2016年8月19日金曜日

泣きじゃくるのはみっともない

リオ・オリンピックを観戦していて、気づいたことあれこれ。

●レスリングの吉田沙保里が4連覇を阻まれ、銀メダルに号泣。表彰台でも顔をくしゃくしゃにして泣き続けていた。あれはみっともない。他の選手にも失礼だ。霊長類最強の女といわれても、潔く負けを認め相手を称えるという度量に欠けている。うじうじと未練がましく泣きじゃくるなどは大和撫子の恥っさらし。恐ろしく美感を欠いたアスリートなど見たくない。あっちへいけ!

●「~なんですよね、ハーイ」
元バドミントン選手でスポーツ解説者の潮田玲子は、コメントを求められても月並みな解説に終始、顔が人並み以上でも頭の中身がパッパラパーではどもならん、という悲しい女に成り下がっている。コメントのあとに必ず「ハーイ」を入れるのも幼稚でバカっぽい。おべんちゃら解説でほとんど中身のない増田明美の後継者をめざす、というのならわからないでもないが……。

●卓球の水谷隼は、個人で銅、団体で銀をとった日本卓球界のホープだが、いかんせんコメントがつまらない。どうやったらあんなつまらないコメントを吐けるのか、というくらい凡庸で気が利かない。「マスコミは卓球女子ばっかり追っかけてる」と不満をもらしているが、水谷や丹羽孝希では暗すぎて絵にならないのである。悔しかったら気の利いたコメントのひとつも吐いてみろ!

●「天国のお父さんに向かってひとこと」
「お母さんの遺影を抱いていましたが、天国のお母さんに何て報告したんですか?」
お涙頂戴の浪花節が好きな日本のメディアは、メダルを獲得した選手の涙を誘いたいのか、必ず「天国の……」を枕にひく。伊調もそう、吉田もそう。これじゃあ天国の父母ものんきに寝てられない。表彰台で、遺影を胸に「イエーイ!」と明るくVサインをして見せたら褒めてやるんだけどな。

●国旗の掲揚と国歌斉唱となったら、大きな声で「君が代」を歌ってほしい。
口の中でモゴモゴやってるのが一番みっともない。君が代は世界一美しい国歌。西洋音階でないところがとりわけ嬉しい。あの荘厳な曲調に心を奮い立たされないとしたら、あんたは真の日本人じゃない。左翼進歩主義者たちは、君が代にそっぽを向くというが、日本がきらいな似非日本人など、憧れの支那や北朝鮮へとっとと行ってしまえ!

●柔道やレスリングの審判の質にバラつきがある。
特にひどかったのは柔道の審判。少しでも攻撃的姿勢が見えないとすぐ「消極的指導」や「偽装攻撃の指導(かけ逃げ)」を与える。前へ出ていかない、技をかけないからといって、はたして消極的といえるのか。選手それぞれには流儀があって、カウンター狙いに徹している選手だっているのだ。この指導1枚で敗退させられた有力選手もいるのだから、恣意的ともいえる「指導」の乱発は、ほんとうに選手泣かせだ。国際柔道連盟の猛省を促したい。

●体操の内村航平はなぜ〝わき毛〟を剃らないのか?
内村はわき毛が好きだ。他の仲間や外国人選手がきれいにわき毛を剃っているのに、内村だけは頑固にわき毛を守っている。今回のリオ五輪はそうでもなかったが、前回の五輪はやたらと剛毛が目立った。ボクは水泳選手で、零コンマのタイムを争うから、わき毛などきれいさっぱり剃ってしまうが、内村はあの剛毛に固執している。あのお毛々を〝セクシー〟と見る若い娘もいると聞くが、視線がついついわき毛にいってしまい、肝心の演技を観そこなってしまう、というのでは何ともマヌケな話だろう。

