレルームにいた常連らしいオジサンは、新参者のボクの顔をジロジロ見ていた。
この「人の顔をジロジロ見つめる」という行為もオジサンたちの得意技の一つで、
あんまり気持ちのよいものではない。西洋ではill-mannered(無作法な)の
典型とされ、概ね「無教養な人間のするはしたない行為」とされている。
ところがオジサンにはどこ吹く風、自分こそ世界の中心、と思っているから、
こうした無礼千万なマネだって平気でやる。

オジサンたちは体面が傷つけられるのを極度にいやがる。
だからいつも仏頂面を下げ、「この線から入るな!」とばかりに、
周囲に視えないバリアーをめぐらせている。

オバサンにはこの人を排するようなバリアーがない。
ときどき(私はあなたたち庶民とはお育ちがちがうのよ)といった
〝気取り屋さん〟を見かけることがあるが、あくまで少数派で、
ふつうのオバサンたちは最初から警戒心を解いている。
「みんないらっしゃ~い!」というopen-minded(広やかな心)な精神なのだ。

こんなオバサンたちと、ボクはおしゃべりに興ずる。
「イギリスのEU離脱問題」とか「慰安婦&徴用工問題」といったシリアスな
話題はまず出ることはないが、子供や孫たちの話題だけでも優に10分~20分は
費やしてしまう。下世話な話題だが、じゃあ低俗かというと、そんなことはない。
オジサンたちが論じたがる高尚な話柄も、形を変えた〝自己承認欲求〟みたいなもので、
ほんとうのところ、かなり怪しいものなのだ。

オバサンたちはボクがオバサン細胞の持ち主だと、第六感で感じとるのか、
すぐに胸襟を開いてくれる。なかには「襲ったりしないでよ」と念を押しながら
お茶に招待してくれるオバサンもいる。襲うもなにも80代のオバサンを襲う元気は
もうない。

オジサンに足りないのは屈託のない笑いだ。
腹の底から笑えないのがオジサンの限界か。
いつだって見てくれを気にしていて、自分を相手より高みに置きたがる。

そんな堅っ苦しい裃なんか脱いでしまえ。学歴だの職歴だの、
昔の輝かしい栄光なんかみんな捨ててしまえ。
目の前にいるのは、ただのショボくれたおっさんではないか。
なにカッコつけてんだよォ、このボケ!

ボクはもうじき100%オバサンになる。
もともとオッパイも大きい(胸囲115㎝)からちょうどいいだろう。
口ヒゲのあるオバサンというのも、またご愛敬か。





←こんな本もある。
やっぱ俺は病気だったのか





2019年4月16日火曜日

戦う精神に栄光あれ!

毎日のように、小中高校生がいじめで自殺している。
ボクは「またかッ!」と舌打ちし、死んだ子の両親の嘆きや慟哭に思いを馳せる。
なんて親不孝な子なんだ、と思う。

一方、いじめられて自殺した子のことは、あまり心にとめない。
敵に背を向けるような心の弱い子はしょせん生命力の弱い子で、
困難に遭っても、真正面から立ち向かわず、「三十六計逃げるにしかず」
とばかりに、おそらく踵を返して逃げてしまうのではないか、とボクは思うのだ。
冷たいようだが、戦いを避け逃げてばかりいる人間は、ボクの趣味ではないのですよ。

いじめ事件が起きると、決まって加害者が悪い、学校が悪い、先生が悪い
という議論が巻き起こる。でも一番問題にすべきは本人でしょ。なぜ陰湿な
いじめに敢然と立ち向かわない。いや、戦わなくたっていい。いじめをうまく
かわして逃げる算段をつければいいのだから。どうやったら自殺という陰惨な
事態を避けられるのか――そのことをもっと真剣に議論しなくてはならない。

