2019年4月16日火曜日

戦う精神に栄光あれ!

毎日のように、小中高校生がいじめで自殺している。
ボクは「またかッ!」と舌打ちし、死んだ子の両親の嘆きや慟哭に思いを馳せる。
なんて親不孝な子なんだ、と思う。

一方、いじめられて自殺した子のことは、あまり心にとめない。
敵に背を向けるような心の弱い子はしょせん生命力の弱い子で、
困難に遭っても、真正面から立ち向かわず、「三十六計逃げるにしかず」
とばかりに、おそらく踵を返して逃げてしまうのではないか、とボクは思うのだ。
冷たいようだが、戦いを避け逃げてばかりいる人間は、ボクの趣味ではないのですよ。

いじめ事件が起きると、決まって加害者が悪い、学校が悪い、先生が悪い
という議論が巻き起こる。でも一番問題にすべきは本人でしょ。なぜ陰湿な
いじめに敢然と立ち向かわない。いや、戦わなくたっていい。いじめをうまく
かわして逃げる算段をつければいいのだから。どうやったら自殺という陰惨な
事態を避けられるのか――そのことをもっと真剣に議論しなくてはならない。

19世紀のイギリスにディズレーリという首相がいた。彼は名門イートン校に
通っていたが、何かというと上級生が彼をからかい、いじめた。ディズレーリは
校内で唯一のユダヤ人だったのだ。あるときいじめっ子の上級生たちが
すれ違いざまにディズレーリを侮辱し口笛を吹いてからかった。
するとディズレーリは、
「いま口笛を吹いたものは前に出たまえ!」と敢然と言い放った。
「生意気な奴め!」と殴りかかってきた上級生を、ディズレーリは軽やかな
〝ヒットアンドウェイ〟でかわし、時に強烈なパンチをお見舞いした。
小柄で非力ながら、みごとなアウトボクシングで上級生をのしてしまったのだ。

実は、執拗ないじめに晒されたとき、ディズレーリは「ボクシングを習わせて!」
と父親に頼んだという。個人レッスンで十分強くなった時、この出来事が起きた。
すべて計算ずくなのである。ボクにも同じような経験がある。長い間、
ボクをいじめていた男を、あるとき完璧にノックアウトしてしまったことがある。
雌伏八年ではないが、十二分にやり返す力をつけたうえで、計算ずくで相手を
やっつけたのである。やられっぱなしではなく、いつの日か借りは返してやる。
女の子に「殴り合いのすゝめ」というのは似合わないだろうが、無抵抗とか
逃げの一手というのではなく、「戦うことはよいことだ」と教え込むのも
また必要なのではないか。

今の世の中、平和至上主義が蔓延し、何かにつけ「暴力反対!」の風潮に
染まってしまっている。体罰は確かにいけないことだが、ボクたちの時代では、
先生たちは平気で生徒を殴っていた。また生徒同士の殴り合いも珍しくなかったが、
近頃は、面と向かってやり合うのではなくSNSなどでネチネチと悪口を言いふらす、
女の腐ったような(🚺の皆さま、ご寛恕のほどを)いじめが流行っている。
〝匿名性社会〟にあっては、自分を安全地帯に置き、言いたい放題の悪口雑言が
当たり前なのだ。卑怯という外ない。

学校なり社会が、
「いざとなったら命を賭してでも戦え!」
「戦うことは立派なことなんだ」
と親も教師も子供たちに教え込まなくてはいけない。
と同時に、いじめごときはハネ返すくらいの〝耐性〟も身につけさせる。

いじめというものは決してなくならない。
なぜなら、いじめは動物における一種の本能だからだ。
浦島太郎だって、子供たちにいじめられていた亀を助けたではないか。
子供は相手が弱いと見るとかさにかかっていじめようとする。
純粋無垢ではあるが、もともと残忍さを宿した動物なのである。

「暴力反対!」の間延びした平和主義はもうけっこう。
「いじめられたら10倍返し!」
「戦う人間は美しい」
といった教育標語を校内に掲げようではないか。
怯懦(きょうだ)は恥なのだ――ボクはこのことを声を大にして訴えたい。













2019年4月9日火曜日

あなたは本を読んでますか?

