2017年12月17日日曜日

65歳の切なる願い

今年からお中元、お歳暮のやりとりをやめることにした。
女房のほうは今までどおり続けるつもりらしいが、ボクはあっさりやめた。
兄弟親戚、仕事関係、友人知人……毎年、時季が来ればそれなりのものを
みつくろい、「来年もよろしく」と心をこめて荷物を送った。
先方からもまた心入れの品が送られてきた。

生来、古くからの日本の伝統や慣習は尊ぶタチなので、
やめると決断する時は、さすがに迷った。品物を選ぶ手間だって
たいしたことはないし、金額だって知れている。続けるつもりなら
死ぬまで続けられるのだが、ボクは今年が〝潮時〟だと思った。
今年で満65歳。この歳になると、日本では〝前期高齢者〟と呼ばれるようになる。
年金受給者にもなる。それに今春、めでたや初孫(♂です)が生れた。
文字どおりの〝ジージ〟になったのである。

(あと何年丈夫に生きられるだろうか……)
高齢者の仲間入りを果たすと、こんなことまで考えるようになる。
せいぜい15年か、うまくすると20年くらいいけるかもしれない。
どっちにしろ、あっという間の月日である。

ところが、9月頃から身体が変調をきたすようになった。
なぜか右腕が利かなくなってしまったのである。
手指は動くのだが、肘の曲げ伸ばしができない。
腕にまったく力が入らないのである。
心配になり、病院でMRIなどあらゆる機器を使って入念に調べてみた。
結果、頸椎と右腕の付け根の神経叢に異常があることが分かった。
治すにはメスを入れるしかないそうだが、神経が複雑に入り組んでいる
場所だけに難しい手術になるという。

おかげで大好きな水泳ができなくなった。膝に故障を抱え走ることができない
ボクには、水泳が最後の砦だった。10数年来、仲間たちと続けている
キャッチボールもできなくなった。ギターも満足に弾けなくなったし、
箸だって持てやしない。
(65という歳は大きな節目の歳なんだろうか……)
だんだん気分が落ち込んできた。

(腕一本利かないくらいでゴチャゴチャ不平を鳴らすな!)
どこかで生来の利かん気が頭をもたげ、弱気を戒めている。
そうだよな、まだ左腕があるし……五体不満足を嘆くのは男らしくないな。

てなわけで、「65歳潮時説」がいよいよ現実味を帯びてきたのである。
お中元とお歳暮をやめたついでに来年から年賀状もやめることにした。
毎年、相手の顔を思い浮かべながら手書きでびっしり書いたものだが、
これも失礼させてもらうことにした。子供の頃から続けてきたことを
いきなりやめるのは正直つらいのだが、SNSの普及した時代である、
いざとなればメールだって電話だってある。またボクの近況ならブログ
Facebookで十分知れる。

もともと金銭や品物のやりとりを厭う性格である。
相手とは常に対等でありたいと思うあまり、
モノのやりとりでそのバランスが微妙に崩れるのが
生理的にイヤなのである。
そのことをご理解いただけたなら、中元・歳暮・賀状の類は
今後いっさいお構いなしに願いたい。なかには、
「いや、私は勝手に送らせてもらう」
とする奇特な方もおられよう。ボクとしては「お気の済むまでドーゾ」と
言いたいところだが、こっちからは金輪際返礼しないのだから、
ますます心に負担がかかってしまう。そこのところをご理解いただき、
ぜひともご再考願いたい。重ねてお願いする。


さて長々と弁解がましい抗弁をつらねてしまったが、
なにとぞお赦しを。要はメンドウ臭がり屋のワガママ男なのである。
9月頃に似たようなブログを書いたが、不徹底なため再度、ワガママな思いを
一文にさせてもらった。浅学菲才がゆえのワガママと、どうかご寛恕のほどを。






←9月頃、関係者に送ったハガキ
を再度掲載する。

2017年12月10日日曜日

ふるさとへ廻る六部は……

長女が昨日から泊りがけで来ている。
たったそれだけのことなのだが、妙に心楽しい。
何かおいしいものをご馳走してあげよう、
と主夫歴30年のボクはいそいそと買い物に出かけるのである。

人生にはある年齢にならないと分からない、
といった予定調和的な事実がいっぱいある。
「子を持って知る親の恩」という格言があるが、
親になって初めて分かること、孫を持ってふと気づくこと、
というのがたしかにある。

