2018年4月23日月曜日

うかつに冗談も言えやしない

セクハラにパワハラ。
ともに外来語で、今、やけに世上を賑わせている。
「今日ね、今日ね、抱きしめていい?」
「手を縛ってあげる。胸さわっていい?」
「キスしたいんですけど……」
「オッパイさわらせて!」
「きれいだ、きれいだ、きれいだ、きれいだ」

ボクも相当スケベーなほうだけど、
F財務次官ほど品性下劣ではないと思う。
手を縛るだとか、オッパイさわらせろだとか、
そのセリフには品位も洒落っ気もない。それこそ聞いていて赤面して
しまうような、身も蓋もないセリフが次々と飛び出してくる。
この音声データが合成ではなく本物だとしたら、
この官僚トップの男、頭は切れるのかもしれないが、
人間が練られていないというか、未熟者としか言いようがない。

このセクハラ騒動を機に一気に安倍政権を追いつめられると勘違いした
野党の女性議員たちは、芝居っ気たっぷりに黒服を身にまとい、
米国発のセクハラ告発運動に倣ったか、「#MeToo」の紙を掲げ、
国会内を闊歩した。そしたら、その女性議員たちを揶揄して、
自民党の某男性議員が、
「私は皆さんに、絶対セクハラはいたしません。宣言いたします」
とツイッターで発信した。彼女たちはセクハラとは縁遠い方々、
とやってしまったのだ。黒服おばさんたちの、まあ怒るまいことか。
オンナというものはセクハラされても怒るし、されなくてもまた怒る。

たしかに「#MeToo」の紙を掲げたおばさんたちの顔ぶれを見ると、
カネを積まれたってセクハラなど御免こうむりたい、というご面相ばかりで、
自民党議員の揶揄嘲弄もわからないではないが、少し正直すぎた。

でも、たとえ出来が悪くても洒落が通じない時代というのは、
とげとげしく、薄っぺらな、いやな時代だと思いませんか? 

「正義」をふりまわすお調子者たちが百鬼夜行のごとく大道を闊歩し、
うっかり者や不心得者を激しくやりこめようとする。何ごとか口を
すべらせただけで「不謹慎だ!」と叱声を浴びせかける。当の正義漢たちの
ご尊顔を拝すれば、揃いもそろって眉根を吊り上げ、口元を尖がらした、
夜叉のような顔をしている。戦後70年で大事な情緒性が失われてしまったのか、
万事控えめだった大和撫子にはかつて見られなかったような顔つきである。

「愚妻」とか「荊妻」、「豚児」といった謙称さえ大っぴらに使えない
どうにも重苦しい時代。こういう時代になると、人の顔色ばかりうかがって、
きつい冗談すら飛ばせなくなる。

へたをすると、きれいなネエちゃんとお酒を飲む際は、
録音・録画されないように、事前に持ち物検査をするのがふつうの時代
になるのかもしれない。ああ、疑心暗鬼も極まれりだ。

リベラリズムというものが行き過ぎると、自由にモノが言えない、
どこか息苦しいこんな社会になってしまう。事実、アメリカ社会が
そうなりつつある、という悲しい報告もある。

嗚呼! ちょっぴりエッチな軽口すら叩けないとは……。
せめてボクだけでもエッチな会話をやりつづけ、
つまらぬリベラリズムの伸長に一矢を報いたいと思います。




←ボクもこのおっかないおばさんたちに
セクハラをすることは金輪際ない、
と思います。ここに改めて宣言いたします。

2018年4月16日月曜日

「にょにんきんぜい」って何?

