2018年7月26日木曜日

夏期休業



あんまり暑いので(ゼーゼー)、
ブログはしばらくお休みします(ゼーゼー)。


ただでさえ腐りかかっている脳みそが、連日の酷暑で発酵し、
文字どおりの〝マルコメ味噌〟になりかかっているのです。


いまは一日中、ボーッとしています。
何も考えられません。脳が機能停止状態なのです。


子供の頃は暑い夏が待ち遠しかったのですが、今は逆。
もう夏はコリゴリです。たくさんです。


頸椎(けいつい)損傷のため右腕もマヒ状態。
得意の水泳もかないません。
だから運動不足でデブデブになってます(これがまたよく飲み、よく食べるもんね)
これではせっかくのイケメンも台無しです(←自分で言うな!)


で、何するでなく家の中で終日ボーッとしています。
本を読めば数分で眠りこけてしまいます。
無為徒食がもっぱらで、ただべんべんと日を送っているだけ。
まるで痴呆老人みたいです。


脳の機能が正常?に戻りましたら、ブログを再開いたします。
しばしのご猶予を(たぶん8月いっぱいはダメかも……へたすると9月も🙇)。



←かつて水泳大会に出ていた頃の
ボクの勇姿。自慢じゃないが、
バタフライではちょっとしたものだった。

2018年7月12日木曜日

天下にバカを公言する「ら抜き」言葉

テレビの〝バラエティ〟と称するバカ番組をたまたま目にすると、
出演者のほとんどが「出れる」「見れる」「食べれる」などと、
いわゆる「ら抜き」言葉を使っている。ひどいのになると、女子アナまで
いっしょになって「出れない・見れない」などとやっている。
ボクはこうした薄汚い言葉を耳にすると、自動的に心悸が高ぶり凶暴性が
増すので、これまた自動的にチャンネルを変えることにしている。

衆寡敵せずというが、いまや「ら抜き」言葉に抵抗しているのは、
日本国じゅうでわが家だけではないのか、と錯覚を起こすほど、
「ら入れ」派の形勢は風前のともしびとなっている。
言葉の感染力はペスト以上に圧倒的なものなので、近く「ら入れ」派は壊滅し、
「出れる・出れない」などと無教養な言葉を操る日本人ばかりが国じゅうに
溢れかえることであろう。
末世というほかない。

ボクは6年前に文藝春秋社刊行の『日本の論点』という浩瀚な本に、
最近の日本語についての考察を書かせてもらった。ごく一部だが抜粋してみる。
《「ら抜き」に次いで猛威をふるっているのが「さ入れ」言葉だ。
「読ませていただきます」が「読ま〝さ〟せていただきます」、
「行かせていただきます」が「行か〝さ〟せていただきます」
といった具合だ。
 鳩山由紀夫元首相のスピーチは「させていただく」のオンパレードだった。
伝染力が強いのか、政治家は「お訴えをさせていただきたい」とか
「汗を流させていただきたい」という言い方を好んで使う。
 東国原英夫前宮崎県知事などは、あるとき自らの談合問題にふれ、
「私も、かつて不祥事を起こさせていただきましたが……」と口走ってしまい、
あわてて言い直す始末だった……中略……「さ入れ」言葉は、一律に
「動詞+させていただく」式に変換していくため、自動詞を謙譲語化するたびに
「させていただく」が飛び出してくる。
 「させていただく」という表現を〝下品〟と評するリンボウ先生こと林望氏は、
「これを多用する世界の人たち、すなわち芸能人、学者、政治家というのは、
内実傲慢で外側だけ謙遜という共通した属性を持つのが一般的」
と冷たく切り捨てている》

文芸評論家の福田恆存は「ら抜き」言葉についてこんなふうに言っていた。
まず《音がきたない》と。「見れる」より「見られる」のほうがきれいに
響くのは後者のほうがmiとreの間にraが入るから、としている。

母音だけひろうと前者はi・eとなり、後者はi・a・eとなる。aは最大の広母音
で、iは最小の短母音である。広母音は広大、寛濶(かんかつ)の感を与え、
短母音は急激、尖鋭の感を与える。つまり広母音のほうがゆったりと大らかな
響きを与え、「ら抜き」の短母音はせわし気で尖がった響きを与えるというのだ。

それともう一つ。福田氏は《「見られる」のほうが歴史が長い
と言っている。換言すれば、過去の慣習に負っているということだろう。
明治以来、殊に戦後は「過去」とか「慣習」とかいう言葉は
権威を失ったが、少なくとも言葉に関する限り、これを基準としなければ
他に何も拠り所がなくなってしまい、通じさえすればよろしいということに
なってしまう

箸の持ち方が悪くても、食べられさえすればいいじゃん、とする
「結果オーライ主義」。戦後はまさにこの〝結果オーライ〟の天下だが、
「ら抜き」「さ入れ」もおそらくその延長線上にあるのだろう。

言葉も立派な日本人の歴史であり、民族の共通の記憶である。
美しい日本語を後世に伝えるためにも、通じさえすればいいとする
「ら抜き」や「さ入れ」言葉を徹底して排除しなくてはならない。

多勢に無勢、ということはむろん承知している。
しかし嶋中家の血を継ぐ者たちは、少なくとも「ら抜き」「さ入れ」言葉には
徹底抗戦する覚悟だ。この点については、女房もめずらしく賛同してくれている。
徒労感にむしばまれること必至だろうが、最後の一人になるまでがんばるつもりだ。


←この本で、ボクは「日本語」と「環境問題」
というテーマを担当した。