2019年10月29日火曜日

吉永小百合は好きじゃない

女優の八千草薫が死んでしまった。享年88。
没年が8年前に死んだボクの母と同じである。

ボクは八千草薫が好きだった。
〝清楚〟という言葉がピッタリの美人だった。
楚々とした佇まいで、いつも品のよい微笑をたたえていた。
万事控えめな性格で、「私は大女優なのよ」などと驕った態度は皆無。
名前のとおり、八千草(多種類の草のこと)が薫ってくるような
爽やかな人となりだった。八千草には風雅な趣があった。

同じ美人女優に吉永小百合がいる。
サユリストには申しわけないが、ボクは吉永がきらいである。
顔はともかく、しゃがれた声、空っぺたな演技、そして一番ボクの癇に
さわるのがその思想性である。時に日本共産党の広告塔みたいな発言をする。

安保法制が議論されていた時、サユリ姫は安倍首相の〝積極外交〟を批判していた。
集団的自衛権の行使が可能になると「むしろ戦争につながる」というのである。

吉永に代表される〝平和の使徒〟みたいな顔をした人たちは、
平和憲法さえ後生大事に護っていれば戦争など起こらない、と考えている。
「台風来るな! 水害も起きるな!」
と呪文のように唱えていれば、台風も避けてくれて災害列島でなくなる、
みたいな考え方である。こういうオメデタイ考えを、
ボクは〝念力主義〟と呼んでいる。

日本国憲法第9条第2項にはこう書いてある。
『……陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、
これを認めない』と。
つまり、想定外の事態に直面した時でさえ自衛権は放棄する、と言っている。
領土を侵略されても、女子供が辱めを受けても、一切抵抗しませんから、
ご自由にどうぞ、というわけだ。

吉永だったら「日本は平和を愛しているから戦争をしないのよ」という理屈に
なるのだろうが、世界は「日本は戦争のできない国」「腰抜けの国」
と見るだろう。目の前で愛する人が凌辱されようが、なんの抵抗もせず、
ただ見ているだけの国。女性が犯されようが奴隷にされようが、
はたまた人間の尊厳が徹底的に踏みにじられようが、命あっての物ダネという
スタンスだ。サムライの子孫たちも、ずいぶん品下がったものである。

今国会では憲法改正論議をまず第一に進めるべきなのに、野党は揃って
与党閣僚たちの失言を追及する姿勢を崩さない。〝メロン〟で辞めた
菅原経済産業相、〝雨男〟と〝身の丈〟発言で問題視されている河野防衛相と
萩生田文科相。一国の安全保障の問題より、こうした尻のつっかい棒にもならぬ
つまらない失言のほうが大事、というのだから野党のオツムの程度が知れる。
さぞや支那や韓国・北朝鮮はほくそ笑んでいることだろう。

国会の運営費は1日当たり3億円もかかるという。
どんなつまらない議論でも、また野党が質疑をボイコットしても、
議員1人当たり1日およそ20万円が支払われる。
メロンや香典を支持者たちに配ったというだけで、
野党は鬼の首でも捕ったように騒ぎ立てる。
正義漢づらして悦に入っている野党の議員さんたちよ、
お前さんたちだって少しは身に覚えがあるだろ!
ボクは声を大にして言いたい。「この税金ドロボーめ!」と。

心地よい八千草の香りが、飛んだキナ臭いニオイに変わってしまった。
ボクの師匠・山本夏彦翁はこう言っていた。
「平和主義者が戦争を起こす」と。

「何があっても戦わない」というのは平和主義でも何でもない。
東須磨小の先生が同僚たちにいじめられたというニュースがあったが、
ボクが被害者の先生だったら、まず〝女帝〟と呼ばれる女教師の顔面に
一発喰らわせている。この被害者には同情するが、あれほどいじめられて
無抵抗なのはいただけない。ラグビーの日本代表みたいに、
死ぬ気になって戦えば勝機はあるのだ。無抵抗で白旗を掲げるのは
ただの敗北主義である。
てめえ、キン〇〇つけてんのか? 死んだ気になってボコってこい!
とボクはお上品にハッパをかけてやりたい。

日本国憲法も同じ。金は出すけど血は流さないという
〝命あっての物ダネ主義〟が一貫したトーンで、
「それでもサムライの子孫かよ!」
と世界じゅうから笑われているのが現状だ。事実、あの湾岸戦争(1990~)時、
日本は130億ドル(国民1人当たり1万円)も拠出したが、
〝too little too late〟と嫌味を言われ、「小切手外交」「血と汗のない外交」
などと西側諸国から揶揄された。130億ドルが〝too little〟ってか。
偉っそうにお説教を垂れた国、出せるもんなら出してみろよ。

そういえば野党の面々にはサムライの子孫はほとんどいない。
主だった人たちはほとんど〝在日〟だからだ。在日がきらいなのではない。
日本という国に世話になっていながら〝反日主義〟を崩さない、
その忘恩ともいえる姿勢がきらいなのである。