土俵上に女性を上げてはいけないという「女人禁制」についてかまびすしい。
日本相撲協会は土俵上のやむを得ない医療行為についてはしぶしぶ了解したが、
巡業先での〝ちびっこ相撲〟については、今後女児の参加は認めない、とする
通達を出した。以前は男の子も女の子もいっしょに土俵に上がって、相撲取りと
押しくらまんじゅうをしていたものだが、今後は一切認めないという。

女人がなぜ土俵に上がれないのか、というと土俵上は神聖な結界だからである。
相撲はもともと豊作を祈願する神事で、土俵には何柱かの神様がいるという。
そのうちの豊作を司る神様が女性で、その神様に屈強な男たちのぶつかり合い
を見せることでしばし楽しんでもらおう、というのが相撲の発祥とされている。
その土俵上に同性の女性があがっては神様の機嫌を損ねかねないし、
やきもちを焼くことがあるやもしれぬ。神様の不興を買えば豊作どころか
凶作すら招きかねない。土俵上が女人禁制になった理由の1つはこのことである。

その2は何か。
それは〝穢れ〟という問題だ。神道的な解釈では、神聖な場所で血を流すことは
穢(けが)れとされる。女性には生理や出産という尊い行為がある。だが、
土俵上は別。相撲取りが土俵上に塩をまくのは土俵上を〝purify(聖化する)〟
する所作であって、土俵の中央部にはいわゆる「三種の神器」も埋めてある。
その聖なる場所を血(女性)で穢してはならない、ということで女性が禁忌に
なったのである。

宮本常一氏の民俗学的な本(特に『忘れられた日本人』など)の中には、
生理期間中の女性が母屋から離れたヒマゴヤ(生理小屋、不浄小屋とも)
に入って寝起きし、煮炊きするかまども別だったとある。
いっしょに食卓を囲むと、家の火が穢れるというわけだ。

昭和初期の田舎には御幣(ごへい)担ぎが多く、月のさわりがやかましく
言われた。ヒマゴヤは1坪ほどしかなく、腰巻などは陽の当たるところには
干せなかった。それらすべてが血の不浄を忌んだ風習であった。
女性からしてみれば生理や出産を〝不浄〟とされるのは不本意この上ない
ことだっただろうが、現実にそんな悲しい時代があったのである。

とはいっても、室町時代には女相撲があって、比丘尼など尼僧が相撲を
取っていたというから面白い。江戸期にも女相撲はあったそうだから、
女人禁制が大昔からの伝統というのは当たらない。女人禁制が一般的に
なったのはせいぜい明治期以降である。

私事になるが、まだ新米の雑誌記者だったころ、先輩の女性記者と一緒に
有名な鰻屋を取材したことがある。東京神田にある「神田川」という老舗で、
そこの調理場には80代の料理長がいた。先輩のT女史が勇んで調理場に
入りかけたら、その料理長がすかさず待ったをかけた。
「ここは女人禁制だから、足を踏み入れないでくれ!」
T女史は口あんぐり。取材はボクが代わっておこなったが、
勝気なT先輩はその日ずっと落ち込んだままだった。

女人禁制なんて時代遅れ、男女平等を謳う21世紀の時代にふさわしくない、
とする正論がメディアを賑わせているが、慣習や因習、伝統といったものの
およそ8割は不合理なもので成り立っていて、「不合理ゆえに吾信ず」という
ところが確かにある。合理的にスパッと裁断を下せないのが辛いところなのである。

この女人禁制騒動、海外メディアは鬼の首でも取ったかのように、
「日本はやっぱり男尊女卑の国!」
などと、またもや上から目線で論評しているが、
「えらそうなことを抜かすな!」
とボクなんか思っている。いかにも進歩的そうなスイスにしたって、
つい最近まで女性の参政権がなかったではないか。他国の歴史や伝統に
無知なくせして、勝手な理屈をこねるんじゃない、とつい反撃したくなってしまう。

ボクは緊急の場合を除いては、女人禁制を続けるべし、という考えだ。
古臭いとお思いだろうが、保守派というものは元来そういうものである。
だからといって女性差別とは何の関係もないので念のため。

ああ、それにしても比丘尼相撲だけは観たかったな。友人に美人の尼僧が
いるから、こんど会ったら彼女と相撲を取ることにしよう。←勝手に決めるな!