旧制高校生の必読書は阿部次郎の『三太郎の日記』、倉田百三『愛と認識との出発』、
西田幾多郎『善の研究』だったそうです。ボクもbookishな人間としては人後に
落ちないので、極めて難解ではありましたが、高校時代にやっとこさっとこ
読破することができました。

数学者・藤原正彦の『国家と教養』の中に、こんなフレーズがあります。
本を読まない人間は井の中の蛙と同じになります。この蛙にとって、
世界は井戸の底と上に見える小さな丸い空だけです

またこんなエピソードも添えてありました。
《ある人から聞いた話ですが、日米戦争で零戦を操縦し、
数十機の米軍機を撃墜した帝国海軍の名パイロット坂井三郎は、
電車内で次のような若者の会話を耳にしたそうです。
「おい、お前、日本がアメリカと戦争したこと知ってるか」「えっ、ウッソー」
「マジだよ」「マジか。それでどっちが勝ったんだ」
坂井氏は、自分達が命をかけて戦った戦争とは一体何だったのか、
と考え込んでしまったそうです》

この話は以前から知っていました。『大空のサムライ』で知られる坂井三郎は
200回以上の空戦で、64機の米軍機を撃ち落としました。この本も高校時代に
読んでいますが、まさかその坂井がこのエピソードの発信元だとは知りませんでした。
「マジ」とか「ウッソー」なんていう若者言葉は坂井の存命中にはなかった
でしょうから、たぶん藤原の創作で、リップサービスではありましょうが、
いろいろな本にこのエピソードが登場してくるのは確かで、実際、
電車内にしろ学校の教室にしろ、この種の間の抜けた会話があったことは
事実なのでしょう。

book-worm(本の虫)になると、少なくとも物知りにはなります。
物知りになれば会話の幅が広がり、お相手によっては物事の本質に迫るような
エキサイティングな議論も可能です。

一昨年、わが家にホームステイしたフランス人のルカ(高校生)は、
茶目っ気たっぷりのいたずら坊主で、おまけに女好きでもありましたが、
大変な読書家でもありました。
「お父さん、ヒトラーの『我が闘争』読んだことある?」
 なんて、さらりと訊いてきます。
「ああ、もちろんあるよ。ルカと同じ高校生の時に読んだ」
フランス人からすれば憎っくき敵のアドルフ・ヒトラー。
しかし「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」という孫子の兵法を、
ルカが自ら実践しているところが立派だ、とボクは感心したものです。

近頃の大学生は月に1冊も本を読まないものが約50%もいる、とのことです。
「本を読まない学生」という言葉自体、すでに矛盾しているのですが、
現実に書物に無縁な大学生が2人に1人いる、というのだから驚きです。

本なんて読まなくたって生きてゆけます。
情報だけを取るのならスマホやケータイなどSNSの世界で十分間に合います。
しかし〝教養〟となると話は別。ローマ時代の昔、
学者であり政治家であったキケロは、
本のない部屋は魂のない肉体のようなものだ
 と言っています。また藤原の父親である作家の新田次郎は、
一日に一頁も本を読まない人間はケダモノと同じだ
 とまで言っています。つまり日本の大学はどこもみなケダモノだらけで、
「〇△大学」と名乗るより「〇△動物園」と看板を掛け替えるべきなのです。

民主主義というシステムは最高のシステムではありません。
衆愚政治になる危険性を常に孕んでいるからです。
実際、歴史を振り返ってみれば、民主主義といわれた国で
衆愚政治に陥らなかった国は皆無なのです。
藤原は、
《民主主義とは、世界の宿痾(しゅくあ)ともいうべき国民の未熟を考えると、
最低の政治システムなのです》
 と切り捨てています。かつて英国のチャーチルが奇しくも言ったように、
民主主義は《独裁制や共産制よりは少しだけまし》
 といったレベルで、衆愚政治に陥らないためには政治家も国民も、
成熟した教養人にならなくてはいけないのです。
そんなこと、可能でしょうか?

案の定、今どきの日本人は「教養」といったものに最も遠いところにあります。
坂井三郎が呆れ果てたような無残な光景が、至るところで繰り広げられているのです。
教養はつぶさに顔に出ます。実にふしぎなことですが、これは確かなことです。
ボクの敬愛する文芸評論家の福田恆存も、
《人相と人柄――この二つのものは別物であるどころか、
実は心憎いほど一致しております。人相を見れば、
その人柄はだいたい分かります。そういうものなのです
 と断じています。心すべき言葉だと、改めて思います。


←藤原正彦のベストセラー本に
便乗して、ちゃっかり宣伝して
しまう我が小人根性。売れないわけです。

2019年4月6日土曜日

昔むかし、年寄りは家の宝だった

長寿を寿(ことほ)ぐことが良いことなのかどうか、わからなくなってきた。
昔は三代、四代が同居する大家族制がふつうで、『家に年寄り、屋敷に大木
という諺があるくらい、年寄りは一目置かれ大事にされてきた。長い年月にわたって
積み重ねてきた経験には何ひとつムダなものはない、という暗黙の了解が
社会の常識になっていたからである。

