2017年9月28日木曜日

さよならだけが人生だ

昨夜遅く、突然受話器が鳴った。
電話口の向こうからは懐かしい女性の声が聞こえてきた。
ボクの古い友人Oさん、といっても一世代ほど齢の違う友人の
娘さんからの電話である。かつて同じ団地内に住んでいたが、
高齢のため大宮にある介護付き有料老人ホームへご夫婦で
引っ越したのである。もう10年も前の話だ。

電話は予期したとおりOさんの訃報だった。昨日未明に亡くなったという。
96歳だった。北海道は網走の出身で、東京外語大ロシア語学科を卒業、
奥方のT子さんは世が世なら六千石の旗本のお姫様である。
また祖父・戸川安宅(残花)の長女・達子(樋口一葉に縁談の世話をしたこともある)
は勝海舟の孫と結婚している。

Oさん夫妻は悲しみを背負って生きてきた。
次女が結婚を目前にしてクモ膜下出血で亡くなってしまったのである。
ご夫妻の嘆き様は尋常ではなかった。亡くなられたM子さんは色白で
気品のある超のつく美人で、階下に住んでいたボクはその人となりを
よく知っていた。愛する我が子に先立たれる――世にこれほど残酷で
悲しいことがあるだろうか。
もしも自分の娘が死んでしまったら……考えただけでも気が変になる。

Oさんはロシア語が堪能だった。大変な読書家で、
ボクたちは齢の差を超えて、よくおしゃべりをした。
ドストエフスキーやトルストイの作品について、あるいは戦争中のことに
ついて、生まれ故郷の網走や斜里町のすばらしさについて……

唐の于武陵(うぶりょう)の五言絶句『勧酒』は井伏鱒二の手にかかると、
花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ》となる。
どんなに美しく咲いた花だって、突然の嵐によってそのすべてを奪われて
しまうことがある。その非情なはかなさが人生というものの実相であり、
人はこの冷厳な事実から目をそらさず、ひたすら前を向いて歩んで
いかなくてはならない。『勧酒』とはそんな詩である。

慈しみ育てた愛娘という花を無残にも奪い去られてしまったOさん。
その悲しみに堪えて、精いっぱい生きてきた。亡くなった娘さんの分まで
十分に生き切った。雄々しく立派な美しい生涯だった、とボクは心からそう思う。

明日はOさんの告別式。
ニヒルになりがちな気持ちを抑え、しっかり見送ってくるつもりだ。
合掌。



今年ボクは65歳になった。前期高齢者と呼ぶらしい。
つまり〝終活〟へのカウントダウンが始まった、ということだろう。
人生の節目を迎え、ボクはささやかな身辺整理を始めることにした。
その一つが年賀状やお中元、お歳暮のやりとりを一切やめる、
ということだ。こちらから送らないし、送られてきてもお返しはしない。
おつき合いそのものは今までと少しも変わらないが、ちょっとばかり
心と身体を身軽にしたい、と思ってのことである。他意はない。
幸いメールという文明の利器がある。手紙やはがきにはそれなりの趣があるが、
ここは思い切って〝断捨離〟すべきと考えたのである。異論反論はあろうかと
思うが、ガンコな年寄りの身勝手とご寛恕いただきたい。




←親戚や友人・知人にはこんな文面の
お知らせを送らせてもらいました




2017年9月25日月曜日

腕相撲で日仏交流

昨夜はプール仲間のロドルフ(フランス人)とカトリーヌ(ベルギー人)
夫妻の家に招かれ、いっしょにディナーを楽しんだ。こっちはカミさんと
ルカと3人。車で行ったから、もちろん酒が飲めないので、ノンアルコール
ビール持参でおじゃました。

ロドルフ一家は6人家族。長男はイギリス留学中なので会えずじまいだったが、
次男のアシル(アキレスの意)と長女マヲ、次女のコリンが歓迎してくれた。
このマヲとコリンがスーパーウルトラお転婆娘で、ボクの隣に座った小6の
コリンは、ジーッとボクを観察してから、いきなり、
「あたしね、モッツァレラチーズときゅうりと昆布が好きなの」
と言い出した。
「ヘーエ、変わった趣味だね。きゅうりはどうやって食べるんだい?」
と訊いたら、
「一本漬」
などとバアさんみたいなことを言う。

