2019年6月16日日曜日

ミディアム・レアにしておくれ

山本夏彦以上の辛口コラムニストが高山正之だ。
ボクはこの高山の本をほとんど全部読んでいる。
辛口が過ぎて、読んだあと軽いめまいが起こるのが玉にキズだが、
テレビに出たがり屋の三流評論家などでは相手にならないくらいの論客だ。

さてその高山が、かつて産経新聞ロサンゼルス支局長として
アメリカに赴任していた時、Social Security Number(略称SSN)
というものを申請した。日本でいうなら社会保障番号みたいなものだろうか。

アメリカには日本のような戸籍制度がないので、日本のマイナンバーみたいな
ID番号が必要になる。それがSSNで、個人の証明だけでなく銀行口座の開設や
運転免許の取得などにも提出を求められるから、外国人就労者は必ず申請
しなくてはならない。

さてそのSSNには個人を識別するための項目欄があって、そこには「目の色」や
「髪の色」「肌の色」といった記入欄がある。これらを自己申告だが埋めなくて
はならない。外国の小説を読むと、登場人物の髪や目の色などが必ず書き込まれている。
日本人はみな同じだから、いちいち髪や目の色を書く必要はないから、最初、
違和感を感じたものだが、たしかに欧米では肌や髪の色はさまざま。個人を識別
するためには目の色や髪の色は申告しておくべきなのだろう。

で、高山は、
「おれの眼の色が黒いうちは……」とか「緑の黒髪」なんて言葉があるから、
たぶん黒で大丈夫だろうと書き込んではみたが、「肌の色」の欄でハタと
考え込んでしまった。
(いったい何色って書けばいいんだろう?)

支局の前任者に聞いたところ、「イエローって書いとけば」ときたもんだ。
(いくら黄色人種といったって、肌の色がまっ黄色なわけではないでしょ)
戦後、日本に進駐した米軍の将校が、
「日本女性は白人女性より色が白い、と驚いた」
とするエピソードを評論家の日下公人が紹介していたくらいだから、
イエローと書くのはどうしたってはばかられる。

思い余って高山が「何て書けばいいの?」と国務省の役人に訊いたところ、
「ミディアムって書きなさい」
と言われたとか。

白人たちはCaucasian(コケージアン)と書き、
黒人はBrownとかDarkと書くらしい。
で、日本人はMedium。なんだかステーキの焼き具合みたいだ。

高山は少しおふざけ気味に、
「少し色白の日本人はmedium-rare(ミディアム・レア)って書くのかしら?」
と窓口の役人に重ねて尋ねたところ、冗談が通じなかったみたいで
やっこさん、キョトンとしていたという。この話、けっこう笑える。

ああ、それにしても黄色人種はミディアムかよ。
俺たちゃビフテキじゃねえぞ!


2019年6月12日水曜日

オジサンがオバサンになる時

市の総合体育館へ初めて行ってみた。
65歳以上は筋トレやストレッチ体操などの施設利用と講習が無料なのだ。
で、すでに利用している友人の案内でちょっとだけのぞいてみた。

筋トレルームにはさまざまな器具が並んでいた。
腕力を鍛える器具、足腰を鍛える器具、胸筋を鍛える器具……。
見れば知り合いのおばちゃんたちがいっぱいいる。
同じ団地のおばちゃんたちだ。

ボクはout-goingな性格もあって、知り合いが殊の外多い。
なにしろ近所のスーパーに行くまで(約100㍍)に、
何度も立ち止まらなくてはいけない。
10㍍進むごとに知り合いと会ってひとしきり立ち話をするから、
なかなかスーパーにたどり着けないのだ。

ボクの中ではすでに「オバサン化」が始まっていて、
いまや細胞の80%くらいがオバサン細胞になっている。

立ち話の相手は9割方オバサンだ。
そもそもオジサンは立ち話を好まないし、サマにならない。
それにどこかバカにしているところがある。
「ラチもない話をしやがって……」
自分たちは女どもと違って、もっと高尚な話ができるんだぞ。
おまえたちに天下国家が論じられるか?
などと、オジサンたちは自分たちを高みに置いてオバサンたちを小バカにしている。

ボクは長年オジサンをやってきたが、近頃オジサンに愛想をつかしている。
オバサンのほうが結局偉いんじゃないか、立派なんじゃないか、と思っている。
逆に偉そうにしているオジサンたちがバカに見えてきた。

