2018年11月29日木曜日

天狗のお相手はわれらがご先祖さま

今月の26~27日、1泊2日で愛知県の西尾市へ行ってきた。
埼玉県和光市のわが家から往復で約800キロ。カミさんは
「運転手付きのお大尽と結婚するつもりだったから運転免許はないの」
(お大尽でなくて悪かったね……)
カネには生涯縁がないであろうという慢性金欠病の男に嫁いでしまった、
男運のないわが女房。哀れではあるが、おのれの不明を悔やむしかあるまい。
ま、そんなノーテンキな女房だから〝お抱え運転手〟のボクが右腕マヒにもめげず、
ハンドルを握るしかなかった。こちらこそ哀れである。

西尾市など聞いたこともなかった。が、カミさんのご先祖ゆかりの地だというので、
一族郎党の誰も足を踏み入れたことのない西尾市にボクら夫婦が一番乗りした。
東名高速を降りてすぐの岡崎市にまず1泊し、朝早くに一路西尾市へ向かった。

カミさん(旧姓:河合)ご先祖は河合八度兵衛(やっとべえ)という剣と槍の達人で、
三河西尾藩の槍術師範をしていたらしい。禄高は200石と記した古文書もあるし、
100石と記した『当勤知行取出所略記』もある。日本で初めての古文書の博物館とされる
市内の「岩瀬文庫」に照会してみたところ、すぐさま分限帳2冊を見せてくれた。

八度兵衛の名を探したところ、馬廻役100石とあった。その数代遡ると、
河合半兵衛重明という人物が登場。どうやらこの人物が系図で辿れる
最初のご先祖らしい。このご先祖は禄高200石を拝領していた。
古文書をスラスラ読めるという係の人の助けを借りて読み進んでいったところ、
何かの戦で武功をたてたのか、主君の覚えめでたき人物であったらしい。

いっぽう河合八度兵衛は、この地方に伝わる『天狗の羽うちわ』という民話の中に
主人公として登場している。乱暴狼藉やいたずらの絶えない天狗を得意の剣術で
懲らしめ、戦利品として羽うちわをせしめる、という逸話である。



←盛巌寺の境内で剣術の稽古に
励む河合八度兵衛。











その八度兵衛が毎朝素振りの稽古に励んだという盛巌寺にもおじゃました。
が、あいにくご住職が不在で、天狗と八度兵衛の民話が生れた背景を
聞きそびれてしまった。「後日、手紙にて照会してみるつもり」と、
カミさんはとことん調べる心づもりのようである。

つい最近復元されたという西尾城にも足を運んだ。
百石取りの武士が住んでいたという百石町(現大給町)と馬場町も
歩いてみた。民話によると、剣術の稽古に励んだ盛巌寺の近くに住まいが
あったらしい。というのは、天狗から羽うちわをせしめる際にこんな誓約を
させられる。
「(天狗から)羽うちわをもらったということは他言無用。絶対口外しないと
約束していただきたい。もし一言でも漏らせば必ず災いがもたらされよう」

八度兵衛はこの約束を律儀に守るが、十数年後、友人宅で酒を酌み交わしている際に、
酔余の勢いなのか天狗との約束をついつい忘れてしまう。天狗との果たし合いに
勝って羽うちわをせしめたと、うっかり自慢気に口外してしまうのだ。
すると突如門外で「火事だ、火事だァ!」と叫ぶ声が。あわてて飛び出すと、
自宅のある盛巌寺の付近から朦々(もうもう)と火の手が上がっている。

←哀れ屋敷は燃えてしまった。
可哀そうなご先祖さん(笑)。









八度兵衛は一目散で駆けつけるが、屋敷はみごと灰燼(かいじん)に帰していた。
古今東西を隔てず、童話とか民話には「うそをつくな」とか
「親の言うことはよく聞け」といった訓戒話が多いのだが、
この『天狗の羽うちわ』には「約束事は守ろうね」とか「自慢話はほどほどに」
といった戒めがこめられているのかもしれない。