野菜をほとんど食べないルカに聞かせてやりたいセリフである。
「おじさんって変わってるね。部屋の中でサングラスしてるし、それに鉢巻き
もしてる。ただしお髭は立派だね」
「あのね、これサングラスじゃないの。薄く色が入ってるけど、立派な
老眼鏡なの。それに鉢巻じゃなくてバンダナ」
「おじさん、頭いい?」
「コリンよりはずっといい」

テーブルの反対側ではルカと3つ年上のアシルがフランス語で〝女の話?〟
に熱中している。アシルは日本の広島生まれだが、フランスへ留学経験がある。
「おれはフランスの女の子のほうが可愛い、と思う」
アシルが言うと、ルカはすかさず、
「いや、おれはフランスの女の子はきらい。日本のほうがずっといい」
などとやり返している。

ロドルフの家ではお父さんとお母さんがフランス語で何か言うと、
娘たちが日本語で返す、というような感じで、日常語は日仏語のチャンポン。
しばらくたわいのない話題で過ごした後は、長女のマヲがいきなり、
「腕相撲やろう!」
と言い出したから、さあ大変。みんな代わりばんこに腕相撲をするハメになった。

以前、ルカがボクに挑戦し、勝ったことがある。
右肩のケガでキャッチボールも長期に休んでいるボクが負けるのは
当然なのだが、ボクに勝ったことがよほど嬉しかったらしく、学校でも
誰かれなく挑戦しているらしい。もっとも左腕でやったら、あっさり
ボクが勝ってしまったが、それでもマッチョ願望の強いルカは、
ロドルフに勝ったことで、ますますドヤ顔に磨きがかかってきた。

コリンがボクに挑戦してきたので、
「おじさんは右腕をケガしてるから左腕でいい?」
と訊いたら、ウンというので、左のそれも指2本だけでお相手をしてやった。
ヨーイ、スタート!
コリンはウンウン唸りながら力を左腕に込める。しまいには両手まで使いながら。
そこでボクはヒョイとばかりに一気に押さえ込んだら、コリンは、
「腕が折れるゥ~!」
などと大げさに奇声を上げている。勝負あった。
「前期高齢者」だって、まだまだ腕っぷしには自信があるのだよ。

メイン料理はクスクス。粗挽きのデュラム小麦をそぼろ状にした北アフリカ
料理である。ルカは珍しくお代わりし、黙々と食べていた。フランスの実家
でも母親のクリステルがよく作ってくれるらしい。この俄かの食欲、
〝おふくろの味〟でも思い出したのだろうか。

ルカと過ごす日々も残りあとわずか。
ロドルフ家への訪問も、日本でのよき思い出になるだろう。
ロドルフにカトリーヌ、そしてアシルにマヲ、コリンちゃん。
次はわが家で腕相撲しようね。




←個性派ぞろいのロドルフ一家



2017年9月19日火曜日

『アンパンパーソン』なんて見たくない

ボクの次女がアメリカ留学から戻ってほどなく、
何かの拍子に、
「あっちでは〝メリークリスマス〟って言わないんだよね」
と言い出した。じゃあ何て言うの、と訊いたら、
〝ハッピーホリデーズ〟って言うの。クリスマスはキリスト教の
宗教行事だから、他の宗教の人に遠慮したんじゃないかしら」

わが家の居候のLucas(ルカ)がNHKのEテレ『Rの法則』の収録時に、
「日本語は男っぽい、って君は言うけど、フランス語はどんな感じかな?」
と訊かれ、思わず「オカマっぽい(笑)」と答えたら、
「オカマという言葉はNGだから、別の言葉に替えてくれない?」
とスタッフに言われ、月並みな「女っぽい」に替えた経緯がある。