オジサンたちの顔はいつも外に向かって閉じている。
イギリス人は人を介して紹介されない限り一言も発しないそうだが、
まさにそんな顔をしている。口を真一文字に結び、「おまえは何者だ!」と
誰何(すいか)するような顔つきで、正直言って怖い。

その点、オバサンの顔は外に向かっていつも開いている。
娘時代は閉じていても、オバサンになるにつれて開くようになる
(逆ならいいんだけど……←コラッ! 何考えてんだ!)。
こっちが声をかけると「あっらーっ、お久しぶり」などと言って笑いかけてくれる。
オジサンはそうはいかない。たとえ知り合いであっても、
最初はちょっと身構えるようなところがある。
オバサンより警戒心が強い分、顔の筋肉がほぐれるまで時間がかかるのだ。

筋トレルームにいた常連らしいオジサンは、新参者のボクの顔をジロジロ見ていた。
この「人の顔をジロジロ見つめる」という行為もオジサンたちの得意技の一つで、
あんまり気持ちのよいものではない。西洋ではill-mannered(無作法な)の
典型とされ、概ね「無教養な人間のするはしたない行為」とされている。
ところがオジサンにはどこ吹く風、自分こそ世界の中心、と思っているから、
こうした無礼千万なマネだって平気でやる。

オジサンたちは体面が傷つけられるのを極度にいやがる。
だからいつも仏頂面を下げ、「この線から入るな!」とばかりに、
周囲に視えないバリアーをめぐらせている。

オバサンにはこの人を排するようなバリアーがない。
ときどき(私はあなたたち庶民とはお育ちがちがうのよ)といった
〝気取り屋さん〟を見かけることがあるが、あくまで少数派で、
ふつうのオバサンたちは最初から警戒心を解いている。
「みんないらっしゃ~い!」というopen-minded(広やかな心)な精神なのだ。

こんなオバサンたちと、ボクはおしゃべりに興ずる。
「イギリスのEU離脱問題」とか「慰安婦&徴用工問題」といったシリアスな
話題はまず出ることはないが、子供や孫たちの話題だけでも優に10分~20分は
費やしてしまう。下世話な話題だが、じゃあ低俗かというと、そんなことはない。
オジサンたちが論じたがる高尚な話柄も、形を変えた〝自己承認欲求〟みたいなもので、
ほんとうのところ、かなり怪しいものなのだ。

オバサンたちはボクがオバサン細胞の持ち主だと、第六感で感じとるのか、
すぐに胸襟を開いてくれる。なかには「襲ったりしないでよ」と念を押しながら
お茶に招待してくれるオバサンもいる。襲うもなにも80代のオバサンを襲う元気は
もうない。

オジサンに足りないのは屈託のない笑いだ。
腹の底から笑えないのがオジサンの限界か。
いつだって見てくれを気にしていて、自分を相手より高みに置きたがる。

そんな堅っ苦しい裃なんか脱いでしまえ。学歴だの職歴だの、
昔の輝かしい栄光なんかみんな捨ててしまえ。
目の前にいるのは、ただのショボくれたおっさんではないか。
なにカッコつけてんだよォ、このボケ!

ボクはもうじき100%オバサンになる。
もともとオッパイも大きい(胸囲115㎝)からちょうどいいだろう。
口ヒゲのあるオバサンというのも、またご愛敬か。





←こんな本もある。
やっぱ俺は病気だったのか





2019年4月16日火曜日

戦う精神に栄光あれ!

毎日のように、小中高校生がいじめで自殺している。
ボクは「またかッ!」と舌打ちし、死んだ子の両親の嘆きや慟哭に思いを馳せる。
なんて親不孝な子なんだ、と思う。

一方、いじめられて自殺した子のことは、あまり心にとめない。
敵に背を向けるような心の弱い子はしょせん生命力の弱い子で、
困難に遭っても、真正面から立ち向かわず、「三十六計逃げるにしかず」
とばかりに、おそらく踵を返して逃げてしまうのではないか、とボクは思うのだ。
冷たいようだが、戦いを避け逃げてばかりいる人間は、ボクの趣味ではないのですよ。