19世紀のイギリスにディズレーリという首相がいた。彼は名門イートン校に
通っていたが、何かというと上級生が彼をからかい、いじめた。ディズレーリは
校内で唯一のユダヤ人だったのだ。あるときいじめっ子の上級生たちが
すれ違いざまにディズレーリを侮辱し口笛を吹いてからかった。
するとディズレーリは、
「いま口笛を吹いたものは前に出たまえ!」と敢然と言い放った。
「生意気な奴め!」と殴りかかってきた上級生を、ディズレーリは軽やかな
〝ヒットアンドウェイ〟でかわし、時に強烈なパンチをお見舞いした。
小柄で非力ながら、みごとなアウトボクシングで上級生をのしてしまったのだ。

実は、執拗ないじめに晒されたとき、ディズレーリは「ボクシングを習わせて!」
と父親に頼んだという。個人レッスンで十分強くなった時、この出来事が起きた。
すべて計算ずくなのである。ボクにも同じような経験がある。長い間、
ボクをいじめていた男を、あるとき完璧にノックアウトしてしまったことがある。
雌伏八年ではないが、十二分にやり返す力をつけたうえで、計算ずくで相手を
やっつけたのである。やられっぱなしではなく、いつの日か借りは返してやる。
女の子に「殴り合いのすゝめ」というのは似合わないだろうが、無抵抗とか
逃げの一手というのではなく、「戦うことはよいことだ」と教え込むのも
また必要なのではないか。

今の世の中、平和至上主義が蔓延し、何かにつけ「暴力反対!」の風潮に
染まってしまっている。体罰は確かにいけないことだが、ボクたちの時代では、
先生たちは平気で生徒を殴っていた。また生徒同士の殴り合いも珍しくなかったが、
近頃は、面と向かってやり合うのではなくSNSなどでネチネチと悪口を言いふらす、
女の腐ったような(🚺の皆さま、ご寛恕のほどを)いじめが流行っている。
〝匿名性社会〟にあっては、自分を安全地帯に置き、言いたい放題の悪口雑言が
当たり前なのだ。卑怯という外ない。

学校なり社会が、
「いざとなったら命を賭してでも戦え!」
「戦うことは立派なことなんだ」
と親も教師も子供たちに教え込まなくてはいけない。
と同時に、いじめごときはハネ返すくらいの〝耐性〟も身につけさせる。

いじめというものは決してなくならない。
なぜなら、いじめは動物における一種の本能だからだ。
浦島太郎だって、子供たちにいじめられていた亀を助けたではないか。
子供は相手が弱いと見るとかさにかかっていじめようとする。
純粋無垢ではあるが、もともと残忍さを宿した動物なのである。

「暴力反対!」の間延びした平和主義はもうけっこう。
「いじめられたら10倍返し!」
「戦う人間は美しい」
といった教育標語を校内に掲げようではないか。
怯懦(きょうだ)は恥なのだ――ボクはこのことを声を大にして訴えたい。













2019年4月9日火曜日

あなたは本を読んでますか?

旧制高校生の必読書は阿部次郎の『三太郎の日記』、倉田百三『愛と認識との出発』、
西田幾多郎『善の研究』だったそうです。ボクもbookishな人間としては人後に
落ちないので、極めて難解ではありましたが、高校時代にやっとこさっとこ
読破することができました。

数学者・藤原正彦の『国家と教養』の中に、こんなフレーズがあります。
本を読まない人間は井の中の蛙と同じになります。この蛙にとって、
世界は井戸の底と上に見える小さな丸い空だけです

またこんなエピソードも添えてありました。
《ある人から聞いた話ですが、日米戦争で零戦を操縦し、
数十機の米軍機を撃墜した帝国海軍の名パイロット坂井三郎は、
電車内で次のような若者の会話を耳にしたそうです。
「おい、お前、日本がアメリカと戦争したこと知ってるか」「えっ、ウッソー」
「マジだよ」「マジか。それでどっちが勝ったんだ」
坂井氏は、自分達が命をかけて戦った戦争とは一体何だったのか、
と考え込んでしまったそうです》