娘二人が独立して家を出たのはいつであったか。
もう遠い昔のことのように思える。
これが息子だと実家にはほとんど寄りつかなくなる、とはよく聞く話だが、
幸いわが家の娘たちは、折を見てはよく訪ねてきてくれる。
来れば先祖返りするのか、幼児の頃に使っていた言葉が家じゅうに飛び交う。
たとえば「父しゃん」「母しゃん」。わが家では今でも娘たちは
ボクたちのことをそう呼ぶ。呼び方は〝しゃん〟にアクセントがかかる。
他人に聞かせるのはいささかはばかられるが、
わが家に限って呼び交わすなら、それもいいだろう。



←長女と旅行。次女がいないが、たしか
アメリカに留学中か。みんなまだ若いなァ。





子は宝である。この世で何が大切といって「家族」以外に大切なものなどない。
子や孫のためなら親や祖父母は命を投げ捨てることだって厭わないだろう。
そんな命より大切な子や孫に事故や災害、あるいは病気で先立たれてしまう。
TVのドキュメンタリー番組だったか、東日本大震災で、女房子供を津波に
さらわれてしまった男が、無情な海に向かって「俺の宝物を返してくれ――ッ!」
とばかりに、愛娘愛息の名を声をかぎりに叫んでいたシーンがあった。
さぞ無念だっただろう。見ているこっちはもう涙でぐしょぐしょだ。
大切な人たちを喪い、たった一人取り残されても、
人は前を向いて生きてゆかなくてはならないのだろうか。
軟弱なボクだったらきっと心がポッキリ折れ、廃人同然になってしまうだろう。

ボクの母は6年前に死んだ。
川越の実家で長男夫婦と暮らしていたのだが、ボクが娘たちを連れて
いくと殊のほか喜んでくれた。心残りなのは、母と過ごす時間が
絶対的に少なかったことだ。一人で行ったときなんか、10分そこそこで帰って
しまったことがある。母は何も言わず家の前の通りまで送ってくれたが、
悄然と手を振るその姿はほんとうに淋しそうだった。

あの時、なぜボクは急いで帰ってしまったのだろう。
今になって後悔の念がこみあげてきて、胸が苦しくなる。
母親がどれだけ子供のことを愛しく思っているか、いっぱい話したがっているか、
あの頃はよく分からなかった。親のことよりまず自分の都合が優先された。
考えることは自分のことばかりだった。
「母さん、ごめんな」
ボクが娘と楽しいひとときを過ごせば過ごすほど、
亡き母に対する〝思いやりとやさしさの欠如〟がくやまれ、
深い自責の念に駆られるとともに、悔悟の涙に暮れてしまう。
「母さん、ごめんな。もっとそばにいてやればよかった」

母はたくましい女だった。貧しさを厭わない女だった。
戦中・戦後を息せききって駆け抜けた肝っ玉母さんでもあった。
そんな母も晩年、軽い認知症を患ってしまった。
それでもボクを前にすると、いつもの笑顔で迎えてくれた。
「母さん、いつかまた会えるよね。その時は、ずっとずっと一緒にいるから……」




←画家・小林憲明さんが描く『ダキシメルオモイ』。
東日本大震災で命を落とした母と子の思いを麻の画布に
描いている。わが街・和光市の中央公民館でも展覧会が
開かれたので見に行った。この世で信じられるたった
一つのものはmotherhood(母性愛)であります



2017年12月8日金曜日

首吊りは気っ持ちい~い!

「いよいよ首が回らなくなったんだって?」
「年が押し詰まってくると、何かと物入りで……おいおい、違うだろ。
頸椎が損傷していて腕が利かなくなってんだよ」

団地内で、古くからの友達Aさんと偶然会ってしばし立ち話。
先だって彼の奥さんをお茶に呼んで、
亭主の悪口をさんざっぱら聞かされたばかりだ。
「頸椎の矯正には首吊り療法がいいらしいよ。簡単な器具を首にはめて、
ひもで引っ張るんだ。おれの場合は腰痛だったけど、それにも効くって言うんで
何回か首を吊ったことがある。気持ちいいんだよね、あれ。だまされたと思って、
いっぺん吊ってみたら?」
年の瀬に首を吊る吊らない、などと立ち話にしてはかなり物騒な話題である。
それを大声で話すものだから、すれ違った人たちも、どこか不審そうな顔つきで
ふり返っていた。知り合いの奥さんは笑っていた。

「首吊りのほうは少し考えさせてもらうよ。それよりそっちはどうなの?
奥方からはずいぶん冷遇されてるみたいだけど(笑)……心が折れそうになったら
声をかけてね。相談に乗るから」
「お互い、不幸な身の上だもんな。
いっそホントに首をくくったほうがいいかもしれないな(笑)」
笑って別れたが、Aさんの背中にはいやでも孤独の影がさしていた。
首吊りの話題はまずかったかもしれない。