いじめ事件が起きると、決まって加害者が悪い、学校が悪い、先生が悪い
という議論が巻き起こる。でも一番問題にすべきは本人でしょ。なぜ陰湿な
いじめに敢然と立ち向かわない。いや、戦わなくたっていい。いじめをうまく
かわして逃げる算段をつければいいのだから。どうやったら自殺という陰惨な
事態を避けられるのか――そのことをもっと真剣に議論しなくてはならない。

19世紀のイギリスにディズレーリという首相がいた。彼は名門イートン校に
通っていたが、何かというと上級生が彼をからかい、いじめた。ディズレーリは
校内で唯一のユダヤ人だったのだ。あるときいじめっ子の上級生たちが
すれ違いざまにディズレーリを侮辱し口笛を吹いてからかった。
するとディズレーリは、
「いま口笛を吹いたものは前に出たまえ!」と敢然と言い放った。
「生意気な奴め!」と殴りかかってきた上級生を、ディズレーリは軽やかな
〝ヒットアンドウェイ〟でかわし、時に強烈なパンチをお見舞いした。
小柄で非力ながら、みごとなアウトボクシングで上級生をのしてしまったのだ。

実は、執拗ないじめに晒されたとき、ディズレーリは「ボクシングを習わせて!」
と父親に頼んだという。個人レッスンで十分強くなった時、この出来事が起きた。
すべて計算ずくなのである。ボクにも同じような経験がある。長い間、
ボクをいじめていた男を、あるとき完璧にノックアウトしてしまったことがある。
雌伏八年ではないが、十二分にやり返す力をつけたうえで、計算ずくで相手を
やっつけたのである。やられっぱなしではなく、いつの日か借りは返してやる。
女の子に「殴り合いのすゝめ」というのは似合わないだろうが、無抵抗とか
逃げの一手というのではなく、「戦うことはよいことだ」と教え込むのも
また必要なのではないか。

今の世の中、平和至上主義が蔓延し、何かにつけ「暴力反対!」の風潮に
染まってしまっている。体罰は確かにいけないことだが、ボクたちの時代では、
先生たちは平気で生徒を殴っていた。また生徒同士の殴り合いも珍しくなかったが、
近頃は、面と向かってやり合うのではなくSNSなどでネチネチと悪口を言いふらす、
女の腐ったような(🚺の皆さま、ご寛恕のほどを)いじめが流行っている。
〝匿名性社会〟にあっては、自分を安全地帯に置き、言いたい放題の悪口雑言が
当たり前なのだ。卑怯という外ない。

学校なり社会が、
「いざとなったら命を賭してでも戦え!」
「戦うことは立派なことなんだ」
と親も教師も子供たちに教え込まなくてはいけない。
と同時に、いじめごときはハネ返すくらいの〝耐性〟も身につけさせる。

いじめというものは決してなくならない。
なぜなら、いじめは動物における一種の本能だからだ。
浦島太郎だって、子供たちにいじめられていた亀を助けたではないか。
子供は相手が弱いと見るとかさにかかっていじめようとする。
純粋無垢ではあるが、もともと残忍さを宿した動物なのである。

「暴力反対!」の間延びした平和主義はもうけっこう。
「いじめられたら10倍返し!」
「戦う人間は美しい」
といった教育標語を校内に掲げようではないか。
怯懦(きょうだ)は恥なのだ――ボクはこのことを声を大にして訴えたい。













2019年4月9日火曜日

あなたは本を読んでますか?

旧制高校生の必読書は阿部次郎の『三太郎の日記』、倉田百三『愛と認識との出発』、
西田幾多郎『善の研究』だったそうです。ボクもbookishな人間としては人後に
落ちないので、極めて難解ではありましたが、高校時代にやっとこさっとこ
読破することができました。

数学者・藤原正彦の『国家と教養』の中に、こんなフレーズがあります。
《本を読まない人間は井の中の蛙と同じになります。この蛙にとって、
世界は井戸の底と上に見える小さな丸い空だけです》

またこんなエピソードも添えてありました。
《ある人から聞いた話ですが、日米戦争で零戦を操縦し、
数十機の米軍機を撃墜した帝国海軍の名パイロット坂井三郎は、
電車内で次のような若者の会話を耳にしたそうです。
「おい、お前、日本がアメリカと戦争したこと知ってるか」「えっ、ウッソー」
「マジだよ」「マジか。それでどっちが勝ったんだ」
坂井氏は、自分達が命をかけて戦った戦争とは一体何だったのか、
と考え込んでしまったそうです》