●支那人と韓国人はどうしてこうもうるさいのか。
「大韓民国(テーハミング)!」「加油(カーヨ)!」
対戦する相手が支那人か韓国人だと、観客席がやたら騒がしくなる。支那人も韓国人も自分勝手で国際マナーなどゼロに等しいから、そのやかましいこと。卓球でこの両国と対戦する場合などは、選手もサーブに集中できなくてイライラさせられる。テニスもそう。観客のマナーが悪いと、選手が観客席をにらんだりする。ウインブルドン(全英)を見習って、はやく〝ふつう〟のマナーを身につけてね。






←あ~あ、未練がましい。
日本人なら潔く負けを認めて、シャキッとしろい!



2016年8月10日水曜日

根底に美感をひそめぬ柔道なんて……

たった1つの「指導」で無残にも3位決定戦へ。
リオ五輪の柔道では、理不尽な審判の判定に日本人選手が泣かされている。

女房などは、
「審判の判定が人によってバラバラ。彼らの恣意的な判定に
一喜一憂させられるなんてバカにしてるわよ」
とおかんむり。金メダルを取ってもおかしくない実力派の日本人選手が、
おバカな彼らの判定で、ことごとく銅メダルにされてしまった、
と怒り心頭に発している。ボクもまったく同感である。

何の試合でも誤審はつきものだが、
経験不足の審判員にトンチンカンな判定を喰らった日には、それこそ選手が浮かばれない。
それならいっそ、試合場の四方八方にカメラを据え、今はやりの人工知能(AI)に判定を
任せたほうがよっぽどマシ、ということになりかねない。

組み手争いでほとんどの時間が取られ、ついには互いの袖口を絞り合って、
腰を引き、尻を突き出しながら前のめりに引っ張り合うだけのJUDOなんて、
ホンモノの「柔道」なんてもんじゃない。「指導」4つで失格というから、
みな相手選手に指導を取らせるような戦術で臨んでいる。だから、柔道そのものが、
舛添都知事の性格みたいに〝せこい〟〝みみっちい〟〝狡賢い〟ものに
成り下がってしまっている。

日本柔道の神髄は〝一本〟をめざす堂々たる〝美しい〟柔道である。
どんな手を使ってでも勝てばいい――つまり〝結果オーライ〟をよしとする
海外勢のポイントJUDOは本来の日本の柔道ではない。根底に「美感」をひそめない
柔道なんて、柔道とは名ばかりの、単なる格闘技に過ぎないのだ。

話変わって男子「400㍍自由形」でみごと1位を獲得したマック・ホートン(豪州)が、
2位の孫楊(中国)を《薬物使用のペテン師》と呼んだという。この発言に対して、
支那のネット上は〝反オーストラリア〟一色に染まっていると聞くが、支那人というのは
どこまでルール無視の自己中心的な民族なのかと、あきれてしまう。

通算して金メダル20個を獲得したマイケル・フェルプス(米国)は、
ドーピング検査で陽性だった選手と同じプールで戦いたくない
としたホートンの意見を支持、
ドーピング検査で1度どころか2度も陽性を示した選手が、まだこの五輪で泳ぐ機会を
得ていることはほんとうに悲しいことだ
と、暗にIOCを批判している。

孫楊は男子「200㍍自由形」でも金メダルを獲得、隣のコースを泳いでいた
7位の萩野公介は無邪気にもこの孫楊と健闘をたたえ合っていたが、
ボクとしては握手を求められても〝プイ〟と横を向き、知らぬ半兵衛を
決め込んでほしかった。萩野にホートンやフェルプスのような気概があったなら、
としみじみ思う。