この話は以前から知っていました。『大空のサムライ』で知られる坂井三郎は
200回以上の空戦で、64機の米軍機を撃ち落としました。この本も高校時代に
読んでいますが、まさかその坂井がこのエピソードの発信元だとは知りませんでした。
「マジ」とか「ウッソー」なんていう若者言葉は坂井の存命中にはなかった
でしょうから、たぶん藤原の創作で、リップサービスではありましょうが、
いろいろな本にこのエピソードが登場してくるのは確かで、実際、
電車内にしろ学校の教室にしろ、この種の間の抜けた会話があったことは
事実なのでしょう。

book-worm(本の虫)になると、少なくとも物知りにはなります。
物知りになれば会話の幅が広がり、お相手によっては物事の本質に迫るような
エキサイティングな議論も可能です。

一昨年、わが家にホームステイしたフランス人のルカ(高校生)は、
茶目っ気たっぷりのいたずら坊主で、おまけに女好きでもありましたが、
大変な読書家でもありました。
「お父さん、ヒトラーの『我が闘争』読んだことある?」
 なんて、さらりと訊いてきます。
「ああ、もちろんあるよ。ルカと同じ高校生の時に読んだ」
フランス人からすれば憎っくき敵のアドルフ・ヒトラー。
しかし「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」という孫子の兵法を、
ルカが自ら実践しているところが立派だ、とボクは感心したものです。

近頃の大学生は月に1冊も本を読まないものが約50%もいる、とのことです。
「本を読まない学生」という言葉自体、すでに矛盾しているのですが、
現実に書物に無縁な大学生が2人に1人いる、というのだから驚きです。

本なんて読まなくたって生きてゆけます。
情報だけを取るのならスマホやケータイなどSNSの世界で十分間に合います。
しかし〝教養〟となると話は別。ローマ時代の昔、
学者であり政治家であったキケロは、
本のない部屋は魂のない肉体のようなものだ
 と言っています。また藤原の父親である作家の新田次郎は、
一日に一頁も本を読まない人間はケダモノと同じだ
 とまで言っています。つまり日本の大学はどこもみなケダモノだらけで、
「〇△大学」と名乗るより「〇△動物園」と看板を掛け替えるべきなのです。

民主主義というシステムは最高のシステムではありません。
衆愚政治になる危険性を常に孕んでいるからです。
実際、歴史を振り返ってみれば、民主主義といわれた国で
衆愚政治に陥らなかった国は皆無なのです。
藤原は、
《民主主義とは、世界の宿痾(しゅくあ)ともいうべき国民の未熟を考えると、
最低の政治システムなのです》
 と切り捨てています。かつて英国のチャーチルが奇しくも言ったように、
民主主義は《独裁制や共産制よりは少しだけまし》
 といったレベルで、衆愚政治に陥らないためには政治家も国民も、
成熟した教養人にならなくてはいけないのです。
そんなこと、可能でしょうか?

案の定、今どきの日本人は「教養」といったものに最も遠いところにあります。
坂井三郎が呆れ果てたような無残な光景が、至るところで繰り広げられているのです。
教養はつぶさに顔に出ます。実にふしぎなことですが、これは確かなことです。
ボクの敬愛する文芸評論家の福田恆存も、
《人相と人柄――この二つのものは別物であるどころか、
実は心憎いほど一致しております。人相を見れば、
その人柄はだいたい分かります。そういうものなのです
 と断じています。心すべき言葉だと、改めて思います。


←藤原正彦のベストセラー本に
便乗して、ちゃっかり宣伝して
しまう我が小人根性。売れないわけです。

2019年4月6日土曜日

昔むかし、年寄りは家の宝だった

長寿を寿(ことほ)ぐことが良いことなのかどうか、わからなくなってきた。
昔は三代、四代が同居する大家族制がふつうで、『家に年寄り、屋敷に大木
という諺があるくらい、年寄りは一目置かれ大事にされてきた。長い年月にわたって
積み重ねてきた経験には何ひとつムダなものはない、という暗黙の了解が
社会の常識になっていたからである。

年寄りに敬意を払った諺は他にもある。
年寄りは家の宝
年寄りの唾は糊(のり)になる
なんていうのもある。なんだか汚らしい諺だが、たしかに粘り気はありそうだ。また、
年寄りの言うことと牛の〝しりがい〟は外れない
というのもある。しりがいとは牛の尻にかけて牛車を固定する道具のことである。
どれもみな「褒めすぎじゃないの?」の感が無きにしも非ずだが、
インターネットなど存在しない時代に農林水産業などの現場では、
経験を積んだ長老たちの意見は珍重されたのである。