〝ハッピーホリデーズ〟にしろ〝女っぽい〟にしろ、要は差別や偏見を助長する
ような言葉は使わず、寛容な社会をめざしましょうね、ということだろう。
そうすれば同性愛者や移民、マイノリティーの人たちとも仲良くやっていける。
アメリカではこれを「political correctness政治的妥当性」というのだが、
平たく言っちまえば〝言葉狩り〟のことである。

ボクはこれでも物書きのはしくれだから、言葉には比較的敏感だ。
原稿を書いていると言葉の使いかたについて必ず編集者とやり合うことになる。
「〝狂〟という字はなるべく使わないように願います」
「物狂い」とか「狂おしい」、「コーヒーに狂っている」などという
言葉は仮名に開いたり、別の言葉に置き換えさせられたりする。
「このドめくら奴!」などという『座頭市シリーズ』によく出てきたセリフは
もちろんダメ。「盲撃ち」もたぶんNGだろう。

●policeman➡police officer
●salesman➡sales person
●保母・保父➡保育士
●スチュワーデス➡フライトアテンダント
となれば、そのうち「家内」や「主人」が使えなくなり、
「妻」や「つれあい」「パートナー」と言いなさい、となるかもしれない。
で、ついには「アンパンマン」が「アンパンパーソン」になるのだ。
ああ、何という寛容な社会!

日本のマスコミやメディアはそのほとんどがリベラル派を任じているから、
こうした〝寛容な社会〟の実現にはもろ手を挙げて賛成するだろうが、
〝反リベラル(下記参照)〟を任ずるボクは、「マンホール」のことを
「パーソンホール」だなんて呼びたくないし、
「baldハゲ」を「comb free櫛要らず」などと言い換えたくない。
「このハゲ――――ッ!」が「この櫛要らず――ッ!」
では豊田真由子センセーのせっかくの暴言も迫力に欠けるというものだろう。

リベラル派が好きなのは〝きれいごと〟とか〝おためごかし〟というもの。
どう見たって「売春」そのものなのに「援助交際」と言いつくろう女子高生の
奸智と同じレベルである。ボクは生来、リアリストでカッコつけがきらいなので、
この種の〝寛容な社会〟を「偽善社会」と呼ばせてもらう。

安倍首相が近く衆議院を解散するという。
例によって野党はこぞって「大義名分がない!」だとか「森友・加計問題
からの敵前逃亡だ!」などと批判している。

これっておかしくないか? 
民進党などはバカの一つ覚えみたいに「政権交代を!」と唱えていたではないか。
解散となれば政権交代のビッグチャンスだろ。「大義がない」などと寝言を
言ってるヒマがあったら、ない頭絞って自民党に勝つ方策でも練ったらどうだ?

北朝鮮の百貫デブが日本上空に向かって弾道ミサイルをたて続けにぶっ放して
いるという非常事態なのに、野党ときたら、そば屋じゃあるまいに、
相変わらず〝もりかけ論争〟に血道をあげている。「大義がない?」ふざけるな。
「北朝鮮クライシス」に決まってるだろ! 日本国憲法に自衛隊をしっかり明記
しておかなかったら、いざという時、いったい誰が日本を守るんだよ!
いま国会で議論すべき優先順位がまるで「違うだろ――――ッ、違うだろッ!」
ボコッ、ボコッ……(すみません、すみません)

こんなアホバカ連中がてんこ盛りの野党なのに、
リベラル派を自称する有権者たちは「反・安倍」を旗頭に、
これからも野党に投票しつづけるだろう。自民党政権のおかげで株価が
2万円台を回復し、戦後70有余年、空前の平和と豊かさを享受しているのに、
自民党政権はイヤだという。ああ、GHQと日教組はよくもまあ、
アホバカで夢見がちの腰の抜けた日本人を作ってくれましたよ。
そのお手並みに、惜しみない拍手を!




