2018年12月27日木曜日

動物愛護が聞いて呆れるわ!

日本政府は26日、国際捕鯨委員会(IWC)から脱退することを正式に表明した。
いよいよ待ちに待った商業捕鯨が再開されることになった。30年ぶりである。

ボクたち世代はクジラ肉をよく食べた。給食でもクジラの竜田揚げは定番だったし、
肉というと牛肉や豚肉などよりクジラが一般的だった。戦後間もない貧しき時代に、
貴重な動物性たんぱく質としてクジラ肉は大いにもてはやされた。

とりわけ貧しかったわが家などは、母が、
「今夜のおかずはトンカツよ!」と元気よく叫ぶと、
鼻垂れガキのボクたちは快哉を叫んだものだが、
出てくるカツはたいがいクジラで、わが家で豚カツといえば〝鯨カツ〟のことだった。

母は借金まみれの家計を助けようと、川越市内の卸専門の魚屋に働きに出た。
父の経営する会社が倒産し、社員を全員解雇。食うや食わずの生活を続けてきたのだが、
食べ盛りの子を4人も抱えていては、そのうち家計が行き詰ってしまう。
母は慣れない事務の仕事で家計を支えた。

魚屋に勤めていると案外余禄もある。
ときどき刺身をみやげに持ってくることがあったし、
当時安かったクジラの肉を大量に持ってくることがあったのだ。
日産のゴーン前社長みたいな特別背任罪(笑)ではない。
社員割引で安く仕入れてくるのである。
クジラのベーコンなどは飽きるほど食べた。
この脂っぽいベーコン、今は高すぎて手が出ない。隔世の感とはこのことだ。

そんな日本人の伝統的な食文化を知ってか知らずか、反捕鯨国のオーストラリアや
ニュージーランドは激しく反発している。反捕鯨団体の悪名高きシー・シェパードは
「日本は捕鯨するノルウェーやアイスランドという〝ならず者国家rogue state〟の
仲間入りをすることになる」
などと、偉そうに説教まで垂れている。

わが家にホームステイした〝ならず者国家〟ノルウェー出身のAksel Båhl君。
お~い、聞いてっか?
利口な君なら少しは日本人の気持ちが分かるだろ?

反捕鯨を叫ぶ連中の言い分はこうだ。
「クジラは人間の仲間で高等な頭脳を持つ哺乳類。その愛くるしい仲間を
残酷なやり方で殺し食うという。これほど野蛮な行為があるだろうか」

日本の水産庁と外務省の言い分はこう。
反捕鯨国は科学ではなく政治的な立場から、いかなる捕鯨にも反対している

われわれ日本人からすると、愛くるしい牛や豚を電殺などで屠畜する欧米人
のほうがよっぽど残酷だと思うのだが、彼らはそう思わない。
キリスト教では人間と動物の間に一線を引き、人間をあらゆるものの上位に置いた。
聖書の教えの中にも大約、
「牛や豚は人間が食べられるようにと神様が造ってくださった」
と勝手な理屈が述べられているから、彼らは牛や豚を殺すことに何のためらいも
ないのだろう。そういえば飼いきれなくなったペットの犬なども、あっさり殺処分
してしまうものね。死ぬまで面倒を見るという日本人とは〝動物観〟がずいぶん違う。

反捕鯨国の急先鋒、オーストラリア政府は、今度の日本のIWC脱退を非難して、
「極めて失望した。あらゆる商業捕鯨と調査捕鯨に断固反対する」
などとする声明を発表した。

(よく言うよ。どの面さげてこんなご託を並べられるのかね)
ボクからするとちゃんちゃらおかしい声明で、
(こいつら、いまだに白人上位の考え方に凝り固まっていやがる。
自分たちが犯してきたアボリジニ虐殺の歴史は、もうすっかり
忘れてしまったのかしら……)

オーストラリア大陸にはおよそ600万人の先住民が暮らしていた。
アボリジニと呼ばれる人たちである。そのアボリジニが今はわずかに30万人。
残り570万人のアボリジニはいったいどこへ行ってしまったのか。