われらがご先祖さまが約束を破った張本人として描かれている、
というのはご愛敬だが、それも剣術の達人であったからこそ
天狗の相手役に抜擢された、ということであって、
子孫にとって名誉であることには変わりはない。
もっと言えば、この民話には運と不運、名誉と不名誉が表裏一体のもの
として描かれている。『平家』の盛者(じょうじゃ)必衰の理(ことわり)
とまでは言うまいが、人生の流転変転を暗示しているところが教訓的で、
われら凡夫匹夫は四の五の言わず謹んで承る、というのが筋なのではあるまいか。

またこんなふうにも考える。ご先祖が一介の武弁、すなわち四角四面の
しゃっちょこばった武人ではなく、おっちょこちょいで軽忽(けいこつ)
一面を持った剣術遣いだった、とするところがかえって親しみやすく、
多くの共感を呼ぶような気もする。

ボクの直接のご先祖さまではないが、相方の側にこんなユーモラスな
ご先祖さんがいた、ということだけでも、なんだかホッコリとした気分になる。

長時間のロングドライブは老骨の身にはいささか厳しいものであったが、
得るものもまた大きかった。女房も至極ご満悦な顔で帰途についた。



←小ぶりだが、勇壮な威容を誇る西尾城。


2018年11月21日水曜日

今年も年賀状は控えさせていただきます。

ボクは満65歳を迎えたのを機に、心と身体の〝断捨離〟をすべく
年賀状やお中元、お歳暮の類のやりとりを一切やめてしまいました。
しかしカミさんは別で、従前どおりのやりとりを続けております。

お役所から「前期高齢者」のレッテルを貼られたこと自体には多少の反発を
感じましたが、身体のあちこちが錆びついて、油切れを起こしているのは
確かなことなので、この際、心身ともにすべてを〝初期化〟し、もういっぺん
ゼロから出発しようと考えたのであります。

伝統主義者のボクとしては内心忸怩(じくじ)たるものがあったのですが、
義理と人情のしがらみにがんじがらめになっていると、やるべきことが
できなくなる恐れがありますので、この際、目をつぶって「エイヤーッ!」
とばかりに、あえて不義理を断行させてもらったのであります。

というわけで、今年も年賀状は失礼させていただきます。
お歳暮も贈りません。年賀の挨拶回りもいたしません。
なかには「無礼千万なやつだ!」とお思いの方もあるでしょう。
兄弟親戚といった身内のものは、みなそう思っているかもしれません。

ただ賀状と中元、歳暮のやりとりを控えさせていただく、
というだけで、向後いっさいおつき合いをやめます、というわけではありません。
おつき合いは今までのまま、ただ形式ばった賀状や物品のやりとりは
控えさせていただく、というだけであります。

『血は水よりも濃い』という西諺がありますが、一方で、
『遠くの親類より近くの他人』という諺もあります。
疎遠になった親類より親密なつき合いの他人のほうが、
いざとなったら頼りになる、という意であります。

ボクも正直そう思います。実際、赤の他人の友人たちのほうが
何かと力になってくれますし、仲間内に長幼の序にうるさい叔父叔母の
ような人はいません。兄貴風を吹かす小うるさい輩もいません。
気楽でいいのです。

唐突ですが、Christmas is just around the cornerであります。
そしてほどなく大晦日が来て新年が明けるでしょう。
あっという間であります。
まるで人の一生のようです。

思えば突然襲ってきた右腕神経マヒとの闘いの1年でありました。
箸も満足に持てなかった右腕がちょっとずつ、ちょっとずつ動くようになり、
今では曲がりなりにもキャッチボールらしきものもできるようになりました。
医者はやたらと手術を勧めましたが、やらなくてよかった、と今は思っています。
マヒの原因である頸椎にメスを入れる手術は成功の確率が低く、
運よく成功しても、
「5年後に25%くらい動くかな……」
などと、担当医はのんきなことを言っていました。

しかし失敗する確率が高く、へたをすると下半身マヒの車椅子生活だよ、
と物騒なことも言われていました。そのため女房とよく相談し、
総合的判断から手術をあきらめたのです。

代わりにリハビリ科のある病院に転院し、腕の可動域を拡げるトレーニングを
根気よく続けました。その熱意が天に通じたのか、ピクリとも動かなかった
右腕が徐々に動くようになりました。発症から1年が経過しましたが、
医者の言う5年後25%どころか、わずか1年で80%くらい回復しています。
周囲のものは回復力の早さにみなびっくりしています。
手術をしなくてほんとうによかった。