←ぼくらの『アンパンパーソン』








※参照①
リベラルとは何か?
辞書を引くと「自由な、寛大な、自由主義な」などとのんきなことが書いてあるが、
現代の日本のリベラル派とは、
何かというと反体制や反権力を気取りたがる薄っぺらな人間たちのことで、
彼らは口先だけで革新や改革を唱えている。すでに崩壊している共産主義や社会主義に
心情的に同調し、いまだこの世に実現していない夢のような理想郷を夢見ている》
つまり、平たくいうと〝ええかっこしぃ〟の連中ってこと。平和で安穏な日本の中で、
しかも自分は絶対安全な場所にいて、死と背中合わせの人たち(自衛隊員など)の行動を
あれこれとあげつらう。安倍首相が所信表明演説で、東シナ海の領海を守っている
海上保安庁、警察、自衛隊に対して「心からの敬意を表そう」と呼びかけた時、
翌日の『天声人語』は「多くの職業のなか、なぜこの人たちだけを称えるのか釈然としない」
などと書いていた。自国の領土、領海を守る人々に対し、素直に感謝の気持ちを表せない
ひねくれものたち――世界じゅうどこを見てもこんなアホな連中は存在しない。
ボクが日本のリベラル派を蛇蝎のごとくきらうのは、現実を直視せず、夢みたいなことばかり
言っているからだ。
実際、話してみると、近現代史をほとんど知らない人ばかり。(ああ、勉強してないな)
とすぐ分かる。朝日・毎日などの反日メディアの主張をただ鵜呑みにしているだけなのだろう。
真のリベラルを自任したいのなら、もっと勉強するか、もしくは口をつぐんで黙っていること。
日本のリベラル派は悲しいかな、しゃべればしゃべるほどメッキが剥がれていく。

※参照②
ボクは左翼の連中からは〝右翼〟と見られているらしい。
当たり前だよね、左から見れば真ん中(中道)だって〝右〟に見えるんだもの。






2017年9月7日木曜日

世に〝いじめ〟の種は尽きまじ

「9月1日問題」というのをご存じか。
別名「2学期前自殺」問題ともいう。
この日前後は「クラスメイトと会いたくない」「夏休みの宿題をやってない」
「学校へ行きたくない」などの理由で、命を絶ってしまう児童が多いという。
特に中学生の自殺は2学期開始前となる8月に突出して多くなり、その数は
ふつうの月の2倍となる。

そんな世の風潮を憂いてか、上野動物園は公式ツイッターで、
《アメリカバクは敵から逃げるときは、一目散に水の中へ飛び込みます。
逃げるときに誰かの許可は要りません。わき目もふらず逃げてください。
もし逃げ場所がなければ、動物園にいらっしゃい》
と呼びかけた。なかなか気の利いたことをいうもんだ、と感心したが、
たしかに〝いよいよ危ない〟となったら、命あっての物種、
スタコラサッサと逃げたほうがいい。

ボクはいつも思うのだ。
《浜の真砂(まさご)は尽きるとも、世に〝いじめ〟の種は尽きまじ》と。
いじめによる自殺が起きると、当該生徒の学校長は、
「全校生徒を前に、命の大切さについて教え諭しました」
などと紋切り型の発言をするが、そんなもの、誰も聴いちゃァいない。
大人社会のきれいごとなど、子供たちにはとっくに見透かされているのだ。
だいいち、判で押したようなこんなセリフ、誰の心にも響きはしない。

ボクも学校へ行くのが苦痛だった時期がある。
いじめに似た行為も受けていたし、友だちがひとりもいなかった。
学校で孤立している、なんて薄らみっともないことを親に言えるわけもなく、
ひとり読書の世界に沈潜していった。例によって太宰治の『人間失格』
なんぞを読み、おれと同じような〝ダメな奴〟がいる、と認めることで、
ささやかなカタルシスを得ていたのである。死ぬことまでは考えなかったが、
ボクはひどく孤独だった。

生物界では、強いものが生き残り弱いものが淘汰されていく。
すべての〝種〟の使命は次世代にその〝種〟のDNAを残すことだからだ。
弱い個体が増えると、その種全体の存続が危うくなる。自然淘汰は
その結果である。人間もその生物界の一部だから、自殺は自然淘汰の一種
と思えなくもない。