ニューサウスウェールズ州の某図書館には、
こんなことが書かれた日記が所蔵されているという。
「週末、アボリジニ狩りに出かけた。収穫は17匹1927年)

アボリジニは当時、白人どものスポーツハンティングの対象だった。
手当たり次第、銃で撃ち殺していったのである。
50万人のアボリジニが住んでいたタスマニア島では、
そのほとんどが崖から突き落とされ殺された。
残った数千人は岩だらけの孤島に移され、全員が餓死した。


←1828年、白人が自由にアボリジニを
殺してもよい、とする法律を制定。
週末はカンガルー狩りをするみたいにアボリジニ
を狩った。写真は頭部のコレクション。




オーストラリアに敬虔なキリスト教徒がどれほどいるか知らないが、
いくらバカでも人間と動物の区別くらいはつくだろう。
アボリジニは人間? それとも動物?
黒いのとか褐色、あるいは黄色いのは人間ではなく〝猿〟だったっけ?

そういえばヒトラーの『我が闘争』の中で、
日本人のことを〝東洋の山猿〟と言ってたっけ。
さすがに日独伊三国同盟を結ぶ段になり、日本語に翻訳されるとなったら、
急遽この箇所はカットされたけどね。
ついでに言うと、米国のトルーマン大統領が日本に原爆を落とすかどうか
迷っている時、英国のチャーチル首相に相談したら、
「日本人は猿だからいいんだ」
と言われたとか。さすが紳士の国の首相は言うことが違うね。

そんな人種差別の国から追い出された政治犯を先祖に持つオーストラリア人だ。
「囚人の国」という元々の出自が卑しいからだろう、言うことも恥知らずで、
〝動物〟のクジラを食う日本人を野蛮だという。
〝人間〟のアボリジニをナチス並みに大虐殺しておいて、
あろうことか日本国を〝ならず者国家〟だという。

この際、ハッキリ言わせてもらいましょう。
恥を知れ、恥を!
無残に殺されていったアボリジニの怨みを生涯背負って生きてゆけ!
TPPが発効しようがしまいが、筋張ったオージービーフなんか
誰が食ってやるもんかよ!


←クジラが増え過ぎ、漁業資源が枯渇しつつある、
という科学的データをもっと信頼してほしいね。




photo/日本経済新聞

2018年12月16日日曜日

そばの〝ズルズル〟は迷惑行為防止条例違反か?

そば屋に外国人客が入ってくると、さっきまでズズーッと景気よくたぐっていた音が
ピタリと止む。「音をたてて食べるなんて野蛮だ」などと、例によって上から目線の
異人たちが言うもので、野蛮と思われたくない日本人客は、ムリしてお品よく
そばをたぐり出すのである。ところがこの異人客、日本人顔負けの〝ズルズル〟を
やり出したから、店内は一瞬〝シーン〟となるが、ほどなく客たちは一斉に〝ズズーッ〟とやりだした。世の中これだから面白い。

わが家は毎年、異国からの高校留学生をあずかっている。すでに長短期含め15ヵ国
くらいにおよぶだろうか。来年もドイツ人のイケメン生徒をあずかってはくれまいか、
と頼まれてはいるのだが、金髪ボインちゃん希望のボクは「また男かよ!」と半分
ふてくされ、いまだ意を決しかねている。

彼ら留学生と寝食を共にすると、もちろんそば・うどんを食べることだってある。
さすがにパスタ類を食べるときは音はたてないがそばやうどんとなると我らが領域だ。
さほど景気よく音をたてるわけではないが、こればっかりは天下御免とばかりに
品よくズルズルやる。ところが概ね白人たちは、音をたてて食べることに極度の
ためらいがあるから、いつだって口の中でモソモソやっている。日本ではズルズルが
憲法で保障されているし(ウソ)、「迷惑行為防止条例違反」でもないから遠慮なく
ズルズルやっていいんだよ、と委曲を尽くして説明してやっても、生れた時から
音たて食いをきつくたしなめられているから、そう簡単に〝野蛮人〟にはなり切れない。
習慣とは悲しくも怖ろしいものなのである。

