2019年1月24日木曜日

いいかげん土俵の形を変えたらどうなんだ?

大相撲の中継を見ていていつも思うのだけれど、
あの土俵の形はもう少しどうにかならないものだろうか。
土俵の大きさは径4.55㍍(15尺)と決まっているらしいが、
200㌔以上ある逸ノ城(モンゴル人)とか魁聖(ブラジル人)といった
巨漢力士が土俵に立つと、
(うーん、ちょっと狭すぎるんじゃないの?)
とつい思ってしまう。

力士は年々大型化してきているが、統計によると、
1918年の幕内力士の場合、平均身長が174.6㎝、平均体重は102.9㌔だったものが、
1968年になると、身長が180.9㎝、体重が130.6㌔に増えている。
これが2018年になると、身長が184.2㎝、体重が164.0㌔になっている。
なんと50年で体重が30㌔も増えているのである。
身体が大きくなった分、土俵の大きさを拡げてやったほうがいいんじゃないか、
とボクなんか単純にそう思うのだけれど、日本相撲協会でそんな話が話題に上った
なんてついぞ聞いたことがない。頑ななまでに「伝統」を重んじようとする
日本相撲協会にはハナから変える意思などないのだろう。
いや、そんな考えは思いもよらないのではなかろうか。

百歩譲って土俵の大きさは、まあよしとしよう。
ただ、土俵の高さだけは何とかならないものか。
土俵の高さは34~60㎝が決まりらしい。
2017年の春場所、横綱に昇進したばかりの稀勢の里が日馬富士と対戦した。
この試合で、稀勢の里は日馬富士に寄り倒された際、左前肩と胸部を
しこたま打ちつけ、このケガがもとで引退にまで追い込まれてしまった。
ようやく日本人の横綱が誕生したと思ったら、ケガであっけなく引退してしまう。
地元後援者だけでなく日本じゅうの相撲ファンはさぞがっかりしたことだろう。

もしも土俵が低く、土俵下にクッション性のあるマットでも敷いてあれば、
稀勢の里のケガも軽傷で済んでいたにちがいない。ところが実際は、
崖から突き落とされるみたいな脳天逆落とし。砂かぶりで見ている観客だって
危険がいっぱいだし、何より突き落とされた力士がたまらない。
あの痛みにゆがんだ稀勢の里の顔が今でも目に浮かぶ。










今のように土俵を高くしたのは江戸の享保年間だという。
観衆にあまねく見せられるようにと、土俵の土を高く盛ったのである。
これは余談だが、土俵の土は「荒木田土」といって、
もともとは国技館近くを流れる荒川流域で採れた土を使っていた。
が、今は埼玉県川越市で採取された土を使っている。
ボクは川越生まれだが、うかつにもこの事実をまったく知らなかった。

川越の土は粘性が高く砂が適度(30%くらい)に混じっていて滑りにくいのだという。
土の総量は約45㌧。かつて地方場所などは現地で土を調達していたが、
今は両国国技館だけでなく、大阪や名古屋、福岡の各会場まで川越の土を
運んでいるという。

話を元に戻そう。
くどいようだが、力士が大型化すればするほどケガに泣かされるハメになる。
ケガの程度を軽くするために土俵の大きさや高さを工夫すれば
力士たちの選手生命も必然的に長くなるだろうに、相撲協会は「伝統ですから」
の一点張りで、力士に寄り添った改善を試みようともしない。
相撲取り同士の暴行事件もそうだが、伝統の名を借りた因循姑息な体質は
今も昔もまったく変っていない。

相撲という特殊な世界に生きてきた人たちが相撲協会を牛耳っているのだから、
社会性がないというのも首肯できるが、時代の価値観は刻一刻と変わっていくので、
そうしたものとの摺合わせはどうしたって必要になる。伝統というものは
新しい価値観を上手に取り入れてこそ、より磨きがかかってくる。
ただ唯々諾々としきたりを守っていればいい、というものではないのだ。
協会幹部たちの〝石頭〟が豆腐みたいにグニャグニャになることを祈ってやまない。


←このDVDは同じD棟に住むHさんの作品。
土俵ができるまでを追ったドキュメンタリーで、
優秀作品賞を受賞したものだ。右はそれを
フランス語のナレーションに変えたもの。
仏語はこれまた友人のT女史(G棟)が担当した。
ボクの周囲には才能あふれる人たちがいっぱいだ。

2019年1月15日火曜日

「全然、大丈夫です」とはなんだ!

