2018年4月16日月曜日

「にょにんきんぜい」って何?

土俵上に女性を上げてはいけないという「女人禁制」についてかまびすしい。
日本相撲協会は土俵上のやむを得ない医療行為についてはしぶしぶ了解したが、
巡業先での〝ちびっこ相撲〟については、今後女児の参加は認めない、とする
通達を出した。以前は男の子も女の子もいっしょに土俵に上がって、相撲取りと
押しくらまんじゅうをしていたものだが、今後は一切認めないという。

女人がなぜ土俵に上がれないのか、というと土俵上は神聖な結界だからである。
相撲はもともと豊作を祈願する神事で、土俵には何柱かの神様がいるという。
そのうちの豊作を司る神様が女性で、その神様に屈強な男たちのぶつかり合い
を見せることでしばし楽しんでもらおう、というのが相撲の発祥とされている。
その土俵上に同性の女性があがっては神様の機嫌を損ねかねないし、
やきもちを焼くことがあるやもしれぬ。神様の不興を買えば豊作どころか
凶作すら招きかねない。土俵上が女人禁制になった理由の1つはこのことである。

その2は何か。
それは〝穢れ〟という問題だ。神道的な解釈では、神聖な場所で血を流すことは
穢(けが)れとされる。女性には生理や出産という尊い行為がある。だが、
土俵上は別。相撲取りが土俵上に塩をまくのは土俵上を〝purify(聖化する)〟
する所作であって、土俵の中央部にはいわゆる「三種の神器」も埋めてある。
その聖なる場所を血(女性)で穢してはならない、ということで女性が禁忌に
なったのである。

宮本常一氏の民俗学的な本(特に『忘れられた日本人』など)の中には、
生理期間中の女性が母屋から離れたヒマゴヤ(生理小屋、不浄小屋とも)
に入って寝起きし、煮炊きするかまども別だったとある。
いっしょに食卓を囲むと、家の火が穢れるというわけだ。

昭和初期の田舎には御幣(ごへい)担ぎが多く、月のさわりがやかましく
言われた。ヒマゴヤは1坪ほどしかなく、腰巻などは陽の当たるところには
干せなかった。それらすべてが血の不浄を忌んだ風習であった。
女性からしてみれば生理や出産を〝不浄〟とされるのは不本意この上ない
ことだっただろうが、現実にそんな悲しい時代があったのである。

とはいっても、室町時代には女相撲があって、比丘尼など尼僧が相撲を
取っていたというから面白い。江戸期にも女相撲はあったそうだから、
女人禁制が大昔からの伝統というのは当たらない。女人禁制が一般的に
なったのはせいぜい明治期以降である。

私事になるが、まだ新米の雑誌記者だったころ、先輩の女性記者と一緒に
有名な鰻屋を取材したことがある。東京神田にある「神田川」という老舗で、
そこの調理場には80代の料理長がいた。先輩のT女史が勇んで調理場に
入りかけたら、その料理長がすかさず待ったをかけた。
「ここは女人禁制だから、足を踏み入れないでくれ!」
T女史は口あんぐり。取材はボクが代わっておこなったが、
勝気なT先輩はその日ずっと落ち込んだままだった。

女人禁制なんて時代遅れ、男女平等を謳う21世紀の時代にふさわしくない、
とする正論がメディアを賑わせているが、慣習や因習、伝統といったものの
およそ8割は不合理なもので成り立っていて、「不合理ゆえに吾信ず」という
ところが確かにある。合理的にスパッと裁断を下せないのが辛いところなのである。

この女人禁制騒動、海外メディアは鬼の首でも取ったかのように、
「日本はやっぱり男尊女卑の国!」
などと、またもや上から目線で論評しているが、
「えらそうなことを抜かすな!」
とボクなんか思っている。いかにも進歩的そうなスイスにしたって、
つい最近まで女性の参政権がなかったではないか。他国の歴史や伝統に
無知なくせして、勝手な理屈をこねるんじゃない、とつい反撃したくなってしまう。

ボクは緊急の場合を除いては、女人禁制を続けるべし、という考えだ。
古臭いとお思いだろうが、保守派というものは元来そういうものである。
だからといって女性差別とは何の関係もないので念のため。

ああ、それにしても比丘尼相撲だけは観たかったな。友人に美人の尼僧が
いるから、こんど会ったら彼女と相撲を取ることにしよう。←勝手に決めるな!

←長崎市式見地区に伝わる「式見女角力」。
これは2015年の横綱「百合乃花」の土俵入り。







photo提供/西日本新聞

2 件のコメント:

  1. 嶋中労さま

    おはようございます。「にょにんきんぜい」が読めなかった田舎者です。
    時の流れとともに考え方や習慣が変わることはあると思います、ですが
    変わらないものもあるのではないでしょうか、人間は男と女で成り立っている
    ということが基本的にはあります。今では死語になったような言葉ですが
    「男らしく女らしく」といいう言葉がとても好きです。

    男にしかできないもの女にしかできないものを互いに認め合い称えることから
    男女平等が始まるのではないかと思っています。

    土俵と女性の問題ですが、これは相撲協会のだらしなさの表れがこのような形で
    表に出てきただけのことなのではないでしょうか、土俵に上がらせたくないので
    あれば、それなりの絶対的な力がそこに備わっていないから起きてしまったのでは
    ないかと思い考えています。

    何はともあれ、春ですね。


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  2. 田舎者様
    ボクも「男らしく女らしく」の考え方に賛成です。少し長くなりますが、イカは拙著『おやじの品格』からの引用です。
    《私は男女の性差を否定しないが、それは人格や能力の差ではなく機能の差だと思っている。その社会的機能差を否定して私も軍隊に入って共に戦いたい、などと言い出す上っ調子の女がいるから話がややこしくなる。女が隊長の部隊に、だれが好きこのんで命をあずけるものか。登山家の田部井淳子は大要こんなことを言っている。「男性と山に登ってつくづく感じるのは、男と女では体の構造がちがうということ。歩くスピードも岩に取りつくスピードもちがう。つまり膂力がちがう。それだけはどうやったってかなわない」と。人間は生死の境をさまようような体験をすると、正直な発言が出てくるものだ。男と女とでは骨格も筋力も興味関心もすべてがちがう。ちがうのは当たり前で、その「差」があるからこそ互いの魅力を感じ合える。男と女は何万年もの間、そうやって互いの不足を補いながら仲良くやってきた。男女の「差」を極力ゼロに近づけたいとする過激な男女平等論からは、つまらぬ軋轢と失望しか生まれない》。

    アメリカでは男女平等を含め、リベラル勢力が伸長し、魔女狩り的な息苦しい社会が生れつつあるという。女性も男みたいに土俵に上げてほしい、といったリベラルな考え方が暴走すると、伝統を軸にした国柄というものがどんどん壊されていってしまう。日本のリベラルはイコール〝左翼〟ですからね。リベラルという言葉にくれぐれもだまされないように。

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