そばというと思い出すのは杉浦日南子さん。漫画家であり江戸研究家でもあり、
そして無類のそば通でもあった。残念ながら13年前に急逝してしまったが、
その杉浦女史と軽井沢の「はなれ山ガルデン」でお会いし、そばに関して取材
させてもらったことがある。その際、そばの〝音たて食い〟について質問してみた。
「そばをたぐる〝ズルズル〟は江戸の昔からあったんですか?」

杉浦女史曰く、
《それはなかったですね。江戸300年の間には、上つ方の礼儀作法(小笠原流)が
下々のレベルまで降りていて、長屋の八っつぁん、熊さんでさえ、そばは口の中へ
押し送って食べていた。そばにしろタクアンにしろ、あからさまに音を立てるのは
はしたないとされてたんです》

それがまたどうして〝ズズーッ〟が一般的になってしまったのか、そのことを
重ねて尋ねてみたら、
《明治期、寄席で噺家が擬音によってそばを食べる場面を演じたら、
その所作が庶民の間で流行しちゃった。つまり仕方噺から出たというわけ》


杉浦女史の話では、《古来より日本では「にごり」を忌み、そばであるなら
「つるつる」はいいのですが「ずるずる」は下品とされてきた。だから、ふつうは
口をすぼめてたぐっていたんです》と。
おそらくこれらの禁忌は神道から来ているのだろう。神道は「にごり」と「けがれ」
忌む。言葉の濁りを忌むのもそのためだ。近頃は「やべぇ」とか「すげぇ」などと
いう濁った言葉の花盛り。日本語の清らかな響きは失われてしまった。

さて、こんな言葉がある。これも杉浦女史から聞いた話なのだが、
〝菊弥生(きくやよい)〟
という言葉だ。これを〝聴くや善い〟と洒落ることで、そばをたぐる音を聞くのは
耳に心地よい、とそばの「音たて食い」を正当化するようになったのである。
つまり、新そばが出盛る晩秋(10月末~11月初頭にかけての菊の季節)から桜の咲く
弥生(3月頃)までの期間にかぎって、かそけきそばの香りを楽しむため、音をたてて
たぐってもよし、とする暗黙のルールができたというわけ。しかし日清・日露戦役
後は、季節を問わずなし崩し的に〝ズズーッ〟とやるようになってしまった。

以上が杉浦女史から聞き取った話で、さすがに江戸文化に通じたお方、
目からウロコの「なるほど」と思わせる話ばかりであった。

こうしたそば文化にまつわる話を留学生相手に英語で説明するのは至難の業だ
ただでさえヨコ文字のきらいなボクは、
「日本では〝ズズーッ〟が正統なマナーなんだ。四の五の言わずに食べろ!」
とばかりに、異人顔負けの高圧的態度で申し渡すのである。
やはり蛮人の末裔か?








←杉浦さんの実兄は鈴木さんというカメラマン。
彼と何度か仕事をしたご縁で、妹御である杉浦女史
と会うことができた。生で見ると超小顔の色白美人であった。

2018年12月12日水曜日

端くれにも五分の魂

昼間っから団地内をブラブラしているから、怪しいやつと映るのだろう。
「失礼ですが、お仕事は?」
とよく訊かれる。
「ハァ……物書きです。といっても端くれですが……」
「どんなものをお書きになってるんですか?」
「そうですね、どっちかというと恥をかいたり大汗かいたりしてますね」
「…………?」

元市議会議員のI氏から、
「ささやかな自叙伝を残したいんだけど、代わりに書いてもらえませんか?」
と頼まれたことがある。まんざら知らない仲でもないので請けてもよかったのだが、
丁重にお断りした。なんだか気が乗らなかったのである。ボクは自著だけでなく、
他人の本も代筆する。いわゆるゴーストライターの仕事である。
それほど数をこなしたわけではないが、有名人の本は何冊か代筆している。

そしていま、久方ぶりに自分の新刊を出す予定でいる。
某有名出版社から、ありがたくも執筆依頼が舞い込んできたのだ。
もう齢も齢だし、頭も相当耄碌してきたので、このまま無為徒食を続けようと
虫のいいことを決め込んでいたのだが、
「お酒ばかり飲んでないで、少しは働いたらどうなのよ!」
と女房にきつく叱責され、しかたなく腰を上げることにした。
たぶん恥のかき納めになると思う。