いつの時代にあっても耳障りな言葉というのはある。
まずは「私って〇〇じゃないですかァ」という言い方。
知り合いの女性編集者がよく使うのだが、言われるたびに
「知らんよ、そんなもん」とツッコミを入れたくなる(笑)。
「こちら〇〇になります」もツッコミを入れたくなる言い方だ。
「お待ちどうさま、こちらシーザーズサラダになります」
「えっ? いつなったの?」

「私のお母さんは~」「ボクのお父さんは~」
という若者も気に障る。「母は」「父は」となぜ言えない。
公私の境界線がハッキリしていない証拠で、未熟の一語に尽きる。
「ってゆーかーァァァ」というのも未熟者の常套句。
「やばい」を連発する若者や「くそかわいい」などというバカ者は、
いっそ逆さ吊りにして思いきり蹴りを入れたくなる。

「全然、大丈夫です」もよく耳にする。「まったく問題ありません」が
正解で、「全然」という副詞がきたら次には打消しの否定語がくるはずなのに、
「全然、オーケーよ」と言われたら拍子抜けしてズッコケそうになる。

またサッカー選手や野球選手のインタビューなどでよく聞かれるのが、
「~ですし」と「~ますし」。いつの頃からかこの「ですし」「ますし」で言葉を
つないでいく選手が多くなった。中田英寿が流行らせた、という説があるようだが、
いつまでもダラダラと際限なくしゃべり続ける言い方で、実に聞き苦しい。
また語尾に「ね」をつけるしゃべり方も不遜で偉そうな響きをもつのだが、
オツムの弱い選手たちはまったく気づいていないようだ。

一方、政治家たちがよく使うのが「粛々と」という言葉。
竹下登元首相が使い始めてから、あっという間に広まったといわれている。
もともとは詩吟などにも謡われる頼山陽作の、
《鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく) 夜河を渡る……》から来ている言葉で、
ひっそりと事を行う、の意だ。

武田信玄の待つ川中島の敵陣へ、上杉謙信の大軍が、
夜陰にまぎれて千曲川を渡る。全軍無言で、隊列を乱さず、
ただ鞭(むち)の音だけが粛々と聞こえてくる……

この「粛々」を竹下元首相は、世上の雑音などに惑わされず、
ひたすらに事を進める、の意で使った。

それはそれでいいのだが、現政権の要である菅官房長官が、
沖縄の辺野古埋め立てを「粛々と進める」とやっちゃった。
「粛々」は相手に気づかれないように静かにこっそりの意だから、
沖縄県人は怒った。これだけ埋め立てに反対しているのに、
知らんぷりして埋め立てを敢行するのか、と。

菅官房長官は、これには辟易(へきえき)し、以後「粛々」という言葉は
使いません、と約束したんだと。お粗末さま。


←♪ 号令粛々、夜浜を埋める

2019年1月7日月曜日

日本人の8割が〝スマホ首〟

正月2日、練馬区谷原にある新鮮市場「フレッツ」に買い出しに行った。
都内最大級の鮮魚店で、お客さんがあると刺身などを買いに時々ここまで足を運ぶ。
さてこの店の隣はふつうの民家だが、珍しや庭に二宮金次郎の像があった。
「民家の庭に金次郎の像があるって珍しいよね……」
女房と2人で顔を見合わせたものである。

ボクが子供の頃はどこの小・中学校にもこの像が立っていた。
二宮金次郎、長じて尊徳と称したこの人物は農政家・思想家として知られ、
「報徳思想」を世に広めた。内村鑑三の『代表的日本人』の中でも取り上げられ、
〝農民聖者〟と讃えられている。