ところがどうだ。今の時代はどう考えても年寄りにアゲンストの風が吹いている。
ブレーキとアクセルを踏み間違え事故を起こす年寄りたち。認知症であてどなく
徘徊する年寄りたち。子や孫たちに介護の世話を焼かせる年寄りたち。
高額な医療費で国の財政を圧迫する年寄りたち……挙げだしたらキリがない。
年寄りは家の宝どころか国のお荷物になりかけているのである。

また、年寄りを狙ったサギ事件も相変わらず後を絶たない。
東京の町田市では、高齢者を狙った特殊サギ事件が、過去3ヵ月の間に25件。
被害総額は4700万円だという。この額に驚いてはいられない。2017年
の1年間で、世田谷区では高齢者をカモにした特殊サギ事件が216件発生、
被害総額はなんと5億4700万円におよぶという。23区内ではワースト1だ。
お金持ちの多そうな世田谷区はサギ師たちにとっても〝宝の山〟なのだろう。

特殊サギはいわゆる〝おれおれ詐欺〟の変形バージョンが次々と生み出され、
今は医療費などの返還を装った「還付金サギ」が大流行なのだという。
世田谷区の被害のおよそ40%がこの手口だ。そもそも濡れ手で粟の特殊サギだ、
頭のボケた老人たちが相手なのだから、赤子の手をひねるようなものだろう。
サギ師たちだってバカではない。悪知恵の限りを尽くして犯行に及んでいる。
特殊サギはバカではできないIntellectual crime(知的犯罪)なのである。

こうした事件が相次ぐと、年寄りへの敬意は失われ、次第に厄介者扱い
されるようになる。あれほど〝家の宝〟などと敬愛されていたのに、
年寄れば犬も侮る』の諺よろしく、ペットにもバカにされるようになった。
そして、
年寄りと釘頭は引っこむがよし
年寄りと仏壇は置き所がない
などという俚諺(りげん)が至極当たり前のように口の端(は)にのぼってくる。
長寿はめでたいどころか、迷惑千万なものになりかけていて、
高齢者たちは寄るとさわると「ネンコロはいや、ピンコロで死にたい」
などと嘆くのである。

「おれだよ、おれおれ……」
と長男を装った男から電話があると、(わたしは絶対引っかからないわ)
といくら自分に言い聞かせていたとしても、
「会社の金を使い込んでしまった。助けて!」
と切羽つまった声で言われると、『子ゆえの闇』か、たちまち理性が失われ、
男の言いなりになってしまう。あれほどテレビや新聞で特殊詐欺事件が
報道されているのに、年寄りたちは教訓から少しも学ばず、
いっこうに被害は減らない。
(年は取りたくないもんだ)
世間は改めてそう思い、本人も意気消沈する。

ボクも年寄りの片割れだから、若い連中に侮られるのは願い下げだが、
いつかは犬にも侮られるようになるのかもしれない。だからボクは
老残の身をさらすよりは潔い「安楽死」の途を選びたいのだ。いきなり
安楽死とは穏やかではないが、バカにされ厄介者扱いされ、おまけに老衰で
身体の自由が利かなくなったら、四の五の言わず死んだほうがましだ。
武士道とは死ぬことと見つけたり、なのである。
しかし日本国は無粋にも安楽死の権利を認めていない。実に残念なことである。

一方、オランダやベルギー、スイスなどは安楽死を認めている国で、
'16年の統計では、オランダで亡くなった人の約4%(6091人)が
合法的な安楽死だったという。ただしオランダでは外国人の安楽死を認めていない。
認めているのはスイスで、外国人であってもお代を払えば死なせてくれる。
そのお代は約200万円。幸いなことに女房の姪っ子夫妻がスイスに住んでいるので、
いざとなったらお願いしてみることにする。

ただ問題は、どうやってスイスまで行くかだ。
ボクはかつて仕事で何度も欧州へ足を運んだものだが、いまはそれができない。
突然、「閉所恐怖症」という厄介な病気を患ってしまったのだ。
閉ざされた空間で、それも空の上ときたら一大パニックを起こし、
悶絶してしまう(気絶しているうちに到着するだろうから、かえっていいかもw)

ああ、犬畜生にもバカにされるようになったら、
いったいどうやって誇り高く生きていったらいいのか。
よい知恵があったら、誰か教えてくれませんか?