この話は以前から知っていました。『大空のサムライ』で知られる坂井三郎は
200回以上の空戦で、64機の米軍機を撃ち落としました。この本も高校時代に
読んでいますが、まさかその坂井がこのエピソードの発信元だとは知りませんでした。
「マジ」とか「ウッソー」なんていう若者言葉は坂井の存命中にはなかった
でしょうから、たぶん藤原の創作で、リップサービスではありましょうが、
いろいろな本にこのエピソードが登場してくるのは確かで、実際、
電車内にしろ学校の教室にしろ、この種の間の抜けた会話があったことは
事実なのでしょう。

book-worm(本の虫)になると、少なくとも物知りにはなります。
物知りになれば会話の幅が広がり、お相手によっては物事の本質に迫るような
エキサイティングな議論も可能です。

一昨年、わが家にホームステイしたフランス人のルカ(高校生)は、
茶目っ気たっぷりのいたずら坊主で、おまけに女好きでもありましたが、
大変な読書家でもありました。
「お父さん、ヒトラーの『我が闘争』読んだことある?」
 なんて、さらりと訊いてきます。
「ああ、もちろんあるよ。ルカと同じ高校生の時に読んだ」
フランス人からすれば憎っくき敵のアドルフ・ヒトラー。
しかし「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」という孫子の兵法を、
ルカが自ら実践しているところが立派だ、とボクは感心したものです。

近頃の大学生は月に1冊も本を読まないものが約50%もいる、とのことです。
「本を読まない学生」という言葉自体、すでに矛盾しているのですが、
現実に書物に無縁な大学生が2人に1人いる、というのだから驚きです。

本なんて読まなくたって生きてゆけます。
情報だけを取るのならスマホやケータイなどSNSの世界で十分間に合います。
しかし〝教養〟となると話は別。ローマ時代の昔、
学者であり政治家であったキケロは、
《本のない部屋は魂のない肉体のようなものだ》
 と言っています。また藤原の父親である作家の新田次郎は、
《一日に一頁も本を読まない人間はケダモノと同じだ》
 とまで言っています。つまり日本の大学はどこもみなケダモノだらけで、
「〇△大学」と名乗るより「〇△動物園」と看板を掛け替えるべきなのです。

民主主義というシステムは最高のシステムではありません。
衆愚政治になる危険性を常に孕んでいるからです。
実際、歴史を振り返ってみれば、民主主義といわれた国で
衆愚政治に陥らなかった国は皆無なのです。
藤原は、
《民主主義とは、世界の宿痾(しゅくあ)ともいうべき国民の未熟を考えると、
最低の政治システムなのです》
 と切り捨てています。かつて英国のチャーチルが奇しくも言ったように、
民主主義は《独裁制や共産制よりは少しだけまし》
 といったレベルで、衆愚政治に陥らないためには政治家も国民も、
成熟した教養人にならなくてはいけないのです。
そんなこと、可能でしょうか?

案の定、今どきの日本人は「教養」といったものに最も遠いところにあります。
坂井三郎が呆れ果てたような無残な光景が、至るところで繰り広げられているのです。
教養はつぶさに顔に出ます。実にふしぎなことですが、これは確かなことです。
ボクの敬愛する文芸評論家の福田恆存も、
《人相と人柄――この二つのものは別物であるどころか、
実は心憎いほど一致しております。人相を見れば、
その人柄はだいたい分かります。そういうものなのです》
 と断じています。心すべき言葉だと、改めて思います。


←藤原正彦のベストセラー本に
便乗して、ちゃっかり宣伝して
しまう我が小人根性。売れないわけです。

2019年4月6日土曜日

昔むかし、年寄りは家の宝だった

長寿を寿(ことほ)ぐことが良いことなのかどうか、わからなくなってきた。
昔は三代、四代が同居する大家族制がふつうで、『家に年寄り、屋敷に大木』
という諺があるくらい、年寄りは一目置かれ大事にされてきた。長い年月にわたって
積み重ねてきた経験には何ひとつムダなものはない、という暗黙の了解が
社会の常識になっていたからである。

