2019年11月28日木曜日

女房と二人で囲む鍋料理

朝食はいつも別々で、互いに好きな時間に好きなものを食べているが、
昼食と夕食は基本的にボクが作ったものをいっしょに食べるようにしている。
昼は夕べの残り物か麺類、レトルトカレーなどが多いが、夕食はさまざまだ。

肉か魚かと聞かれれば、肉料理が7~8割で、残りが魚料理だ。
カミさんは魚が好きなのだが、肉派のボクが料理長なので、
自ずと肉料理ばかり食卓に並ぶことになる。娘2人も幸か不幸か
〝おやじの味〟で育ったので、孫にも味の濃い~い〝ジージの味〟が
受け継がれているかもしれない。

30年以上も台所を担当していれば誰だって料理のマンネリ化を免れない。
豚カツ、鶏のから揚げ、カレーライス、麻婆豆腐、餃子、春巻き、
小アジの南蛮漬け、キムチ鍋……etc。どういうわけか油を使った
料理が多いのだが、聞けば男の料理は一般的にこんな傾向になるらしい。

(今晩のおかずは何にしよう……)
主夫の頭を悩ませるのはいつだってこれである。
料理書をめくって決めることもあれば、スーパーの売場をブラブラしながら
考えることもある。肉や魚、野菜を見ながらその場で料理をイメージするのである。
永年、主夫(主婦)をやっていれば誰だってそのくらいはできるのだが、
イメージされるものが毎度おなじみの物ばかり、というのが難点なのである。

さて、わが家の冷蔵庫には常備菜がいっぱい詰まっている。
最近凝っているのが「野菜の甘酢漬け」。
ダイコン、カブ、赤カブ、カリフラワー、赤橙黄のパプリカ、
きゅうり、玉ネギ、きざみ昆布などを食べやすい大きさに切り、
甘酢に漬けるのである。近頃は「カンタン酢」などという便利な
物が売られているので、漬け込むのは楽チンだ。この酢の物を
〝箸休め〟的に食卓に置いておけば、身体によいという酢を十分摂る
ことができる。色合いも豊かなのでお勧めである。

寒くなると鍋料理の出番となる。
鍋が人気なのは冷蔵庫内の棚卸が同時にできることだろう。
残った肉や魚、野菜などを鍋に放り込んでしまえば、
それなりにカッコウがつく。味つけも醤油味やみそ味、
カレー味、キムチ味とバリエーションが付けられる。
鍋料理は料理初心者にとっても最適な〝入門編〟の一つなのだ

わが家にはお客さんがいっぱい来るが、冬は鍋料理を出しておけば
まず間違いはない。外国人であっても鍋料理は大受けである。
〝困ったときの鍋料理〟とはよく言ったものだ。栄養があって、
身体が温まり、おまけに野菜類をいっぱい摂れる。そして〆は
うどんやラーメン。きりたんぽや餅を入れてもおいしい。









←集会棟の裏手にあるイチョウの樹がまぶしい







で、今夜のおかずなのだが、まだ考えている。
冷蔵庫には豚肩肉の薄切りと鶏のもも肉がある。冷凍庫には
殻付きエビ、赤魚の麹漬け、サバの干物といった魚類がある。
野菜庫にはそれこそありとあらゆる野菜がいっぱいだ。
いろんな料理が思い浮かぶが、まだ決めかねている。
天候不順で、外は小雨模様。
(やっぱ鍋かなァ……)
と気持ちが傾きかけているのだが、さてどうしよう。

鍋は大勢で囲んだほうがおいしいというが、
あいにくわが家は女房と二人だけの食卓だ。
結婚早々は二人だったし、今また最初の振りだしに戻って二人だけ。
何の不足があろう。





←ベランダから眼下を見る。紅葉が美しい

2019年11月12日火曜日

本は買うものではなく借りるもの?