いよいよ極月(ごくづき)といわれる12月。師走ともいうが、
落ちぶれて姿のみすぼらしい浪人を〝師走浪人〟と呼ぶのだそうだ。
ボクなんかさしずめ〝師走老人〟ってとこか。落ちぶれたとは思わないが、
着るものにあまり頓着せず、同じ服を繰り返し着ているから、
傍から見ると、着たきりスズメに見えるかもしれない。
そのスズメが、首を吊る吊らないのと大声で話しているのだから、
妙に切迫感がある。

無常迅速というが、1年なんかあっという間に過ぎ去ってしまう。
初孫ができたと思ったら、もう立派に匍匐(ほふく)前進を繰り返しているし、
離乳食だってガッツリ食べている。娘婿は元アメフト選手で100キロ超の
巨漢である。この孫も末は父親に倣ってアメフト選手を目指すのだろうか。

3月に孫が生まれ、「こいつァ春から縁起がいいやァ!」と喜んでいたら、
9月頃から右腕に異変が起き、いまやすっかり使い物にならなくなってしまった。
スポーツ大好き人間のボクとしては、無念この上ない。
つい気分も落ち込んでしまいそうになるが、
それでも踏ん張って、何事もなかったかのように明るくふるまう、
というのがボクの流儀であり奥床しさ(笑)。

時に哀れっぽい姿で、人妻の胸を〝キュン〟とさせることもあるが、
あまりに内向きで湿っぽい口吻は自分らしくない、とボクは思っている。

    Tomorrow is another day.

明日は明日の風が吹くさ、と常に前向きに生きてゆけば、
そのうちいいこともあるでしょ。



←映画『風と共に去りぬ』のヒロイン、
スカーレット・オハラの最後のセリフがこれ。
Tomorrow is another day!








2017年12月2日土曜日

What is essential is invisible to the eye.

You don't know what you have until it's gone.
失ってみて初めて何が大切なものだったかが分かる。

いま、この言葉をしみじみ噛みしめている。
失うものは多々あるだろうが、大切に想う人を病気や事故、
災害で突然喪くしてしまう、などというのが一番こたえるかもしれない。
ボクの飲み友達のYさんは、去年の夏、最愛の奥さんをガンで亡くしてしまった。
その嘆きようは尋常一様ではなかった。

ふだん、当たり前のように身近に転がっている幸せ。
しかし、あまりに当たり前すぎて、そのありがたみに多くの人は気づかない。
ボクの愛読するサン=テグジュペリの『星の王子さま』の中に、
キツネの言葉としてこんなセリフがある。
What is essential is invisible to the eye.
(大切なものはね、目に見えないものなんだ)

ボクは今、右腕が利かない。
頸椎の一部の骨が異常に肥大し、神経根を圧迫しているものだから、
運動神経の信号回路がプツンと遮断され、右腕が動かなくなってしまった。
治すには頸椎の骨を削り、さらに骨盤から採取した腸骨を移植しなければならない。
神経回路が集中する頸部だけに、手術の難度としてはけっこう高いらしい。
担当医もその成否は「やってみないことにはわからない」と言葉を濁している。
これではますます迷いが深まるばかりだ。

「左の腕がまだあるだろ。あるだけマシだ」
と言われれば、たしかにそうで、世の中には五体不満足な人がごまんといる。
脚や腕がなくたってパラリンピックで走ったり泳いだりしている人がいるのだから、
右腕が利かないくらいでメソメソするな、と言われれば言葉がない。

(もう一生泳げないのだろうか……)
そう思うと、映画『ウォーターボーイズ』のモデル校の、それも水泳部出身者
としてはけっこう辛いものがある。シンクロこそしないが、膝の故障で走れない
ボクにとって、水泳は唯一残された得意スポーツだった。
(この先、孫に泳ぎを教えたり、キャッチボールすることもできないのだろうか)
それにギターだって、もうまともに弾けやしない。
何の因果なのか、このままの状態ではつまらぬ老年期になり果ててしまう。

「青年」という言葉があるのなら、「老年」はむしろ「玄年」と呼ぶべきだろう。
青春、朱夏、白秋、玄冬……玄冬の「玄」というのは、ただの真っ黒ではない。
暗くて黒い中にも、かすかな赤みが差していて、そこから何かまた新しいものが
始まる、といったニュアンスなのだという。「幽玄」とか「玄妙」という言葉が
あるが、そのイメージは荒涼たる闇といったものではない。深く艶やかな漆黒、
といった感覚だ。

今は半分身障者みたいなあんばいで、へたをすると廃物になりそうな気配だが、
〝玄年〟を迎えたボクとしては、深く艶やかな老境に入っていけたらと思う。

      子どもを叱るな 昨日の自分
      年寄り嗤(わら)うな 明日の自分







←今年のステージが最後になってしまうかも。