近頃の新聞の新刊案内を見ると、純文学系の本が少なく、
ほとんどが〝ノウハウ本〟で占められていることが分かる。
こうやれば〝スマホ首〟が治る、だとか、半月板のズレを戻せば膝痛が治る、
あるいは定年後の〝断捨離〟をどうする、便秘に効くのは〝こうじ水〟
といった類の本ばかりだ。そうかと思うと、昔懐かし吉野源三郎原作の
『君たちはどう生きるか』が復活したりしている、漫画版だけど……(笑)。

安易なノウハウ本をバカにしているわけではない。
膝痛に悩むボクなんかさっそくアマゾンで注文したくらいだ。
しかしこの手の本を百万冊読んでもいわゆる教養は身につかない。
おそらく、スマホ中毒で〝スマホ首〟を患っている人間に
真の教養人は皆無であろう。片々たる情報などいくらかき集めても、
人間性に奥行きが増すわけではないのだ。

物書きの端くれとして言えるのは、月並みだが「文は人なり」ということだ。
どんな文章であっても、書き手の人間性、教養の度合い、ものの考え方、
政治的党派性といったものがすべて出てしまう。
ボクの文章は「クセが強い」とよく言われる。だから好いてくれる人が
いれば嫌う人もいる。ボクはそれでいいと思っている。
万人受けするであろう、差しさわりのない文章を書けないわけではない。
が、そんな文章を書いて何が楽しいんだ、という思いはある。

ボクの文章にクセがあるというのは、それはとりもなおさずボク自身が
クセの強い人間だからであって、ムリしてクセの強さを演出しているわけではない。「……てゆーか」とか「……っていうみたいな」とかいう、自信のなさから来る
今どきの若者言葉は一切出てこない。すべて断定調で「私はこう思う」と
ハッキリ書いてある。ボクの師匠である小林秀雄や山本夏彦、福田恆存もみな
断定調で書いていた。それはすなわち「文責はすべて私にあります」ということ
であって、語尾をボカし責任をはぐらかす姿勢とは無縁なのである。

ボクは高校時代に小林秀雄に心酔し、なけなしの貯金をはたいて
小林秀雄全集を買い込んだ。小林秀雄は難解、とよく言われた。
学校の教科書に載っている『無常ということ』といった文章に触れ、
反射的に拒絶反応を示してしまうのだろう。

ボクは格別頭がいいわけではないが、小林秀雄の文章は素直に胸に落ちた。
小林の男性的で硬質な文章がボクの好みでもあったのだ。たぶんボクは、
いまでも(小林秀雄みたいな文章が書きたい)と心の底で念じているのだと思う。
その小林の墓は北鎌倉の東慶寺にある。何度か詣でたことがあるが、
近く花でも手向けに行こうかと考えている。たまたま取材したい店が
北鎌倉の雪ノ下(小林は昔この雪ノ下に住んでいた)にあるから、よい機会なのである。

どんな文章にも肌ざわりというものがある。
その肌合いが合うか合わないか――その作家を好きになるかならないかは、
案外そんなところで決まってしまう。ボクが小林秀雄や山本夏彦を勝手に師と仰いで
いるのは、どことなく肌合いがあったから。馬なら乗ってみよ人には添うてみよ、
というではないか。作家に対しても添い寝の覚悟が必要なのだ。

ボクの本(『おやじの世直し』と『おやじの品格』)を読んだ読者が、
「古武士のよう」とか「徹頭徹尾硬派」といった感想を手紙に託して送ってくれた。
ちょっぴりこそばゆい思いがするが、素直にうれしい。
さて、次なる本にはどんな想いを託すとしようか。




←北鎌倉の東慶寺にある小林秀雄の墓。
苔むすままの古風な五輪塔だ。













2018年12月4日火曜日

モットーは「人にやさしく」

もしボクに取り柄があるとしたら、
「誰とでも気さくに話ができる」ということだろうか。
こどもの頃は「対人恐怖症」に似たある種の神経症に悩まされ、
おかげで友人と呼べる人間は一人もいなかった。
そのことは拙著などにも何度となく書いている。