だがこの聖者、近頃は今一つ人気がないという。
「こどもが働く姿は勧められない」
「戦時教育の名残だ」
「歩きながら本を読むのは危険」
などという理由で、「児童の教育方針にそぐわない」ということらしい。



←かつて、どこの小学校にもあった
二宮金次郎像。










質素倹約と勤勉を絵に描いたようなこの像のどこが「教育にそぐわない」のか、
ボクにはサッパリわからないが、戦後民主主義バンザ~イ! を叫ぶ日教組の
センセーたちにとっては、『修身』の権化みたいなこの人物像が、古臭くて
忌まわしい像に思えるのであろう。

そのおバカなセンセーたちの教え子が今、歩きながらスマホをいじっている。
なかには自転車をこぎながらスマホに見入っているものもあるし、あろうことか
車を運転しながらメールを打っている不届きものもいる。いったいどっちが
〝危険〟なのか、とボクは怪しむのだが、日教組のセンセー方は怪しまない。

話は変わるが、日本人の約8割が〝スマホ首〟を患っているという。
スマホ首というのはいわゆる〝ストレートネック〟のことで、
頸椎の緩やかなカーブが失われてしまった状態を言う。
頸椎のカーブが失われてしまう ということはすなわちカーブのクッション機能が
失われ、頭の重みが直に頸椎にかかるということを意味する。
頭の重さは体重の約10%というから、ボクの場合、約8㌔の重さが頸椎にかかる。

実はボクはスマホ首ではないが、ストレートネックと診断されている。
一昨年、頚椎症性筋萎縮症という病気に罹ったとき、レントゲン検査で
わかったのである。パソコンを使う人間がかかりやすいというから、
たぶんそっちの影響だろう。PCが商売道具の物書きにはストレートネック患者が
多いのではないだろうか。ボクはケータイもスマホも持たないから、
パソコンが原因としか考えられない。

それにしても〝スマホ中毒患者〟が多すぎる。
電車の中はもちろんのこと、横断歩道を渡っている時も、
若者たちはスマホの画面に見入っている。
一時停止違反の車が突っ込んできたら、それこそ一巻の終わりである。

1日17時間、スマホから離れられないという中毒患者の若者がいた。
新聞記事に出ていたのだが、寝る時間以外はすべてスマホに捧げているらしい。
いったい17時間もスマホを使って何をしているのか。メール? 動画?
それともゲーム? いずれにしても二宮金次郎の読んでいた四書の一つ
『大学』の中身とは天と地ほどの違いがありそうだ。とてもじゃないが、
二宮尊徳の衣鉢を継ぐ人間にはなれそうにない。

さて、史上最年少で囲碁棋士に内定することが決まった
仲邑菫(なかむらすみれ)ちゃん(9歳)の面構えがいい。
6日、トップ棋士の井山棋聖と対局したが、おめず臆せず、
鋭い視線を井山棋聖に送っていた。この仲邑家にはテレビがないという。
菫ちゃんはバラエティと称する〝バカ番組〟とは無縁のところで
純粋培養されたのである。近頃珍しい、まことにすばらしい一家である。

ボクもバラエティ番組など糞くらえのクチだが、ニュースとスポーツ番組だけは
見ている。ほんとうはテレビなどなくてもいいのだが、薄志弱行の身ゆえ、
つい人並みの生活へと流されてしまった。スマホに熱中している若者の中に、
あの菫ちゃんほどの凛とした面構えを有する者があるか? 

みんな揃ってアホ面なのは、決して偶然ではあるまい。
本を読まず、スマホでゲームやユーチューブ動画に熱中している連中に
輝かしい未来はない、とボクはあえて断言する。スマホなどという
大人の〝おしゃぶり〟は単なる時間つぶしの道具でしかない。
そんなヒマがあったら、本の一冊でも読んだらどうだ?
ああ、二宮金次郎の質朴さを愛しんだあの時代がひどく懐かしい。




←井山棋聖を見据える仲邑菫ちゃん。