「ボーッと生きてんじゃねーよ!」ではなく「あんまり頑張りすぎるんじゃねーよ!」
と、あのチコちゃんに特別バージョンで叱られそうな1年でありました。

来年はもっと良き1年でありますよう、粉骨砕身努力いたす所存であります。



←去年出した年賀状欠礼のお知らせ。









2018年11月20日火曜日

小児のような年寄りになりたい

ボクは雑誌記者を長くやってきた。
月刊誌の編集をやっていた頃はもちろん、フリーランスの記者になってからも、
手当たり次第に記事を書き、雑誌に投稿していた。
食わんがために、エッチな記事もいっぱい書いた。
今は雑誌に記事を書くような仕事はまれにしかしていなくて、
たまにゴーストライターの依頼があれば、
有名人の本をリライトしたりしている。

記者生活が長いと、当然ながら多くの人と出会う。
テレビによく出てくる有名人もいれば、文化勲章を
もらうような偉い人もいる。多くは名もない庶民だが、
彼らは一様にこう言う。
「あなたと話してると30分で丸裸にされちまう」と。

取材の場数を踏むと、どんな能無し野郎でも一丁前のフリはできる。
ボクのようなボンクラでも、傍目には腕っこきの記者に映るのだ。
記者稼業を長くやっていると、自然と度胸というか、図々しさが身につき、
どんな偉いさんと会っても動じなくなる。ほんとうはあがってしまっているのだが、
平常心を装う術に長けているので、傍目にはわからない。
心臓に毛が生えているのである。

取材で大切なことは、相手を過度に緊張させないことだ。
硬い質問ばかりでなく、時には冗談を飛ばし、雰囲気を和ませる。
むずかしそうに思えるかもしれないが、場数を踏んでいれば、自然と
身につく話術で、要はふだん通りの自分を出して話せばいい。
つまり、しゃっちょこ張らずに気さくに話しかければいいのだ。

初めて会う人でも、だいたい10分間話すと、人物の軽重が知れてくる。
もっと話すと教養を形作っているであろう知のバックグラウンドが容易に想像できる。
自己韜晦(とうかい)しようとしてもダメ。
目を見れば、心の裡側が問わず語りに見えてしまう。

(ああ、この人は人物だなァ……)
と畏れ入るような大器は、めったにいない。
上から目線の偉ぶっている人ほど小物が多く、発言も月並みだから、
ほとんど記事にならない。実るほど頭を垂れる稲穂かな、
という俚諺をそのまま実践しているような高徳の人物はすでに払底して
しまったのか、絶えてめぐり会ったことがない。

親鸞は自分のことを愚禿(ぐとく)と称した。
親鸞に倣ったわけではないが、ボクも自身を愚物だと思っている。
さて、わが団地には高学歴の人が多く、大学の先生やら医者、弁護士といった
〝偉い人〟が佃煮にするくらいいる。辞を低くする謙虚な人も中にはいるが、
たいていは自分のことを世の中で一番利口だと思っている。
ひとかどの人間だと思い込んでいる。ボクにはそう見えてしまう。

団地総会や棟の総会で発言する人はいつも同じ顔ぶれ。
(またあいつかよ……)
みな半分呆れている。吐くのは手垢にまみれた正論ばかり。
周りがみんなバカに見えるのか、得意満面の高っ調子でしゃべり続ける。
みなウンザリしている。

こんな田舎町の団地に高徳の士を求めること自体が荒唐無稽なこと
なのかもしれないが、「おれは一番の利口者」といった高慢チキな顔に出会うと、
つい顔をそむけてしまう。ボクは鼻っ先に才気をぶら下げ、
得意になっているような人間が大きらいなのだ。

いつも若芽のように好奇心にあふれ、
齢を重ねても金輪際〝わけ知り顔〟はしない――。
そんな小児みたいな年寄りになりたいと、
いまは心より希っている。









2018年11月19日月曜日

メロスになれるかなれないか

英語のことわざに A friend in need is a friend indeed.というのがある。
「まさかの友は真の友」とか「困ったときの友こそ真の友」という意味だ。
太宰治の『走れメロス』という作品を思い浮かべたりするが、人質にとられた
友セリヌンティウスの命を救うため、メロスは様々な困難に打ち勝って、
今まさに処刑される寸前の友を助ける。メロスは途中でいっそ逃げ出そうと何度も思い、
そのことをセリヌンティウスに正直に打ち明ければ、友もまた一瞬ではあったが
メロスを疑ったことを告げて詫びた。

