2018年7月12日木曜日

天下にバカを公言する「ら抜き」言葉

テレビの〝バラエティ〟と称するバカ番組をたまたま目にすると、
出演者のほとんどが「出れる」「見れる」「食べれる」などと、
いわゆる「ら抜き」言葉を使っている。ひどいのになると、女子アナまで
いっしょになって「出れない・見れない」などとやっている。
ボクはこうした薄汚い言葉を耳にすると、自動的に心悸が高ぶり凶暴性が
増すので、これまた自動的にチャンネルを変えることにしている。

衆寡敵せずというが、いまや「ら抜き」言葉に抵抗しているのは、
日本国じゅうでわが家だけではないのか、と錯覚を起こすほど、
「ら入れ」派の形勢は風前のともしびとなっている。
言葉の感染力はペスト以上に圧倒的なものなので、近く「ら入れ」派は壊滅し、
「出れる・出れない」などと無教養な言葉を操る日本人ばかりが国じゅうに
溢れかえることであろう。
末世というほかない。

ボクは6年前に文藝春秋社刊行の『日本の論点』という浩瀚な本に、
最近の日本語についての考察を書かせてもらった。ごく一部だが抜粋してみる。
《「ら抜き」に次いで猛威をふるっているのが「さ入れ」言葉だ。
「読ませていただきます」が「読ま〝さ〟せていただきます」、
「行かせていただきます」が「行か〝さ〟せていただきます」
といった具合だ。
 鳩山由紀夫元首相のスピーチは「させていただく」のオンパレードだった。
伝染力が強いのか、政治家は「お訴えをさせていただきたい」とか
「汗を流させていただきたい」という言い方を好んで使う。
 東国原英夫前宮崎県知事などは、あるとき自らの談合問題にふれ、
「私も、かつて不祥事を起こさせていただきましたが……」と口走ってしまい、
あわてて言い直す始末だった……中略……「さ入れ」言葉は、一律に
「動詞+させていただく」式に変換していくため、自動詞を謙譲語化するたびに
「させていただく」が飛び出してくる。
 「させていただく」という表現を〝下品〟と評するリンボウ先生こと林望氏は、
「これを多用する世界の人たち、すなわち芸能人、学者、政治家というのは、
内実傲慢で外側だけ謙遜という共通した属性を持つのが一般的」
と冷たく切り捨てている》

文芸評論家の福田恆存は「ら抜き」言葉についてこんなふうに言っていた。
まず《音がきたない》と。「見れる」より「見られる」のほうがきれいに
響くのは後者のほうがmiとreの間にraが入るから、としている。

母音だけひろうと前者はi・eとなり、後者はi・a・eとなる。aは最大の広母音
で、iは最小の短母音である。広母音は広大、寛濶(かんかつ)の感を与え、
短母音は急激、尖鋭の感を与える。つまり広母音のほうがゆったりと大らかな
響きを与え、「ら抜き」の短母音はせわし気で尖がった響きを与えるというのだ。

それともう一つ。福田氏は《「見られる」のほうが歴史が長い
と言っている。換言すれば、過去の慣習に負っているということだろう。
明治以来、殊に戦後は「過去」とか「慣習」とかいう言葉は
権威を失ったが、少なくとも言葉に関する限り、これを基準としなければ
他に何も拠り所がなくなってしまい、通じさえすればよろしいということに
なってしまう

箸の持ち方が悪くても、食べられさえすればいいじゃん、とする
「結果オーライ主義」。戦後はまさにこの〝結果オーライ〟の天下だが、
「ら抜き」「さ入れ」もおそらくその延長線上にあるのだろう。

言葉も立派な日本人の歴史であり、民族の共通の記憶である。
美しい日本語を後世に伝えるためにも、通じさえすればいいとする
「ら抜き」や「さ入れ」言葉を徹底して排除しなくてはならない。

多勢に無勢、ということはむろん承知している。
しかし嶋中家の血を継ぐ者たちは、少なくとも「ら抜き」「さ入れ」言葉には
徹底抗戦する覚悟だ。この点については、女房もめずらしく賛同してくれている。
徒労感にむしばまれること必至だろうが、最後の一人になるまでがんばるつもりだ。


←この本で、ボクは「日本語」と「環境問題」
というテーマを担当した。

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