年寄りに敬意を払った諺は他にもある。
年寄りは家の宝
年寄りの唾は糊(のり)になる
なんていうのもある。なんだか汚らしい諺だが、たしかに粘り気はありそうだ。また、
年寄りの言うことと牛の〝しりがい〟は外れない
というのもある。しりがいとは牛の尻にかけて牛車を固定する道具のことである。
どれもみな「褒めすぎじゃないの?」の感が無きにしも非ずだが、
インターネットなど存在しない時代に農林水産業などの現場では、
経験を積んだ長老たちの意見は珍重されたのである。

ところがどうだ。今の時代はどう考えても年寄りにアゲンストの風が吹いている。
ブレーキとアクセルを踏み間違え事故を起こす年寄りたち。認知症であてどなく
徘徊する年寄りたち。子や孫たちに介護の世話を焼かせる年寄りたち。
高額な医療費で国の財政を圧迫する年寄りたち……挙げだしたらキリがない。
年寄りは家の宝どころか国のお荷物になりかけているのである。

また、年寄りを狙ったサギ事件も相変わらず後を絶たない。
東京の町田市では、高齢者を狙った特殊サギ事件が、過去3ヵ月の間に25件。
被害総額は4700万円だという。この額に驚いてはいられない。2017年
の1年間で、世田谷区では高齢者をカモにした特殊サギ事件が216件発生、
被害総額はなんと5億4700万円におよぶという。23区内ではワースト1だ。
お金持ちの多そうな世田谷区はサギ師たちにとっても〝宝の山〟なのだろう。

特殊サギはいわゆる〝おれおれ詐欺〟の変形バージョンが次々と生み出され、
今は医療費などの返還を装った「還付金サギ」が大流行なのだという。
世田谷区の被害のおよそ40%がこの手口だ。そもそも濡れ手で粟の特殊サギだ、
頭のボケた老人たちが相手なのだから、赤子の手をひねるようなものだろう。
サギ師たちだってバカではない。悪知恵の限りを尽くして犯行に及んでいる。
特殊サギはバカではできないIntellectual crime(知的犯罪)なのである。

こうした事件が相次ぐと、年寄りへの敬意は失われ、次第に厄介者扱い
されるようになる。あれほど〝家の宝〟などと敬愛されていたのに、
年寄れば犬も侮る』の諺よろしく、ペットにもバカにされるようになった。
そして、
年寄りと釘頭は引っこむがよし
年寄りと仏壇は置き所がない
などという俚諺(りげん)が至極当たり前のように口の端(は)にのぼってくる。
長寿はめでたいどころか、迷惑千万なものになりかけていて、
高齢者たちは寄るとさわると「ネンコロはいや、ピンコロで死にたい」
などと嘆くのである。

「おれだよ、おれおれ……」
と長男を装った男から電話があると、(わたしは絶対引っかからないわ)
といくら自分に言い聞かせていたとしても、
「会社の金を使い込んでしまった。助けて!」
と切羽つまった声で言われると、『子ゆえの闇』か、たちまち理性が失われ、
男の言いなりになってしまう。あれほどテレビや新聞で特殊詐欺事件が
報道されているのに、年寄りたちは教訓から少しも学ばず、
いっこうに被害は減らない。
(年は取りたくないもんだ)
世間は改めてそう思い、本人も意気消沈する。

ボクも年寄りの片割れだから、若い連中に侮られるのは願い下げだが、
いつかは犬にも侮られるようになるのかもしれない。だからボクは
老残の身をさらすよりは潔い「安楽死」の途を選びたいのだ。いきなり
安楽死とは穏やかではないが、バカにされ厄介者扱いされ、おまけに老衰で
身体の自由が利かなくなったら、四の五の言わず死んだほうがましだ。
武士道とは死ぬことと見つけたり、なのである。
しかし日本国は無粋にも安楽死の権利を認めていない。実に残念なことである。

一方、オランダやベルギー、スイスなどは安楽死を認めている国で、
'16年の統計では、オランダで亡くなった人の約4%(6091人)が
合法的な安楽死だったという。ただしオランダでは外国人の安楽死を認めていない。
認めているのはスイスで、外国人であってもお代を払えば死なせてくれる。
そのお代は約200万円。幸いなことに女房の姪っ子夫妻がスイスに住んでいるので、
いざとなったらお願いしてみることにする。

ただ問題は、どうやってスイスまで行くかだ。
ボクはかつて仕事で何度も欧州へ足を運んだものだが、いまはそれができない。
突然、「閉所恐怖症」という厄介な病気を患ってしまったのだ。
閉ざされた空間で、それも空の上ときたら一大パニックを起こし、
悶絶してしまう(気絶しているうちに到着するだろうから、かえっていいかもw)

ああ、犬畜生にもバカにされるようになったら、
いったいどうやって誇り高く生きていったらいいのか。
よい知恵があったら、誰か教えてくれませんか?