こんな美しい友情というものが、塵芥にまみれた薄汚いこの世に、
ホンマに存在するのかいな、なんて、若い頃は信じがたく思っていて、
実は今もほとんど信じていないのだが、この友情を親子や夫婦の愛情
という関係に置き換えると、ストンと胸に落ちるというか、十分あり得るな、
と納得できるのである。女房や娘たちのためなら、命がけで救出に向かう。
親であり夫であれば、誰もがそうするだろう。

ボクには〝飲み仲間〟とか〝キャッチボール仲間〟〝水泳仲間〟といった
仲間たちがいっぱいいる。あえて〝仲間〟と呼ぶのは、友達とか親友と呼ぶのが
いささかはばかられるからである。自著にも幾度となく書いているが、
ボクにはかつて友と呼べる人間がひとりもいなかった。

だから早くから生身の人間との友情をあきらめ、死んだ人との友情を深めることに
力を注いできた。ボクと親しく語り合ってきたのは、いつだって死んだ人だった。
「読書尚友」という言葉がある。書物を通じて先人に親しむという意で、
目黒のサンマではないが、友達は死んだ人にかぎるのだ。

そうはいっても、気のいい仲間たちに囲まれていると、
生身の人間たちとの友情も捨てたもんじゃないな、とも思う。
しかし便宜的につながっている友情でもあるので、
いつ壊れてしまうかは互いの努力次第ということになる。

ボクは1年ほど前、頸椎損傷による右腕の神経マヒにおそわれた。
腕神経叢ひきぬき損傷というのも同時に併発した。ダブルでマヒしてしまったのだ。
右腕はほとんど動かず、箸すらも持てないありさまだった。
ボクは大好きな水泳をあきらめ、ギター演奏をあきらめ、仲間たちと
毎週やっていたキャッチボールをあきらめた。左腕一本で
生きてゆこうと心に決めた。

ところがリハビリの効果か、動かなかった右腕が少しずつ動くようになった。
今では曲がりなりにも泳ぐことができるし、ギターも弾ける。キャッチボール
だってそこそこできるまでに回復した。仲間たちはこの復活を心から喜んでくれた。
この1年、意気消沈していたボクの気持ちを支えてくれたのは、家族と仲間たちだった。

しかし一方で、「in need」なときにそばにいてくれなかった仲間もいる。
毎週のように会っていた仲なのに、1年の間、一度も顔を見せなかった。
ボクにはそのことがとても悲しかった。
彼が落ち込んでいた時には、いつだってそばにいてやったのに……。

A friend in need is a friend indeed.
この西諺が否応もなく心に沁みる1年だった。






←太宰はどんな気持ちから
この作品を書いたのだろう。
ボクにはよくわからない。

2018年11月14日水曜日

政治の話ができない男はタ〇なし野郎!

近頃の若い人は政治の話をしないのだそうだ。
NHK BS1の「クールジャパン」という番組で、そんな調査報告をしていた。
たしかにそうかもしれない。若者同士でお堅い政治談議を戦わせている場面など、
ついぞ見たことがない。

実際、番組の中で街行く人に訊いてみると、
「ええーっ、政治の話ですか? しないですね。関心ないし……」
「政治の話をすると雰囲気がギスギスしてくるでしょ? それがいやですね」
「いろんな考え方の人がいて、政治の話題だと考え方の違いが
もろ浮き彫りになっちゃう。誰もみな友達と対立するのがいやなんですよ」
などという意見が大半だった。互いの親和を築くことが優先され、
意識的に対立を避けている感じだ(ボクなんか、そこまでして友達がほしいなどとは思わない)。

女性はそもそも対立を避け親和を築こうとし、逆に男性は対立点を見出し、
異論をぶつけ合うことで真の友情を育もうとする――そんな内容のことが
物の本に書いてあった。あたらずといえども遠からずか。