年寄りに敬意を払った諺は他にもある。
『年寄りは家の宝』
『年寄りの唾は糊(のり)になる』
なんていうのもある。なんだか汚らしい諺だが、たしかに粘り気はありそうだ。また、
『年寄りの言うことと牛の〝しりがい〟は外れない』
というのもある。しりがいとは牛の尻にかけて牛車を固定する道具のことである。
どれもみな「褒めすぎじゃないの?」の感が無きにしも非ずだが、
インターネットなど存在しない時代に農林水産業などの現場では、
経験を積んだ長老たちの意見は珍重されたのである。

ところがどうだ。今の時代はどう考えても年寄りにアゲンストの風が吹いている。
ブレーキとアクセルを踏み間違え事故を起こす年寄りたち。認知症であてどなく
徘徊する年寄りたち。子や孫たちに介護の世話を焼かせる年寄りたち。
高額な医療費で国の財政を圧迫する年寄りたち……挙げだしたらキリがない。
年寄りは家の宝どころか国のお荷物になりかけているのである。

また、年寄りを狙ったサギ事件も相変わらず後を絶たない。
東京の町田市では、高齢者を狙った特殊サギ事件が、過去3ヵ月の間に25件。
被害総額は4700万円だという。この額に驚いてはいられない。2017年
の1年間で、世田谷区では高齢者をカモにした特殊サギ事件が216件発生、
被害総額はなんと5億4700万円におよぶという。23区内ではワースト1だ。
お金持ちの多そうな世田谷区はサギ師たちにとっても〝宝の山〟なのだろう。

特殊サギはいわゆる〝おれおれ詐欺〟の変形バージョンが次々と生み出され、
今は医療費などの返還を装った「還付金サギ」が大流行なのだという。
世田谷区の被害のおよそ40%がこの手口だ。そもそも濡れ手で粟の特殊サギだ、
頭のボケた老人たちが相手なのだから、赤子の手をひねるようなものだろう。
サギ師たちだってバカではない。悪知恵の限りを尽くして犯行に及んでいる。
特殊サギはバカではできないIntellectual crime(知的犯罪)なのである。

こうした事件が相次ぐと、年寄りへの敬意は失われ、次第に厄介者扱い
されるようになる。あれほど〝家の宝〟などと敬愛されていたのに、
『年寄れば犬も侮る』の諺よろしく、ペットにもバカにされるようになった。
そして、
『年寄りと釘頭は引っこむがよし』
『年寄りと仏壇は置き所がない』
などという俚諺(りげん)が至極当たり前のように口の端(は)にのぼってくる。
長寿はめでたいどころか、迷惑千万なものになりかけていて、
高齢者たちは寄るとさわると「ネンコロはいや、ピンコロで死にたい」
などと嘆くのである。

「おれだよ、おれおれ……」
と長男を装った男から電話があると、(わたしは絶対引っかからないわ)
といくら自分に言い聞かせていたとしても、
「会社の金を使い込んでしまった。助けて!」
と切羽つまった声で言われると、『子ゆえの闇』か、たちまち理性が失われ、
男の言いなりになってしまう。あれほどテレビや新聞で特殊詐欺事件が
報道されているのに、年寄りたちは教訓から少しも学ばず、
いっこうに被害は減らない。
(年は取りたくないもんだ)
世間は改めてそう思い、本人も意気消沈する。

ボクも年寄りの片割れだから、若い連中に侮られるのは願い下げだが、
いつかは犬にも侮られるようになるのかもしれない。だからボクは
老残の身をさらすよりは潔い「安楽死」の途を選びたいのだ。いきなり
安楽死とは穏やかではないが、バカにされ厄介者扱いされ、おまけに老衰で
身体の自由が利かなくなったら、四の五の言わず死んだほうがましだ。
武士道とは死ぬことと見つけたり、なのである。
しかし日本国は無粋にも安楽死の権利を認めていない。実に残念なことである。

一方、オランダやベルギー、スイスなどは安楽死を認めている国で、
'16年の統計では、オランダで亡くなった人の約4%(6091人)が
合法的な安楽死だったという。ただしオランダでは外国人の安楽死を認めていない。
認めているのはスイスで、外国人であってもお代を払えば死なせてくれる。
そのお代は約200万円。幸いなことに女房の姪っ子夫妻がスイスに住んでいるので、
いざとなったらお願いしてみることにする。

ただ問題は、どうやってスイスまで行くかだ。
ボクはかつて仕事で何度も欧州へ足を運んだものだが、いまはそれができない。
突然、「閉所恐怖症」という厄介な病気を患ってしまったのだ。
閉ざされた空間で、それも空の上ときたら一大パニックを起こし、
悶絶してしまう(気絶しているうちに到着するだろうから、かえっていいかもw)。

ああ、犬畜生にもバカにされるようになったら、
いったいどうやって誇り高く生きていったらいいのか。
よい知恵があったら、誰か教えてくれませんか?