 
←ホートンと孫楊の場外乱闘はいかに











※お知らせ
嶋中労の忘憂日誌』は突然中断してしまいました。申し訳ありません。
新しいパソコンに買い替えた時、付属の「引っ越しナビ」で、引き継ぐつもり
だったのですが、うまくいかず、ご主人様である私めが自分のブログにログイン
できなくなってしまいました。自分の家に内側から鍵をかけられ、締め出しを
食ったかっこうです。まことにマヌケな話で機械オンチもここまで来ると世界遺産級
かな、と自負したくなるほどです。
家に入れないのなら、別に家を建てようということで、『嶋中労の浅酌低唱』という
あばら家を建てました。こちらもご贔屓に願います。

2016年8月4日木曜日

本音のいえない日本人

「……てゆうか」
「……みたいな」
「……かな、と思うんです」
「冬とか寒いじゃないですか……」
近ごろの若いもんはこんなしゃべり方をする。

「とか」は二つ以上の事物を列挙する際に使われる言葉で、
「冬とか寒いじゃないですか」とか「メールとかで連絡します」
といった使い方は間違っている。
ボクなんか、意地が悪いから、
「冬の他に何が寒いんですか?」とか、
「メールのほかに何で連絡するの?」
と突っ込みを入れたくなってしまう。


いずれにしろ、こんな言葉遣いが、テレビ番組の中でも街中でも氾濫している。
なぜこんなしゃべり方が流行ってしまったのだろう。

思うに、自分に自信のない人間が増えているのだと思われる。
あるいは周りの人間に気を遣いすぎている。
〝空気〟を読みすぎるあまり、
「……だ」
「……と思う」
と断定口調で言い切れなくなってしまう。

言い切ってしまうと、時に波風が立つことがある。
当たり前のことだが意見のまったく異なる人間がいたりする。
そんな人に反撃を食らうのも癪だし、穏便にコトを図ろうとするのもまた面倒くさい。
で、相手の顔色をうかがいつつ、半分腰を引きながらものをしゃべることになる。
そしていつしか、語尾をボカすことで反撃をかわす術を身につけるに至る。
「和をもって貴しとす」の伝統精神が奇妙に変形して流通した感じだ。

ボクはこうしたボカし言葉がきらいだ。
「とか」「とか」言ってるコンニャクみたいな人間は張り倒したくなる。
自信過剰人間も鼻についていやだが、軋轢をきらう軟弱人間はもっといやだ。


ボクは友達も多いが、たぶん敵も多いだろう。
いつも断定調でものをいうし、相手にもそれを求める。
定見のないやつはきらいだし、付和雷同の輩を心底憎んでいる。

日本人が和を尊び、人との摩擦を避けたがるというのはわかる。
しかしボカしてばかりで、責任回避に走ることが本人のためになるのだろうか、
とつい考えてしまう。ボクの目には自ら困難に立ち向かわず、
いつも「八方美人のいい子ちゃん」でいたがる、無責任な人間に映ってしまうのだ。

軋轢(あつれき)、おおいにけっこうではないか。
口角泡を飛ばして言い争う、というのもたまにはあっていい。
小さい頃から、幼稚園や保育園で、友達でもないのに「お友達とは仲良くしましょうね」
などと教えられ、擬似的な〝似非フレンドリー〟な関係に慣れきってしまうと、
人との諍いを努めて避けるのが君子の生き方みたいに勘違いしてしまう。

ボクはそうしたニセの友情など信じないし、
ホンネを語れない友などほしくもない。

人はみな違う。
生きてきた環境が異なれば、ものの考え方だってみな違って当たり前だ。
その違いを互いにぶつけ合い、
「なるほど、こんな考え方もあるのか」
と教えられて初めて、互いを高め合うことができる。

馴れ合い、ウソの親和性でその場を取りつくろって、
いったい何が得られるというのか。

ののしり合い、どつき合って友情を育んできた前世紀の遺物のような
ボクには、こうした「親和」の築き方はさっぱり分からないし、
いかにも女々しいものに映る。

KY(空気が読めない)などという言葉がいまだに幅を利かせている。
「あのひとKYなのよね」などという不名誉なレッテルを貼られないように、
常に周囲の顔色をうかがい、ホンネを隠しタテマエだけの発言でお茶を濁してしまう。
要は他人を傷つけたくないし、自分も傷つきたくない。
そのことが習い性になってしまうと、いつしか、
「自分のホンネって、いったい何だろう?」
自分で自分が分からなくなってしまう。