ボクなんかもろ対立を厭わない部類で、むしろ意見の対立を望んでいるような
ところがある。生来酔狂な性格なのだ。世代的にはスチューデントパワーが吹き荒れ、
大学の構内に〝立て看〟があふれかえっていた世代で、話題といえば
辛気臭い政治の話ばかりだった。ボクはノンポリながら、どちらかというと
左翼思想のシンパだった(今はリベラル嫌いの最右翼だけどねw)

ボクはよく酒を飲み、仲間たちと議論を戦わすが、話題といえばほとんど
政治絡みの話ばかりである。日韓の慰安婦問題、徴用工問題、憲法改正
すべきか否か、戦後民主主義はインチキか否か……酒の肴は苦みの利いた
政治の話ばかりなのである。

仲間の中にはボクが蛇蝎(だかつ)のごとくきらう朝日新聞大好き人間や、
中国大好き人間、またウソと整形顔だらけの韓流ドラマに目がないおばちゃん
などもいるが、ボクはまったく気にしない。
いろんな考え方があってしかるべきだし、絶対的に正しい意見なんてあるわけない。
ボクは相対的な考え方の持ち主なので、異論は大歓迎なのだ。

ただし、虫の居所がわるい時はケンカになることもある。
言い争えばしこりは残る。論破したからって、相手に恨まれるだけで、
何の得にもならない。でも、勢い余って「顔を洗って出直してこい!」
などとやってしまう。持ったが病で、こればっかりはどうしようもない。
根っからの〝ケンカ屋〟なのだ。

去年、わが家にホームステイしたフランス人留学生のルカLucas Blancは、
「お父さん、捕虜の生体実験をした731部隊についてどう思う?」とか、
「ドイツは謝ったけど、日本はアジア諸国に謝っていないよね」
などと、さもしたり顔でボクに論争を挑んできた。

高校生のルカとbook-wormのボク(年齢差50年)とでは知識の絶対量がちがう
だけでなく、彼は戦勝国に都合のいい歴史を習ってきているので、
事実誤認があるよと軽く反論するだけで黙らせてしまうことができる。
しかしボクは歴史や政治に興味を持ち、相手が嫌がりそうな質問もあえてする
「その心意気や良し」と思っている。
ところが日本の若者ときたら、そもそも「731部隊」を知らないし、
先の大戦のことなど何も知らない。

「えっ? 日本とアメリカが戦争をしたんですか? で、どっちが勝ったんです?」
これ、日本の高校で実際にあった生徒たちの反応だという。

一方、フランス人とイタリア人は「女と政治とサッカー」の話ばかりしている
というから、ルカが政治や歴史に興味を持つのはごくごく自然なことなのだろう。
しかし、通っていた日本の高校で、同級生たちと政治の話ができただろうか?
おそらく政治の〝せの字〟も出なかったであろう。政治家志望のルカにとっては、
さぞ欲求不満の日々だったに違いない。

若者よ、差し障りのないインターネットゲームや女の子の話ばかりしていないで、
たまには政治や歴史の話をしたらどうなんだ。意見が対立したって
いいじゃないか。言い合いになったら、最後は腕っぷしにものを言わせてやれ。
世の中「暴力はんた~い!」「話し合えば分かりあえる」の掛け声だらけ。
そのせいか、なよなよした草食系の男ばかりが拡大再生産されている。

対立こそが親和を生むのである。
対立を避け、自分を押し殺して築いた友情なんて屁みたいなものだ。
あっという間に砕け散り、跡形もなく消え去ってしまうだろう。

自分の思想的立場を旗幟鮮明にし、大いに論争をやるべし。
そして大いにケンカをすべし。
思いきり言い合い、殴り合ったら、互いの健闘を称え合い、肩を組んで飲むべし。
男の友情なんてものはそんな古典的図式の中にしか生まれない、
と昭和生まれのボクはいまだに信じている。



←こういうの、むかし何度もやったなァ。



2018年11月6日火曜日

ご先祖さんは槍の達人

勝海舟、山岡鉄舟と並び「幕末の三舟」と謳われる高橋泥舟。
徳川慶喜に仕えた槍術師範で、その技量は海内(かいだい)無双、
神の業に達したとの評もあった。槍は自得院流(忍心流)で、
無刀流で知られる山岡鉄舟は義弟に当たる。