2019年3月18日月曜日

好きなもの・きらいなもの

齢のせいかだんだんワガママになってきた。また物事に対する好き嫌いも
ハッキリしてきた。以下、好きなものと嫌いなものを列挙してみる。
◆好きなもの
①小学校低学年くらいまでの子供たち
(近所の保育園児たちが手をつないで散歩している姿を見ていると、ほんとうに
可愛いな、と思う。こんな天使みたいな子供たちに手を挙げる親がいるなんて……)
②姿勢正しく、すがすがしい青年たち
(現代日本からはみごとに払底してしまっている青年たちなので
懐旧の念からあえて挙げてみた。いま巷間を跋扈(ばっこ)しているのは、
悲しいけれど自由と放埓(ほうらつ)をはき違えた異形の若者たちばかりだ)
③本好きの若者
(かつて〝週刊誌の鬼〟と呼ばれた評論家の扇谷正造はこう言った。
「若い者は1日4回めしを食え。3回は米のめしで、もう1回は活字のめしだ」と。
大学生協の調べでは月に1冊も本を読まない学生は50%を超えたという。
〝本を読まない学生〟って、かなりブラックなjokeだよね。いったい何しに
大学へ行ってるんだよ!)

◆きらいなもの
①スマホに首っぴきで寧日(ねいじつ)もない人たち
(歩きながら、あるいは自転車や自動車に乗りながらの〝ながらスマホ〟族。
ボクが心から軽蔑する人間どもだ)
②〝メイク男子〟と呼ばれる軟弱男たち
(薄く化粧をする若者が増えているという。平安期に流行ったことがあるが、
女性が強い時代にしばしば出現するという)
③おばさんたちの空疎なおしゃべり
(女の話には花は咲くが実はならぬ、と言うそうな……これって女性差別かしら?)
➃幼児化・空洞化しているテレビの笑い
(いまさら言っても詮方(せんかた)ないが、「バラエティ」という名のバカ番組が
どれほど日本人の知性と品性を貶めているか……)
⑤インテリと便所のなめくじ
(これは「フーテンの寅さん」がきらいなものなのだが、あっしもきらいでござんす)
➅鳩左ブレ
(ルーピー鳩山の尊称を奉られた鳩山由紀夫元首相が、左寄りの政治姿勢で
ブレまくったことから、こう呼ばれた。ボクは昔から鳩サブレーが大きらいだった)
⑦理屈っぽく観念的な理想論ばかり説くリベラル(を詐称する左翼)なおじさん
(理想主義を頭から否定しようとは思わないが、
彼らの言説にはリアリズムに依拠したfactがないんだよな。
空理空論につき合うほどヒマではないのよ)
➇なんでも「話し合い」で解決しようとするお人好しの人たち
(民主主義というのはもっと乾いた冷徹な政治思想で、「話し合えば分かり合える」
といった温情主義的な世界とはちがうのよね)
⑨「背中を押してもらう」
「元気をもらう」
「感動をありがとう」
「敗けたけど、次につながる敗け方だった」などといった常套句
(なんか主体性がなく受け身的で、凛とした潔さもない未練たらたらの言葉ばかり)
⑩「ら抜き」言葉と、それをふつうにしゃべる人たち
(耳ざわり、と感じないくらい言葉に鈍感な人たちだから)
⑪自慢ばなし
(亭主自慢にこども自慢、孫自慢、学歴自慢……決してみっともいいもんじゃないぞ)

好きなものに比べ、きらいなものの何と多いことか。
自分でも呆れるほどきらいなものが多いのだが、
「人間」というものは基本的に好きである。
良いところも嫌なところも併せ持っているのが人間の性(さが)。
それらをひっくるめて丸ごと愛そう、と心に決めている。
だんだん仏様のようになってきた気がする(笑)。もう長くはない?