傷つくことがそんなに怖いものなのかねえ。
それほど打たれ弱いのかねえ。


「男だろ、おい、もそっとシャキッとせい、シャキッと!」







2016年8月3日水曜日

厚顔無恥も捨てがたし

夏祭りのステージで歌ったのは全部で9曲(うち2曲は〝音姫さま〟オンリー)。
ほんのお耳汚しに、と謙遜しつつも、45分間も歌い続ける厚顔無恥。
ああ、あれほど気弱で繊細だった紅顔の美少年も、
半世紀もたつと〝厚顔〟で人擦れした千枚張りの面の皮になり果ててしまうのか。

人間って、だから面白い。
あれほど無口で人見知りをしていた少年が、
いまはどうだ。だれ彼となく声をかけ、つまらぬ〝おやじギャグ〟を飛ばしている。
記者歴が長いということもあるが、どんな人間を相手にしても動じなくなった。


ボクはよくこんな話をする。
人生の前半に無口だったものは、後半に入るといきなりしゃべり始めると。
一生のうちにしゃべる言葉の量は決まっていて、
前半おしゃべりだったものは、後半口をつぐんで無口になる。
神様というのは実に平等で、最後には帳尻が合うように作ってくれている、と。

だからボクは、かつての自分みたいに、
社会の中で居場所の見つからない若者たちにこう言ってやりたい。
「君が今抱えている深刻な悩みなどは、あと10年もすればあっさり解決してしまう。
そして50の坂を越えるころには、かつて悩んでいたことさえ思い出せなくなってしまうだろう。
だから心配しないでいい。いっぱい悩んで、いっぱい苦しむことだ。
それがきっと君の心の糧になるのだから……」

「ポケモンGO」をやれば、いわゆる「ひきこもり」がなくなるのではないか、
という議論がある。スマホもケータイも持たず、あのようなゲームアプリを
蛇蝎のごとくきらっているボクには、その効果測定をする資格も自信もないが、
ポケモン探しにうつつを抜かし、世間様に迷惑をかけるくらいなら、
部屋にひきこもってくれていたほうが、よほど世のため人のためになるような気がする。

問題はひきこもって何をしているかだ。
ボクはひきこもりではなかったが、
遊んでくれる友もいなかったので、もっぱら本を読んでいた。
『人間失格』とか『デミアン』とか『若きウェルテルの悩み』といった類の暗~い本である。

幸か不幸か、ボクは小学生のころから文学書に親しんできた。
なぜ文学書なのか。カッコいい言い方をすれば「心の渇きをいやすため」だ。
寒風吹きすさぶ心の部屋に、かそけき春の息吹を吹きこむためだ。
でないと、生きていく力が湧き上がってこなかった。
ボクは必死だった。

その「悩みのデパート」でもあった少年が、いまは図々しくも人前で歌を披露し悦に入っている。
なんという変身ぶりか。あの繊細でナイーヴな心はいったいどこへ行ってしまったのか。

いや、どこにも行っていませんよ。
いまでもボクの心の奥底にひっそりと息づいています。
そのガラスの心を悟られないように、幾重にもぶ厚いバリアを配しているだけの話で、
実は何にも変わってなんかいないんです。


スマホを穴のあくほど眺めたって、教養は身につきません。
教養を身につけるに一番手っ取り早い方法は、本を読むことです。それも文学書を。
それ以外にはありません。これだけは確信をもって言えます。
本を読まなければ、生涯、教養とは無縁の人生を送るハメになります。

高学歴でも教養のない人はいます。教育と教養はイコールではありません。
教養のない人には確たる歴史観、世界観、人間観がありません。
そのため付和雷同、あっち行ったりこっち行ったり……
背骨の軸がブレっぱなしです。


教養のない人間はさびしい。
教養のない人間は哀しい。
教養のない人間はつまらない。
教養のない人間にはやさしさが欠けています。






←ボクは太宰治のおかげで
生きながらえております。





2016年8月2日火曜日

主夫でもあり歌手でもあり?