ボクは実名でも本を3冊出しているが、これもまったく売れなかった。
嶋中労の筆名でもパッとせず、実名で書いた本はなおさらパッとしなかった。
こんなにも〝パッとした人間(笑)〟なのに、本を書くとパッとしない、
というのはいったいどういうことなのだろう。

ボクの仲間たちはいっしょに泳いだり、キャッチボールをしたり、
旅行したり、また浴びるほど大酒を喰らったりする気安い仲だが、
ついぞボクの本を読んでくれたという話を聞かない。

「『おやじの品格』読みましたよ。面白かったねえ。女房も
いっしょに読んでますよ」
という友がいたが、聞けば図書館で借りてきたという。
(おいおい、ネットの中古品なら1円で売ってんだぜ…………ケチ!)
と内心思ったりするのだが、読んでくれるだけでもマシか、と最近思い直している。
それにしても当の作者の前で言うのだものね、悲しくなるよ。

ボクのお気に入りは、『座右の山本夏彦』なのだが、
「山本夏彦ってだれ?」
という人がけっこういるので、
(これじゃ売れないはずだ……)
と半分あきらめてもいる。
稀代の文章家で文明批評家でもある名コラムニストの山本夏彦。
ボクはこの夏彦翁の毒のあるコラムにガツンとやられ、
爾来、翁の本はすべて読破。つむじ曲がりの性格まで似てしまった。

本を出版したらすぐ夏彦翁の長男・山本伊吾氏から、
「いっしょに飯でも食いませんか?」
とお誘いの電話があった。伊吾氏とは面識はないが、
「父のことをこれほど的確に描いてくれた人はいない。ぜひ食事をご一緒したい」
と過分なるお褒めをいただいたもので、ありがたくお招きにあずかった。

山本伊吾氏は新潮社の雑誌『FOCUS』の編集長で、なかなかの切れ者と聞いていた。
指定の場所に行ったら、なぜか作家の島村洋子さんもその場にいた。
なぜ島村さんが、と訝しく思ったが、どうやら二人はできていたらしい。
三人でどんな話をしたかは、すっかり忘れてしまったが、
話の中身より妖艶でグラマラスな島村さんにすっかり魅せられてしまった。
『「不道徳」恋愛講座』などという本を出しているくらいだから、
艶っぽいだけでなく、ちょっぴり危険な匂いも。

さて、承知のように出版不況が恒常化している。
人々が本を読まなくなってしまったので、出版業界は火の車なのだ。
おまけに高校の『国語』から文学作品が消えてしまうらしい。
実際は『文学国語』と『論理国語』の二択になるらしいのだが、
教科書から漱石や鷗外が消えてしまうというのは由々しきことである。

ボクは「本は自前で買うもの」という考えだが、
「本は図書館で借りるもの」と考えている人がけっこういる。
買えば狭い家がなおさら狭くなる、というのが理由のひとつで、
それを言われるとなるほどそうだよな、とは思うが、
本に埋もれて生活するのが幸せの極致、
と考えている人間からすると、ちょっと淋しい。

読書は習慣だ。切実な内なる欲求に応えようとした習慣だ。
この習慣が身につかなければ読書家にはならない。
ボクの場合は、魂の憩う場が読書であり、多感な傷つきやすい心のシェルター
(避難所)が読書でもあった。生き抜くために絶対に必要なものが読書だった。
こうした切実な欲求を持たない人は、本など読まなくても生きていける。
それこそスマホとにらめっこして人生を終える人だっているだろう。

ボクは生涯、本を手放さないだろうし、そのつもりもない。
本と共に歩んできた半生に心から満足している。
おまけに曲がりなりにも物書きという仕事に就けた。
それこそ売れない物書きで、それも端くれのそのまた端くれだが、
自分らしくていいかな、などと近頃思っている。
負け惜しみに聞こえるだろうが、実際、そう思っているのだからしかたがない。

書きたい本はある。
コーヒー関連の本を書いてくれ、と懇意の編集者は声をかけてくれるのだが、
ほんとうに書きたいのはコーヒーとは何の関係もない。
もっと日常雑感、世相巷談的なものだ。
でも、これまた売れないだろうから、迷惑をかけてはいけないと思い、
編集者には黙っている。