高橋は槍術の腕を見込まれ講武所槍術教授となるが、後に伊勢守を叙任、
幕府が鳥羽伏見の戦いに敗れた後は、徳川慶喜の護衛役をつとめ、
その任を解かれた後は二度と再び仕官することなく、草莽(そうもう
に隠れて生涯を終えた。

仕官しない理由を、
狸にはあらぬ我身もつちの船  こぎいださぬがかちかちの山
と昔話の『かちかち山』にかけて狂歌に詠み込んでみせた。
「泥舟」と号したのは、おそらくこの狂歌に拠っているのではあるまいか。
槍の達人ながらこうした洒脱さも茶目っ気もある。書にも優れていたというから、
文武両道の鑑みたいな男だったのだろう。

泥舟はこんな歌も詠んでいる。
野に山によしや飢ゆとも葦鶴(あしたず)の  群れ居る鶏の中にやは入らむ
武士は食わねど高楊枝。痩せ我慢こそが高貴な美意識を生む。
節を曲げ自分を貶めてまでべんべんと生き永らえたくない、ということだろう。
ボクはこうした泥舟の潔い生き方が好きで、
人間はすべからくこうありたいもの、と常々思っている。

「卑怯なマネをするな!」
「人と群れるな!」
ボクのモットーがこれで、高橋泥舟の孤高の生き方から多くを学んでいる。
娘二人にもそう教えたつもりだ。付和雷同はボクの最も唾棄(だき)するところ
なのである。

ボクの母方のご先祖は武蔵国一の大藩・川越藩の藩士だった、と聞いている。
禄高等はわからない。たぶん下級武士とか足軽の類だろう。
一方、浜松出身の女房(旧姓・河合)のご先祖は、三河西尾藩の藩士で、禄高は300石。
西尾藩士の俸禄をみると100石以下がほとんどだから、
300石となれば立派な上士だったにちがいない。

こうなると彼我の力の差というか貫禄の差は明らか。
何かの拍子に女房と口げんかをしたりすると、
「下郎、無礼は赦しませぬ、下がりおろう!」
などと一喝、ついでに思いきり打擲(ちょうちゃく)されるかもしれない。
嗚呼、くわばら、くわばら(笑)。

さて徳川家康・織田信長連合軍と武田信玄がガチンコ勝負した「三方ヶ原の戦い」。
あいにく家康は大負けしてしまったが、その戦いにも我らがご先祖様は参戦している。
河合八度兵衛(やっとべえという名で、童話の『天狗の羽うちわ』にも登場する
人物である。

つまり、ボクらはサムライの子孫で、おまけに河合八度兵衛は西尾藩の
槍術師範だった。ボクの敬愛する高橋泥舟と同じ槍の達人だった、というだけで、
ボクなんか感泣(かんきゅう)してしまうのだが、八度兵衛は女房殿のご先祖さま。
ボクとはまったく関係ないのだが、どうかすると深い縁(えにし)みたいなものを
感じてしまうのはどうしたことか。

日本人の宗教観は神道と先祖崇拝から出来上がっているという。
ご先祖さんが武士だろうと、農民・町人だろうと関係ない。
自慢じゃないが、ボクの父方のご先祖さんはおそらく秩父あたりの
〝山猿〟であっただろう。それでもご先祖あっての今の自分である。
猿だろうと貉(ムジナ)だろうとあだやおろそかにはできぬではないか。
せいぜいご先祖さんの名を汚さぬよう、これからも公明正大に生きてゆきたい
と思っている。



←映画『どら平太』。
新任の町奉行・望月小平太が藩の悪人バラを
退治する痛快時代劇がこれ。役所広司が主演で、
大ヒットした。この藩の舞台となったのが、
女房のご先祖さんが出仕した三河の西尾藩。
小藩ながら時の老中などを輩出した由緒ある藩
として知られる。原作は山本周五郎の『町奉行日記』。
筋の運びが巧みな優れた小品である。









さて長い間、ブログをお休みさせてもらったが、
気候もよくなったので、またぼちぼち書かせてもらうことにします。
どうかご贔屓に。