スーパーで買い物をしていたら、おじさんがつかつかと寄ってきて、
「歌手ですか?」
といきなり訊かれた。
(んなわけねーだろ)
と思いつつもニッコリ会釈。


昨日は、やはりスーパーの中で、
知らないおばさん二人に呼び止められ、
「すばらしい歌声で、私、ずっと聞き惚れてました」
サインをしてくれ、と言わんばかりに、
憧れのまなざしで当方を見つめてくる。
その迫りようが、あまりに艶めかしいので、
思わず失禁しそうになってしまった。


おばさんやおばあさんに絶大なる人気がある、
とは日頃公言してはばからない身だが、
カラダを押しつけるように迫って来るおばちゃんたちは、少し怖い。


これが若いきれいなネエちゃんだったら、
こっちから進んでハグしてやるのだが、
おばさんやおばあちゃん相手だと、
善根を積むみたいなふしぎな感覚に襲われ、実にあんべえが悪い。


それでもこれだけの人たちを感動させたのだから、
「蛮爺's」もまんざら捨てたもんじゃない。
今年は「音姫」ことS嬢?とギター巧者のO氏も助っ人として加わってくれた。
厚みの増した歌と演奏は、少なくとも去年のそれよりはマシだった。


今夏のステージでは全部で9曲歌った。
「ひっこめ!」とか「もうやめろ!」とか、心無いブーイングのひとつも
飛んできそうな雰囲気ではあったが、なんとか乗り切れたのはめでたい。


それにしても焼きそばやヤキトリを食うのに忙しい客がいたり、
ジャリどもが目の前を駆けずり回ったりと、舞台環境は〝サイコー?〟だった。


あらかじめとっておいた録音を後で聴いたら、観客のざわめきと子供たちの喚声で、
何が何だかわからないようなステージだった。


そうはいっても、生きていれば来年も歌いたい。
なぜ続けるのか、自分でもよく分からない。
意地になっているところも確かにある。


歌や演奏がからっぺたでもいい。
舞台に立つとなれば、娘たちや婿もわざわざ応援しに来てくれる。
その夜は家族水入らずで賑やかな宴会だ。
そのうち、
「おじいちゃん、がんばれ!」
と孫の掛け声がかかるかもしれぬ。


生きているだけでいい。
生きているだけで、もうじゅうぶん幸せなのだから。

動画はステージで歌った『365日の紙飛行機』。
実はAKB48の隠れファンなのだ。








下戸ならぬこそ……

毎日、酒ばかり飲んでいる。
「Toriaezuビール」という名のビールでまず喉をうるおす。
あとは「toriaezu日本酒」になったり「Toriaezuワイン」になったりして、
ブレーキが利かなくなる。

父はまったく飲めなかった。
兄弟姉妹がそろって下戸だから、飲めない血筋なのだろう。
母は逆で、めっぽう飲めるクチだった。兄弟も呑み助ばかりで、
母方の祖父は生前、
「死んだら酒樽に入れてくれ」
と言っていたらしい。

そんなわけで、下戸と上戸の血を半分ずつ受け継いでいる。
なぜ酒を飲むのかと問われれば、こう答えたい。
「旨いからに決まってるだろ……」


とにかく酒はうまい。
安酒だってうまい。
ビールもどきの発泡酒だってけっこういける。
ボクはワインが好きで、赤でも白でもロゼでも、何でも来いだ。
品種でいうと、赤ならカベルネよりメルロー、
白ならシャルドネよりリースリングやゲヴュルトトラミネールがいい。