2019年3月18日月曜日

好きなもの・きらいなもの

齢のせいかだんだんワガママになってきた。また物事に対する好き嫌いも
ハッキリしてきた。以下、好きなものと嫌いなものを列挙してみる。
◆好きなもの
小学校低学年くらいまでの子供たち
(近所の保育園児たちが手をつないで散歩している姿を見ていると、ほんとうに
可愛いな、と思う。こんな天使みたいな子供たちに手を挙げる親がいるなんて……)
姿勢正しく、すがすがしい青年たち
(現代日本からはみごとに払底してしまっている青年たちなので
懐旧の念からあえて挙げてみた。いま巷間を跋扈(ばっこ)しているのは、
悲しいけれど自由と放埓(ほうらつ)をはき違えた異形の若者たちばかりだ)
本好きの若者
(かつて〝週刊誌の鬼〟と呼ばれた評論家の扇谷正造はこう言った。
若い者は1日4回めしを食え。3回は米のめしで、もう1回は活字のめしだ」と。
大学生協の調べでは月に1冊も本を読まない学生は50%を超えたという。
〝本を読まない学生〟って、かなりブラックなjokeだよね。いったい何しに
大学へ行ってるんだよ!)

◆きらいなもの
スマホに首っぴきで寧日(ねいじつ)もない人たち
(歩きながら、あるいは自転車や自動車に乗りながらの〝ながらスマホ〟族。
ボクが心から軽蔑する人間どもだ)
〝メイク男子〟と呼ばれる軟弱男たち
(薄く化粧をする若者が増えているという。平安期に流行ったことがあるが、
女性が強い時代にしばしば出現するという)
おばさんたちの空疎なおしゃべり
女の話には花は咲くが実はならぬ、と言うそうな……これって女性差別かしら?)
幼児化・空洞化しているテレビの笑い
(いまさら言っても詮方(せんかた)ないが、「バラエティ」という名のバカ番組が
どれほど日本人の知性と品性を貶めているか……)
インテリと便所のなめくじ
(これは「フーテンの寅さん」がきらいなものなのだが、あっしもきらいでござんす)
鳩左ブレ
(ルーピー鳩山の尊称を奉られた鳩山由紀夫元首相が、左寄りの政治姿勢で
ブレまくったことから、こう呼ばれた。ボクは昔から鳩サブレーが大きらいだった)
理屈っぽく観念的な理想論ばかり説くリベラル(を詐称する左翼)なおじさん
(理想主義を頭から否定しようとは思わないが、
彼らの言説にはリアリズムに依拠したfactがないんだよな。
空理空論につき合うほどヒマではないのよ)
なんでも「話し合い」で解決しようとするお人好しの人たち
(民主主義というのはもっと乾いた冷徹な政治思想で、「話し合えば分かり合える」
といった温情主義的な世界とはちがうのよね)
「背中を押してもらう」
「元気をもらう」
「感動をありがとう」
「敗けたけど、次につながる敗け方だった」などといった常套句
(なんか主体性がなく受け身的で、凛とした潔さもない未練たらたらの言葉ばかり)
「ら抜き」言葉と、それをふつうにしゃべる人たち
(耳ざわり、と感じないくらい言葉に鈍感な人たちだから)
自慢ばなし
(亭主自慢にこども自慢、孫自慢、学歴自慢……決してみっともいいもんじゃないぞ)

好きなものに比べ、きらいなものの何と多いことか。
自分でも呆れるほどきらいなものが多いのだが、
「人間」というものは基本的に好きである。
良いところも嫌なところも併せ持っているのが人間の性(さが)
それらをひっくるめて丸ごと愛そう、と心に決めている。
だんだん仏様のようになってきた気がする(笑)。もう長くはない?


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