←長崎市式見地区に伝わる「式見女角力」。
これは2015年の横綱「百合乃花」の土俵入り。







photo提供/西日本新聞

2018年4月3日火曜日

女の脳はかつてスポンジだった

欧米の白人たちの得意技は数百年来の「上から目線」というものである。
自分たちのことはさておき、自らを道徳的高みに置いて、やたらと他を
見下したがる。彼らから見ると有色人種というのはいつだって下目に見るべき
存在で、それこそ懇切丁寧に蒙を啓(ひら)いてやらないと必ずや道に迷って
しまう、などとご親切にもそう思ってくれている。

彼らの眼には「日本は男尊女卑の国」と映るらしい。
実態は「女尊男卑」の国なのだが、日本の国の成り立ちや
歴史に無知な彼らの眼には、いつまでたっても真実が見えない。
天照大神はもちろん女性で、『源氏物語』や『枕草子』を書いたのも女性、
現代でいえば、家庭の中で財布のヒモを握っているのはいつだって女性である。
たしかに社会的に見れば政界や経済界での女性進出が遅れているかもしれないが、
だからといって日本の女性たちが虐げられている、とは言えないだろう。
イヴはアダムの肋骨から造られた副産物、とする男性優位主義に骨がらみの
くせして、劣等?の有色人種に対してはやたらと説教を垂れたがる。
この無知と横柄さは彼らの数世紀にわたる痼疾(こしつ)とはいえ、
何と言おう、大きなお世話なのである。

以前、ブログの中で「鼻曲がり貴婦人」について書いた。
中世ヨーロッパの騎士たちの夫人は、揃って鼻が曲がっているという話だ。
レディファーストなどと女性を敬う精神はあくまで建前で、実際は力の強い
者が勝つという男性優位主義(machismo)が支配的だった。で、外面だけはいい
騎士たちが家に帰ると夫人を思いきりぶん殴っていた、という事実である。
「鼻曲がり貴婦人」という言葉はそんな状況の中から生まれ出た。
レディファースト? フン、笑わせやがる。騎士道精神が聞いて呆れるわ。

The Trouble with Women(問題だらけの女性たち)
(ジャッキー・フレミング著)という本を読んだ。19世紀、ヴィクトリア朝の
女性たちが、いかにバカバカしい迷信と固定観念に苦しめられていたか、
著者がユーモアあふれるイラストと気の利いた警句でなで斬りにする。

女性は頭がとても小さかったので、刺繍とクロッケー(運動競技のひとつ)
以外はうまくできなかった」
当時の女性は精神薄弱だったので、教育を必要としなかった。女性の脳は
小さいだけでなく柔らかい、スポンジのような軽い素材でできていた」
美術評論家のラスキンは、
女性の知能は発明や創造には向いていない。男性を讃えるのが天職だ」
と女性を小バカにすれば、哲学者のショーペンハウエルも、
(女性は)子供と本物の人間である大人との中間段階ってとこだね、やれやれ」
などと慨嘆している。こっちこそ〝やれやれ〟だ。

あのダーウィンもルソーもクーベルタン男爵も、
みんな女性たちを進化しきっていない下等動物みたいに見ていた。
女の脳はスポンジでできていた
なんて、ずいぶん失礼なコメントではないか。男だって女の股の間から
生れてきたくせに、19世紀ヨーロッパの男たちは多かれ少なかれ
女性に対してこんなふうに思っていたのは確かだろう。

そのさんざっぱら女性を足蹴にしてきた欧米の男たちが、
騎士道精神を気取ってわれら野蛮な有色人種にもっともらしく
説教を垂れる。日米の貿易摩擦が激しかった'90年代半ばに、
ニューヨーク・タイムズ紙が、
日本の女の仕事はお茶汲みとセックスだけ
と書けば、ワシントンポスト紙も負けずに、
日本では女に人権はない。だからセクハラは事件にならない
などと大嘘をつく。トランプ大統領がこの両紙を〝フェイクニュース〟
の代表と断じるのはもっともなことなのだ。

あの傲岸不遜な白人どものへらず口をどうやって封じるか。
ボクはそのことに熱中すると、心がいつだって浮き立ってくる。
欧米のマッチョな野郎どもよ、スポンジ頭は女の専売特許ではないのだよ。
君たちの脳ミソを見たまえ。スポンジよりましかどうかは知らないが、
マッチョな筋肉そのものでガッチガチに固まってるではないか。