いじめは学校だけではない。社会に出てからもずっと続く。
いやな上司や同僚、あるいは取引先などから執拗ないじめを受ける。
学校から逃げればいじめが終息するわけではないのだ。

平和の象徴であるハトは、いじめの達人だ。
自然界にはあまり見られないが、逃げ場のない鳥かごの中では
いじめが頻発する。強いハトが弱いハトの首をめがけて執拗にくちばしで
つつくのだ。この攻撃は血まみれの半殺し状態になるまで続く。
ゲージの外なら飛んで逃げられるが、かごの鳥では逃げようがない。

人間の場合、いじめられるタイプは決まっている。
気の弱そうなおとなしい子で、万に一つも反撃してこないだろう、
というタイプである。ボクは60有余年、べんべんと生きながらえてきたが、
ボクなりにある種の〝真理〟を獲得した。いじめに遭わない方法論である。

①猛烈に本を読め!
 本を読み知識が深まれば、人間というものの凡(おおよ)そが知れてくる。
 人間は賢いが同時に愚かである、ということが分かってくる。人間という
 ものの正体がわかれば、どんな人間が目の前に現れても動じなくなる。
 この手の平常心の人間はいじめの対象にはなりにくい。

②ケンカ術を身につけろ!
 何度も言うが、ケンカは〝気合い〟である。それと先手必勝。
 最初に相手の顔面にパンチをお見舞いしたほうが勝ちである。
 これは経験から導き出した確かな事実で、そのおかげで何度も
 警察のご厄介になり、ありがたくもDNAまで採取されている(笑)。
 ※朝霞警察署の遠藤さ~ん、ヤッホー!
  埼玉検察庁の飯島さ~ん、元気ですか~?

③身体を鍛えろ!
 ヘナヘナした肉体ではだめ。丸太ん棒みたいな二の腕と厚い胸の男に
 ケンカを売る酔狂な奴はあまりいない。福沢諭吉も言っているではないか。
 まずは〝獣身を成せ〟と。それと1発やられたら10倍にして返すこと。
 「やられたらやり返す」を肝に銘ずるのだ。このことは国の防衛とも通ずる。
 つまり「やられたら10倍にして返すからな」という姿勢を常に見せておく
 ことが大事で、それがいじめの抑止と戦争抑止につながる。

④友だちなんか要るもんか、と覚悟を決めろ!
 友だちがほしい欲しい、と思っていると友だちはできない。
 そんなもの欲しかァねえや、と開き直ると、ふしぎや友だちが寄ってくる。
 人の世の摩訶不思議なところだ。ボクは孤独な生活が長かったせいか、
 孤独には慣れているし、怖くもない。最低限、家族さえいればいいや、
 と見切っている。クラスで孤立している? けっこう毛だらけ猫灰だらけ。
 平気な顔で孤独に堪えるのも修行のうち、と思い定めることだ。

←刈り集められ、お台場の「施設」に
収容された戦争孤児たち。彼らは
生きるために盗みでもかっぱらいでも
何でもした。家族を喪った彼らの孤独感
に比べれば、甘やかされて育った現代の
ガキどもの〝いじめ〟など屁みたいなものだろ。





それにしても衆をたのんで個をいじめるなんざ、人間の風上にも置けないね。
一人くらいいじめをやめさせる義侠心に富んだ生徒はいないのか。
「卑怯(ひきょう)」と「怯懦(きょうだ)」がいかにみっともないものであるか、
大人たちは声を大にして訴えなくてはならない。「命の大切さを教えました」
ではダメなのだ。ボクたちは「勧善懲悪」を映画館の中で学んだ世代だ。
最後には悪い奴らが亡びる――この古くて新しい原理原則を徹底して
植え付けなければいけない。

最後はユーミンの『ひこうき雲』で締めましょうかね。
これも自殺した子を悼む歌である。





←「月に雁」ならぬ「月に飛行機」






2017年9月1日金曜日

神童も二十歳過ぎればただの人

汗っかきのボクがイーグルスの『Hotel California』の中にある歌詞の
♬ sweet, summer, sweatという一節を口ずさんだら、居候のLucas(ルカ)
がなぜかニヤリと笑った。彼はこの曲を知っていて笑ったのではない。なにしろ
The Beatlesも知らない世代である、同じく50年ほど前に流行ったThe Eagles
なんて知るわけがない。

