2016年9月24日土曜日

たった1円で築地通になれる

臆面もなく言わせてもらうと、ボクには『築地のしきたり』(NHK出版)という名著がある。
シマナカロウではなく実名のコバヤシミツルで書いた本で、毎日築地に日参し、
築地場内・外をくまなく歩きまわり、多くの人の声を拾い、関連図書などを渉猟して
書き綴った力作である(←自分で言うな!)。

何度も言うが「迷著」「冥著」の類ではない、「名著」だ。
なぜそう言い切れるのかというと、自分でも名著だと思っているからだ。
わずか2つしかないが、読者レビューでもみごと★5つ。その中の一人は
なかなかの名著です》と書いてくれている。
見ず知らずの人がそう言っているのだから、
これはもう名著というしかあるまい。

築地場内市場を歩いていると、やたらカモメが目につく。
東京でいやでも目につく鳥といえば、あの傍若無人なカラスだが、
ここ築地ではカモメが電線やトラックの荷台に陣取って賑やかに啼きたてている。

築地は都心に近いとはいえ、360年ほど前までのこの地は海の中にあった。
明暦の大火(1657)後に、神田山を崩した土や人工の築地川を掘り下げた土などで、
築き固め、浅瀬の海を陸地に変えたのだ。海を埋め立てたところだから〝築地〟。
これが築地という地名の起こりである。わがもの顔に海鳥が飛んでいたとしても、
少しも不思議ではない。

豊洲の新市場で、盛り土がしてあるしてないで、やけにかまびすしいが、
このままいくと、新市場への移転は相当先になりそうだ。小池都知事が
「粛清します」などと、都の木っ端役人どもに恫喝をかけているくらいだから、
もうしばらくはメディアの注目を浴び続けるだろう。

この騒動に乗じて、ボクのこの〝名著〟も復刻版が出ればいいな、などと、
つい虫のいいことを考えてしまう己が悲しい。ネットの中古本市場では、
たった1円ポッキリ(←1円はないでしょ、ウウウ……)で売ってますから、
慧眼の士で、なおかつ心ある読者はぜひ買ってみてくださいな。


←著者自らが〝名著〟と太鼓判を押す
幻の力作。

2016年9月22日木曜日

「ら抜き言葉」は美しくない

「見れる」「出れる」という、いわゆる「ら抜き言葉」。
ボクはもちろん「見られる」「出られる」の「ら入れ言葉」派だが、
文化庁の2015年度の世論調査では前者の「ら抜き言葉」派が「ら入れ言葉」派を
上回ったことが分かった。旧套墨守を旨とするボクら旧世代が、ますます少数派に
なりつつあることを実感させられる。

ボクの敬愛する故・福田恆存は『日本への遺言』の中で、この「ら抜き言葉」に触れている。
《「見れる」「着れる」「食べれる」という語法を許してはいけない。
その理由の第一は、音がきたない

「見れる」より「見られる」のほうがきれいに響くのは、前者のmiとreの間に、
後者ではraが入るから、と説明している。
《その母音だけ拾っていくと、前者はi・eとなり、後者はi・a・eとなる。
aは最大の広母音である。そしてiは最小の短母音である。広母音は
広大、寛濶。短母音は急激、尖鋭の感を与える》と。

それだけではない。福田はなおも続ける。
《第二の理由は、後者「見られる」のほうが歴史が長いことだ。
言い換えるなら、それが過去の慣習だということ。明治以来、
殊に戦後は「過去」とか「慣習」という言葉は権威を失ったが、
少なくとも言葉に関するかぎり、これを基準としなければ、
他に何も拠り所がなくなってしまい、通じさえすればよろしい、
ということになる》

ボクのきらいな〝結果オーライ主義〟。
言葉の響きがきたなくたって通じればいいじゃん。
箸の使いかたがぐちゃぐちゃでも、口に運べればいいじゃないの……etc。
ボクはこの種の結果さえ良ければいいじゃない、といった安易な姿勢が
大きらいだ。そこには立ち居振るまいの美しさとか、言葉の響きの美しさ、
といった日本人が過去の遺産として備えていた〝美感〟がみじんも
感じられない。彼らは真正の日本人ではない。