一発逆転のホームランでボクも編集者もウハウハ、
というのはないのでしょうかねェ(笑)。






朝日新聞デジタルより














2019年11月8日金曜日

電子本より紙の本がいい

世の中、右を見ても左を見ても〝スマホ中毒患者〟ばかりである。
電車内は言うにおよばず、横断歩道を渡っている時も、
自転車に乗っている時もスマホが手離せない。
先日、赤ん坊をだっこしながら横断歩道を渡っているヤングママさんを
見かけたが、このママさん、一時停止をしない左折車に危うく轢かれそうになった。
そうなったら赤ちゃんもろともイチコロである。

緊急連絡が入っているのならともかく、なぜ四六時中スマホとにらめっこを
していなけりゃならないのか。スマホを持たないボクにはさっぱり理解できない。
二宮金次郎は寸暇を惜しんで読書にいそしんだ。薪を背負い四書のひとつ『大学』
を誦す子供の頃の像はあまりに有名だが、歩きながら読書する姿は〝歩きスマホ〟
を誘発するとして栃木県の某小学校はこの像を撤去、代わりに座って本を読む
金次郎像が登場したという。その学校では日頃から、「ながら行動」はしないように、
と厳しく指導しているらしい。

本好きのボクからすると、電車内から読書をする人が払底してしまったのは
いかにも淋しい。ほぼ90%以上の乗客がスマホをいじっている光景は
外国人観光客も一様に驚くらしいが、かなり異常だ。その延長線だと思うが、
今時の大学生の2人に1人は、1ヵ月に1冊も本を読まないといわれている。
これほどまで本を読まない学生を〝学生〟と呼んでいいのだろうか。
明治・大正期は〝書生〟と呼ばれていた連中である。書を読まない書生なんて、
悪い冗談でしかない。
「日本人の電圧が急激に下がりつつある」
と司馬遼太郎は嘆いたものだが、まさにそのことが現実になろうとしている。

スマホは確かに便利には違いない。
パソコンの携帯版ということだから、あの中には何でも詰まっている。
カミさんなんか、わからないことがあるとすぐスマホを手にとる。
辞書代わりに使っているのだ。また写真や動画を撮るなんて朝飯前だから、
〝一億総カメラマン〟が出現したのに等しい。有名人が隠れて逢瀬を愉しもうと
思っても、周りじゅうがパパラッチだらけなので、下手をするとすぐ「文春砲」
の標的にされてしまう。クワバラクワバラ、なのだ。

ボクは骨がらみのアナログ人間なので、当面、スマホは持たないだろう。
いや、機械に弱いから「持てない」というのが正直なところだ。
先だって、わけあって電子本を読んだ。知り合いがシベリア抑留体験を電子本に
まとめたというので、いわばお義理で読ませてもらった。正直言うと、疲れた。
内容は興味深いものであったが、パソコンの画面で活字を追うことに
心底疲れてしまったのだ。齢のせいか、近頃は視力も落ち、ディスプレーを
長時間眺めていると目がショボショボする。

アナログ人間から言わせてもらうと、「読むんだったら紙の本が断然いい」
ということだ。小学生の頃から万の単位の本を読んできたので、
本は指に唾をつけてめくる(汚ったねぇ?)というのが習慣になってしまっている。
マウスでクリックしてめくる、という読書法につい拒否反応を起こしてしまうのだ。

あと十数年したらこの世からオサラバするので、
死ぬまで〝アナログ人間〟のままでいたい、と思うのだが、
世間がそれを許してくれるかどうか。現にボクの周囲のものは
「せめてスマホくらい持ってよね」と陰に陽に圧力をかけてくる。

意外や、スマホを持ったとたんに〝中毒患者〟になったりして(笑)。
実はそのことを内心恐れているのである。
なにしろ有言不実行のいいかげんなヤツだからね、ボクは。
そのうち『スマホ万歳!』などという記事を書くに決まっている。
ダメだ、こりゃ。





←薪を横に置き、座って本を読む金次郎