ボクは過去に、仕事でヨーロッパの星付きレストランを30数店舗取材している。
その折、ウン万もする高級ワインを毎晩のように空けた。
そこで分かった。ワインの良否は、「良質な渋み」に在る、と。

しかし今となれば、慢性的な手もと不如意で、高級ワインなんぞ飲めやしない。
仕方がないから、スーパーで1000円前後のワイン、
それもチリ産や豪州産、カリフォルニア産を買っている。〝コスパ〟がいいのだ。
1000円ワインに良質な渋みなど期待しようもないが、
安ワインには安ワインなりのおいしさがある。

酒飲みは下戸に向かってよくこんなことを言う。
「酒を飲まなきゃ人生の半分を知らない」
「この旨い料理を酒なしで食うなどとは冒涜に等しい」と。
下戸は面白くないだろう。

ボクはそんな手垢のついた言辞を弄しようとは思わないし、
酒飲みの舌がとびきり上等なものだとも思っていない。
要は喉元三寸にある粘膜の快楽に淫するだけのことだからだ。

一方で、かの兼好法師は言っている。
男は容貌などより学問があって詩や音楽に通じているのが良いと。
そして、
《下戸ならぬこそ、男はよけれ》
とダメを押す。

下戸の胸中や察するに余りある。






2016年8月1日月曜日

おじさんの生きる道

定年退職後のおじさんは哀しい。
会社人間だったおじさんはとりわけ哀しい。

仕事がなくなると抜け殻みたいになり、家の中でも心安らぐ居場所がない。
時々、奥方の買い物につき合ったりするが、後ろからトボトボついていくだけで、
奥方は心の中で、(この役立たず!)と思っている。

おじさんは給料を運んでくるだけの役回りで、
その役から降りたら、とたんに存在価値がなくなってしまった。

それでも社交的な性格なら救われる。
近所の同好の士と交わって、趣味に生きたりして別の生き方を模索できるからだ。
非社交的で無趣味の人間はそれこそ孤立するしかない。

で、しかたがないから仏頂面を終日さらしている。
奥方は、「そのしんねりむっつりした顔、どうにかなんないの?」
などと不平を並べるが、おじさんには穏やかな温顔の用意がない。

おじさんは企業戦士などと称えられおだてられてきたが、
ビジネスの戦場からひとたび離れると、からっきし弱い戦士だった。
つぶしが利かないから、日常生活のどのシーンにも溶け込めず、
いたるところで齟齬をきたす。
おじさんはよくよく不器用にできている。

こんな哀しいおじさんたちばかり身近に見ていると、
つい手を差し伸べたくなる。

主夫歴30年のボクは、自信を持ってこう言いたい。
「おじさんなんか捨てちゃいなさい!」

名利だとか体裁ばかりにこだわって、自分の心を開けない社会不適応者のおじさんたち。
ボクは、そんなおじさんたちを哀れに思い、経験に則してこう言い切るのだ。
「おじさんなんか辞めて、おばさんになっちゃいなさい!」

ボクはいま、細胞の88%がおばさんで、「おばさん化」は時々刻々と進んでいる。
おばさんになると、気が楽だ。英国のEU離脱だとか、米国大統領選だとか、
イスラム国あるいは参院選について、頭を悩ませなくても済む。

近所のおばさんと会ったら、
「おたくの息子さん(お孫さん?)、東大に受かったんですってね」とか、
「最近、野菜が高くて困ってんの。農協の直売所は少しは安いかしら……」
などと、ごくごく卑近な話をしていればいい。
話はすべて〝形而下〟的なものばかり。〝形而上〟的な話をしたりしたら、
いっぺんで不審者扱いされてしまう。

世間を茶にしてのんきに暮らす。
そこの難しい顔したおじさん!
去勢しなくても〝おばさん〟にはなれますから、いっぺんやってみます?