いつの頃からか、過剰な自意識から解放され、
人と対しても緊張することがなくなった。
雑誌記者を長くやっていたからでもあるだろう。
〝場数〟を踏んだことで対人における〝慣れ〟が生まれたのだ。
だいいち、人に会うたびにむやみに緊張していたら商売にならない。
もちろん突っ込んだ取材などできやしない。
この記者という稼業、よくも悪くも面の皮がぶ厚くなるのである。

誰にでも気さくに話しかけられるという〝特技〟のおかげで、
友人らしきものがずいぶん増えた。今朝も隣町で朝のラジオ体操をしていたら、
和光市の元市議会議員だったというSさんと知り合った。
Sさんは東京は江戸川区の出身。昭和19年生まれというから、御年74だ。

「昔は刑務所が変わるたびに引っ越ししてな。福島にもいたし、
府中や小菅にもいた」
(えっ? このひとムショ帰りかよ……)
一瞬ドキッとしたが、Sさんの父親が刑務官だったので、
こどもの頃は転勤に次ぐ転勤だったのだという。
ああ、ビックリした(笑)。

昭和30年代だろうか、朝霞に「朝霞コマ劇場」という大層な名前の
ストリップ小屋ができて、近在の助平なオジサンたちは足繁く通ったという。
つい最近までわが家の近くにあったから、その存在だけは知っていた。
このSさんは常連で、よくかぶりつきで見ていたという。

最初は前座としてブヨブヨの不細工なおばちゃんが出てきて踊るのだが、
「もういいから引っ込め!」とか「もっと可愛い子はいないのかよ!」
などとヤジが飛ばされるという。心ない言葉といえばまことにそのとおりで、
このブヨブヨおばちゃんの胸中は察するに余りある。

時間の経過とともに踊り子たちは徐々に上玉となり、
きれいな若い子が〝俎板ショー〟を始めたりすると、
客たちは我先に舞台に駆け寄り、手を伸ばさんばかりに群がったという。
なかにはちょっと口にできないようなエログロの演出などもあって、
いくらなんでもお品のあるブログ上には書けやしない。

あれから幾星霜。小屋を閉める直前は外国人のストリッパーばかりで、
主にコロンビア出身者が多かったという。なかには馴染みになった
近くのジャズ喫茶に赤ん坊をあずけて出演するママさんストリッパーもいた
というから、いずこの世界でも生きるためには、みな必死だ。

昭和30年代、アパートを借りると東京あたりでは〝一畳千円〟という
のが相場だったらしい。池袋駅近くに借りたSさんの三畳一間は、
だから三千円だった。

一緒におしゃべりに興じていたSさんと同世代のNさん(元接骨医)は、
「あたしは六畳間を借りたんだけど、その前までずっと三畳間だった
から、六畳間に入ったときは何て広いんだ、と思った」という。
でも、その六畳間に家族6人も詰め込んだものだから、さあ大変。
夏場などはコタツを天井に吊るしてなんとか居住空間を確保したという。
貧しく必死だったのはコロンビア人だけじゃない。

で、ボクのもう一つの取り柄。
貴賤上下の別なく、人にやさしいことだろうか。
自分で言うのは小っ恥ずかしいのだが、ぼくは人を「差別」することが
何よりきらいなのだ。

蛇蝎(だかつ)のごとくきらうのは高学歴や輝かしい職歴を誇るおじさんたち。
ボクの住む団地にはこの手の〝昔偉かったおじさん〟が佃煮にするくらいいる。
話をしてみると、案の定、中身の空疎な人間が多く、
聞かされるのは糞の突っかい棒にもならない自慢話ばかりだ。
人間を長くやっていても、およそ教養の厚みというものがまるで感じられない。
「高慢」というのは実に空疎なものだ。

ボクの周りにはおかげさまで高慢ちきな人間は一人もいない。
学歴など毛筋ほども関心がないから、話題にのぼることもない。
どうでもいいのだ、そんなもの。

嗚呼、あのストリップ小屋で「引っ込め!」とヤジられたおばちゃん。
なんとか気丈に生きていってくれただろうか。
小さな幸せを掴んでくれただろうか。