かつてサンフランシスコ講和条約に猛反対したのが在日朝鮮人たちだった。
日本が独立することに猛然と反対したのだ。当然だろう。彼らは
警察権が及ばないことをいいことに、好き勝手に闇商売をやっていた。
ボクの親の世代は総じて朝鮮人がきらいだったが、おそらく戦後の彼らの
無法ぶりを間近に見てきたからだろう。占領軍も見て見ぬふりをしていた。

物の本によると、日本が占領されていた7年の間に、大金持ちにならなかった
朝鮮人はいないといわれている。駅前の一等地をわがもの顔に占拠し
パチンコ屋を始めたのも彼らだった。友人K君の知見によると、
「GHQも日本人がギャンブル依存症の〝腑抜け〟になってくれればいい、
と半ば第三国人の横暴を黙認していた」
ということらしい。彼らが日本の独立に反対したのもむべなるかなだ。
その流れは民主党政権の時代まで続いていた。

土井たか子以下、福島瑞穂、菅直人、枝野幸男、福山哲郎、辻元清美、前原誠司、
そして小沢一郎でさえ在日となると、野党議員の面々の中に日本人を探すのは困難
とさえいえる。悲しいかな日本の国会は「多数派日本人の与党」と「多数派在日の野党」
という対立構図なのである。

ああ、八千草薫のいないニッポンは右も左も真っ暗闇でござんす。




←こら、おれの薫ちゃんを
気安く落書きするな!











2019年10月24日木曜日

「桜の戦士たち」が恋しいよ

なんか気が抜けたようにボーッとしている。
「毎度のことでしょ!」と言われると困るのだが、
今回は〝ボーッと〟の中身が違う。ラグビーW杯の準々決勝で日本代表が負けてしまい、
もうあの「桜の戦士たち」が観られないのかと思うと、淋しくて、切なくて、
悲しくて、その言い知れぬ喪失感にただボーゼンとしている、という感じなのだ。
世間では〝ペットロス〟ならぬ〝ラグビーロス〟と言っている。

呑兵衛仲間たちと会えばラグビーの話題だった。
朝の散歩の時に会う仲間たちも、口を開けばラグビーの話だった。
「あのガツンとぶつかってゆく雄々しさがいいな」
「倒れても前に進もうとする姫野君のガッツがいいわね」
「笑わない男・稲垣のあのムスッとした顔には笑っちゃったよ」
姫野、稲垣、田中、リーチなどと、十年の知己みたいに気安く呼んでいるが、
ついこの間まで、名前すら知らなかった連中である。

ボクもご多分にもれず〝にわかファン〟の一人である。
何度観てもルールが分からないという、末席のそのまた末席を汚している
へっぽこファンである。そんな即席ラーメンみたいに出来上がったファンなのだが、
少しも腰は浮ついていない。岩盤みたいにしっかと足をつけたファンなのである。

ボクは「いよいよ〝筋肉の時代〟が来たぞ!」などと周囲に吹聴している。
ただのマッチョではない。ガツンとぶつかり合って、時にエキサイトすることもあるが、
試合が終わればノーサイド。互いに健闘を讃え合い、リスペクトし合う。
サッカーなどではサポーター同士で争ったり、最近の「韓国対北朝鮮戦」みたいに、
「まるで戦争のようだった」と、反則のオンパレードになることだってある。

反則ならラグビーでも起きるが、サッカーには「シミュレーション」と呼ばれる
卑怯な手がある。相手選手に反則を食らったと偽装するパフォーマンスである。
ブラジルのエース・ネイマールがファウルを受けた際の〝過剰演技〟はつとに
有名だが、なに、他の国の選手だって平気でやる。VTRで再生すると、
ぶつかってもいないのに大げさに倒れ込むシーンが映っている。あのオーバーな
リアクションには誰だって鼻白んでしまうだろう。

柔道の試合にもシミュレーションに近い偽装攻撃がある。
〝掛け逃げ〟である。投げる気もないのに投げるふりをして、
相手に消極的指導を与えるように仕組む。ポイントで勝敗を分ける
〝JUDO〟ではしばしばこの偽装攻撃が用いられる。

ラグビーを手放しで絶賛するわけではないが、こうした偽装攻撃は皆無で、
あくまで正々堂々と戦う、というのを表看板にしている。
実際、インチキプレーをやっているヒマなどなく、
スクラムハーフの田中史朗などは大会直前に奥さんに向かって、
「もし俺が死んだら、新しいいい人見つけてな……」
などと言い残して家を後にしている。この言葉が決して大袈裟なものでないことは、
試合を観ればだれでも納得する。みんな満身創痍、命懸けで戦っているのだ。