たびたび書いていることで、読者各位にはすでに〝耳タコ〟だろうが、
ボクに唯一あるであろう行動規範は、
「美しいか、そうでないか」
これだけである。ボクのキャッチフレーズは、というより行動目標は、
これも耳タコだろうが、「挙止端正」の4文字。
挙止端正とは立ち居振るまいが美しく整っている、の意だ。


人気ラーメン店の行列に並ばないのも、「カッコわるいから」
「美しくないから」がその理由。また、「愛」だとか「正義」といった、
発音するたびに思わず赤面してしまうような言葉を吐いたり、振りかざしたりしないのも、
その行為が「カッコわるいから」「美しくないから」で、へたをするとその陰には、
〝色情〟があったり〝利己心〟が隠れていたりするから。
時に正義を振りまわすことは犯罪的でもある。


(ああ、せめて限られた余生は、「ら抜き言葉」の聞こえない世界で過ごしたい)
ボクの切なる願いである。







←この記事は、『日本の論点』(文芸春秋)の
2012年版に書いたボクの文章。「ら抜き言葉」や
「さ入れ言葉」の問題点を縷々綴った。

2016年9月1日木曜日

厚顔無恥のオーストラリア人

欧米の白人たちにとって、有色人種はいまだに〝人間もどき〟に過ぎない。
白人が1等人種なら、黒人やアジア系は2等~3等、日本人だけが特別に
準1等を許されている、といったかっこうだ。

ボクにはオーストラリア人の友人がいるし、オーストラリアからの留学生も
ホームステイさせたことがある。また女房や娘は彼の国を仕事や観光で
訪れてもいる。いまや多文化主義を国策として掲げているオーストラリアは、
白人と有色人種が共存する理想的な国のように思える。

しかしこの国には恥ずべき歴史がある。
かつてこの国には600万人の先住民・アボリジニがいた。
欧州からの移住者たちは、アメリカ大陸で移住者たちが先住民(アメリカ・インディアン)
を虐殺したのと同じように、アボリジニをためらいなく殺していった。

50万人のアボリジニが住んでいたタスマニア島では、そのほとんどが崖から
突き落とされた。あるいは銃で撃たれた。最後に残った数千人は、岩だらけの
孤島に移され、全員が餓死した。

アボリジニは〝スポーツハンティング〟の延長にある〝獲物〟に過ぎず、
人間とは認められていなかった。〝アボリジニ狩り〟は20世紀の半ばまで
続き、ニューサウスウェールズ州の図書館には、
週末、アボリジニ狩りに出かけた。収穫は17匹》(1927年)
と記した白人の日誌があるという。

白人の持ち込んだ病気に免疫性がなかった、というのもアボリジニ人口衰退の
遠因になっている。結局、600万人もいたアボリジニは今、かろうじて30万人が
生き残っているに過ぎない。それでも白人たちの白人至上主義的な優越意識は
抜けず、いまだに黒人やイスラム教徒、メラネシア人やアボリジニに対する差別は
根強く残っている。

彼らにはナチスのホロコーストに匹敵する大虐殺をしているにもかかわらず、
その反省が微塵もないのだ。これは驚くべきことである。

それでいてクジラを殺して食用にする日本人を〝野蛮人〟と口汚く非難する。
人間であるアボリジニを600万人近く殺しておいて、そのことを恬として恥じず、
あろうことか人間でもないクジラを殺している日本人を野蛮だと決めつける。

日本人と支那人がくしゃみをすると風邪をひくというオーストラリア。
いつまでもアナクロな白人至上主義なんぞを掲げていると、
いつしか立場が逆転し、スポーツハンティングの的にされちまうぞ!








←アボリジニ狩りの〝収穫〟