毎日のように、小中高校生がいじめで自殺している。
ボクは「またかッ!」と舌打ちし、死んだ子の両親の嘆きや慟哭に思いを馳せる。
なんて親不孝な子なんだ、と思う。
一方、いじめられて自殺した子のことは、あまり心にとめない。
敵に背を向けるような心の弱い子はしょせん生命力の弱い子で、
困難に遭っても、真正面から立ち向かわず、「三十六計逃げるにしかず」
とばかりに、おそらく踵を返して逃げてしまうのではないか、とボクは思うのだ。
冷たいようだが、戦いを避け逃げてばかりいる人間は、ボクの趣味ではないのですよ。
いじめ事件が起きると、決まって加害者が悪い、学校が悪い、先生が悪い
という議論が巻き起こる。でも一番問題にすべきは本人でしょ。なぜ陰湿な
いじめに敢然と立ち向かわない。いや、戦わなくたっていい。いじめをうまく
かわして逃げる算段をつければいいのだから。どうやったら自殺という陰惨な
事態を避けられるのか――そのことをもっと真剣に議論しなくてはならない。
19世紀のイギリスにディズレーリという首相がいた。彼は名門イートン校に
通っていたが、何かというと上級生が彼をからかい、いじめた。ディズレーリは
校内で唯一のユダヤ人だったのだ。あるときいじめっ子の上級生たちが
すれ違いざまにディズレーリを侮辱し口笛を吹いてからかった。
するとディズレーリは、
「いま口笛を吹いたものは前に出たまえ!」と敢然と言い放った。
「生意気な奴め!」と殴りかかってきた上級生を、ディズレーリは軽やかな
〝ヒットアンドウェイ〟でかわし、時に強烈なパンチをお見舞いした。
小柄で非力ながら、みごとなアウトボクシングで上級生をのしてしまったのだ。
実は、執拗ないじめに晒されたとき、ディズレーリは「ボクシングを習わせて!」
と父親に頼んだという。個人レッスンで十分強くなった時、この出来事が起きた。
すべて計算ずくなのである。ボクにも同じような経験がある。長い間、
ボクをいじめていた男を、あるとき完璧にノックアウトしてしまったことがある。
雌伏八年ではないが、十二分にやり返す力をつけたうえで、計算ずくで相手を
やっつけたのである。やられっぱなしではなく、いつの日か借りは返してやる。
女の子に「殴り合いのすゝめ」というのは似合わないだろうが、無抵抗とか
逃げの一手というのではなく、「戦うことはよいことだ」と教え込むのも
また必要なのではないか。
今の世の中、平和至上主義が蔓延し、何かにつけ「暴力反対!」の風潮に
染まってしまっている。体罰は確かにいけないことだが、ボクたちの時代では、
先生たちは平気で生徒を殴っていた。また生徒同士の殴り合いも珍しくなかったが、
近頃は、面と向かってやり合うのではなくSNSなどでネチネチと悪口を言いふらす、
女の腐ったような(🚺の皆さま、ご寛恕のほどを)いじめが流行っている。
〝匿名性社会〟にあっては、自分を安全地帯に置き、言いたい放題の悪口雑言が
当たり前なのだ。卑怯という外ない。
学校なり社会が、
「いざとなったら命を賭してでも戦え!」
「戦うことは立派なことなんだ」
と親も教師も子供たちに教え込まなくてはいけない。
と同時に、いじめごときはハネ返すくらいの〝耐性〟も身につけさせる。
いじめというものは決してなくならない。
なぜなら、いじめは動物における一種の本能だからだ。
浦島太郎だって、子供たちにいじめられていた亀を助けたではないか。
子供は相手が弱いと見るとかさにかかっていじめようとする。
純粋無垢ではあるが、もともと残忍さを宿した動物なのである。
「暴力反対!」の間延びした平和主義はもうけっこう。
「いじめられたら10倍返し!」
「戦う人間は美しい」
といった教育標語を校内に掲げようではないか。
怯懦(きょうだ)は恥なのだ――ボクはこのことを声を大にして訴えたい。
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