ではなぜニヤリとしたのか。言葉遊びである。〝甘い夏の汗〟というs
連なった言葉におかし味を覚えたのである。ルカは言葉遊びが好きだ。
例えば〝ル、イ、バ〟といったような(笑)。こんなふうに韻を踏む
言葉を並べてはひとりニヤニヤ笑っている。語彙が豊富になるわけだ。

「ルカ、こんな言葉を聞いたことあるかい?」
ルカを前にボクは質問をした。
Blood,Sweat,and Tearsという言葉だ。さて誰を思い浮かべる?」

ボクたちの世代なら1960~'70代に活躍したアメリカのロックバンド名を
思い浮かべるかもしれない。あるいはジョニー・キャッシュのアルバム名か。
しかしボクは或るイギリス人の名前を期待していた。

「もしかしてWinston Churchillのこと?」
ルカはボクの期待どおりの名を挙げてくれた。
そう、1940年5月13日、英国議会下院での首相就任演説の一節がこれだ。
〝I have nothing to offer but blood, toil,tears, and sweat 私は血と苦労、
涙と汗以外に捧げるべきものを持たない〟
ナチスドイツと戦うイギリス首相の断固たる決意を述べた有名な演説だ。

「どうしてこの演説のことを知ってるの?」
ルカに訊いたら、
「以前読んだ本の中に書いてあったような気がする」
ルカの返答にボクは嬉しくなった。Hitlerの『Mein Kampf我が闘争(英訳)
を真剣に読み込んでいる読書好きの少年だ。まだ15歳なのに下の写真のような
政治・経済関連の本を片っぱしから読み飛ばしている。

「電車の中でも一心に『我が闘争』を読んでるのよね。変わった子だね」
これはルカと一緒に都心へ出た時のカミさんの印象である。同い年の子で、
車内で一心不乱に『我が闘争』を読みふけるような日本人がいるだろうか。
ルカに感心するとともに、一抹の寂しさも感じざるを得なかった。

「政治とか経済とか、むずかしい本が好きなんだね」
ボクが問いかけると、ルカは、
「そう……でも別にむずかしくないよ」
だって。参ったな(笑)。
『我が闘争』はボクが17か18歳の頃に読んだけれど、実に難解だった
記憶がある。それにいかんせん分厚い本で、完読するのに四苦八苦だった。
ところがルカは、細かくノートをつけながらホイホイ読み進んでいる。

ふだんはおどけておバカないたずらばかりしているが、
読書をしているときの顔は真剣そのもの。集中力が並大抵ではないため、
声をかけてもしばらく気づかないときがある。バカなのか利口なのか、
いまだ判別がつかないが、ひょっとするとひょっとするかも知れない。
AFS練馬支部でも「支部開設以来の逸材かも……」などと噂していると聞く。
こう見えてもボクだって、神童と呼ばれた時期があったような気がしない
でもない……でもないか(笑)。←どっちなんだよ!
はてさて、どうなることやら。

いつの日か成人したルカと、酒を酌み交わしながら世界情勢について、
あるいはスタンダール並みの〝恋愛論〟かなんか戦わせられたらいいな、
なんて想像すると、ついこちらもニンマリしてしまう。
そんな日が来れば、ホストファミリーとしてこれほど喜ばしいことはない。




←『我が闘争』以外に、ルカが
読んでいる本。『BUSHIDO』は
ボクからルカへプレゼントしたもの。





※あとで聞いたところ、「Hotel Californiaくらい知ってるよ」とルカに抗議された。
じゃあ一緒に歌ってみよう、ということでボクがギターで伴奏をつけてやったら、
ひどいout of tuneだが、なんとか歌いきった。知らない、なんて勝手に決めつけてしまい、
ごめんね、ルカちゃま。近くルカとのデュエットを動画にアップするつもり。乞うご期待!