20日の「対南ア戦」は瞬間最高視聴率が50%を超えたという。
2人に1人は観ていたことになる。近年では珍しいフィーバーぶりである。
結果は3対26とボロ負けだったが、スタジアムの観客たちは桜の戦士たちに
惜しみない拍手を送った。選手たちも泣いたが、観客も泣いた。
日本中が感動の涙に包まれていた。鳴り物入りの応援合戦などなくても
試合は盛り上がる。むしろ鳴り物応援がないほうが自然な一体感が生まれ、
心が一つになる。鳴り物ぎらいのボクには嬉しい光景だった。

ボクは前期高齢者と呼ばれる役立たずのジイサンだが、
姫野や稲垣選手のようなキン肉マンをめざし、日々筋トレに励もうと思う。
みごとムキムキ男になれたあかつきには、思いっきり突進してみたいのだが、
さて誰に向かってタックルを仕掛けていったらいいのだろう。
こんど100㎏超の婿殿が来たら、ぶつかり稽古のお相手をつとめさせよう。
婿殿は元早大アメフト部の猛者。相手に不足はありませぬ。いざ……




←見よ、この雄々しいタックルを!





2019年10月3日木曜日

「正論おじさん」は人類の敵か?

わが町にもうっとうしい「正論おじさん」がいた。
町のシンボルでもある「県営和光樹林公園」の芝生広場で、
ノーリードで犬を遊ばせている複数の飼い主に向かって、
「規則を守れ!」と猛烈に叱責したおじさんがいたのである。
おかげで犬を連れた愛犬家たちはパッタリ姿を見せなくなってしまった。
早朝、〝激かわ〟のワン公と同じく激かわの〝人妻たち〟とのふれ合いを
楽しみにしていたおじさんはガッカリである。

複数メディアで面白おかしく取りあげられた「正論おじさん」の元祖は、
三重県松阪市の商店街で話題になった人物で、看板が歩道に1㎝でも
はみ出していると無断で撤去、看板を出した店に猛烈なクレームを入れるという。
このため商店街は活気を失い、いつの間にやらさびれてしまった。
おじさんは89歳になる立派な〝じいさん〟だが、法律を楯に一歩も引かない。
現役時代は「最高官庁に勤めていた」と自分で言っているくらいだから、
エリート意識がいまだに抜けていないのだろう。

また路上のライブ活動は違法だ、と女性シンガーのCDを目の前で踏みつけて
問題になったおじさんもいる。これも「正論おじさん」の同類で、
法律の条文に書いてあれば絶対に正しい、と思い込んでいる正義感のかたまりだ。
しかし女性シンガーは事前に警察の許可を得ているかもしれないのだ。
であれば道交法違反にはならないし、憲法21条では「表現の自由」が
保障されている。また事前許可を受けていなくても、周辺の安全や円滑な交通が
阻害されない限り柔軟に対処しよう、というのが警察の立場で、
むやみに禁止したり、ましてや器物を損壊したりはしない。

法律の条文に書いてあることは絶対に正しい、とする教条主義的な考え方は、
専門的な言い方だと「形式的法治主義」というらしい。
一方で現代の民主主義に沿うように、柔軟に対処しようとする
「実質的法治主義」という考え方もある。

和光樹林公園の芝生広場で、それも早朝、人っ子一人いない南端の空き地で、
犬のリードをちょっとだけ放すという行為が、それほど危険なことなのか?
周辺の安全や交通を著しく阻害する行為なのか?
でないとしたら、愛犬家たちを猛烈に叱り飛ばした「正論おじさん」は
現代的な法の解釈、すなわち法律を現実に沿った形で柔軟に解釈しようとする
実質的法治主義に反しているといえる。あまりにガチガチ過ぎるのだ。

こうした正論ばかりを吐いて悦に入っている〝困ったちゃん〟は、
おじさんやおじいさんの専売特許かと思ったら、
「正論おばさんもいるわよ」
と、やはり愛犬家のおばちゃんの一人が言う。彼女は練馬から片道約40分かけて
この和光市の芝生広場まで2匹のワンちゃん(ムギ&ハナ)を連れてきているのだが、
彼女の近所には「正論おばさん」がいて、ノーリードの犬がいるとスマホで撮って、
ご苦労なことに公園の管理事務所に〝写メ〟するのだという。
このありがた迷惑な行為、どこか隣国の〝告げ口外交〟に似ている。

芝生広場に出没する「正論おじさん」の話を他の公園仲間(🚺)に話したら、
「もし嶋中さんが犬たちといっしょにいたら、
そのおじさんも注意をためらったんじゃないかしら」
「……?」
「プッ……見た目怖そうだし、身体がごつくて強そうだしね(笑)」
「…………」

たしかに、いなくてよかったかも。
いたら朝霞警察署で3回目の調書を取られていたかもしれない。
すでにDNAはしっかり採られているしね(笑)。
しばらくは静かにしていよっと。