←スマホの中に君の未来は見えるかい?

2019年3月9日土曜日

いじめは決してなくならない

こどもは純真無垢、なんてよく言うが、
同時にひどく残忍な面も持っている。
おとなしい鳩は平和の象徴などというけれど、
ひとたび〝いじめ〟が始まると、徹底して相手の首をつつき、
瀕死の状態になるまで攻撃をやめないという。
平和の象徴どころか、悪鬼の一面も持っているのである。

〝いじめ〟や〝いじり〟によって命を絶つこどもが相変わらず
新聞紙上を賑わせている。今のいじめは陰湿さが増していて、
ネット上で悪口を言いふらし拡散させる。先日もそのことを苦にして
鉄道自殺した女子中学生がいた。ご両親の悲嘆はいかばかりか。

何度も書いているが、ボクは二人の娘たちに「人と群れるな!」
と絶えず言ってきた。何がきらいといって、主体性を見失い付和雷同的に
群れをなして行動することほどきらいなものはない。その極端な行動が、
みんなで寄ってたかって一人の子をいじめるという卑怯な行動につながってゆく。

人と群れるな、というのは「友だちなんか要らない、孤高を守れ」
ということではもちろんない。事実、社交的な娘たちには友だちがいっぱいいる。
が、いざとなったら友との訣別を恐れず、正しいと思ったことを敢然と行え、
という意味である。「いや」だと思ったら、いくら仲のいい友であっても
決然と「No!」と言う。安易に同調せず、自分の意見をハッキリ言う。
もしもいじめられている子がいたら、その子に寄り添ってやる。
いじめられている子にとって、そうした行為がどれだけ励ましになるか。
そのことによって一つのかけがえのない命が救われるかもしれないのだ。

いじめによる自殺が公になると、例によって学校や教育委員会は
大慌てで「第三者委員会」を設置し、公平な調査をやってますよ、
とばかりにその場を取り繕うことに必死になる。
ここ数年、「第三者委員会」というのがやたら流行っているが、
これさえ設置すれば事足りる、という考え方はどこかおかしいんじゃないか。
だいいち何なのよ、あの「第三者委員会」って? 
そんなに便利かつ万能なものなのか?

ボクが教師なら、毎日のように教室でこう弁じたてるだろう。
「いいかみんな、人間の行動の中で最も薄汚いのは、数をたのんで
一人の人間をいじめることだ。こういう連中を卑怯者という。昔はな、
卑怯者と呼ばれたら武士なら刀を抜いて〝決闘しろ!〟と叫んだものだ。
男が卑怯者呼ばわりされたら全人格を否定されたのと同じで、
生きてゆけないくらい恥ずかしいことだったんだ。
ところがどうだ、今の世の中は卑怯者だらけだ。君たちの中にこんな恥ずかしい
マネをする人間はいないと思うが、もしいたら先生が黙っちゃいない。
いいかみんな、ケンカというのは一対一でやるもんだ。数をたのんだり、
ネット上でコソコソ悪口を言うような人間はサイテーの人間だ。
そういう卑怯な輩には先生が相手になってやるからそのつもりでいろ!」

このくらい威勢のいい啖呵が切れるような教師がいたら、
いじめも相当数少なくなると思うのだが、
今どきの教師にそんな根性のある人間はいそうにない。

ネット社会というのは〝匿名社会〟でもある。
匿名だから悪口だって遠慮がなくなり、罪の意識も希薄だ。
いじめの対象が自殺したとしても、「あれっ? ちょっとやり過ぎちゃったかな」
てなもので、数日後にはすっかり忘れてしまう。
悪口言ったのは自分一人じゃないから、罪悪感も分散され、
生涯悔み通す、なんてことには金輪際ならない。
人間の「死」が単なる記号みたいで、やけに軽いのだ。

いじめは決してなくならない。
動物の世界にあるものが、人間の世界だけにはない、なんてことは絶対にない。
いじめは悲しいけれど本能に近いもので、この世に差別がなくならないように、
いじめも決してなくなることはないのだ。

ならばどうする?
『憂きことのなほこの上に積もれかし 限りある身の力ためさん』(熊沢蕃山)
『願わくば、われに七難八苦を与えたまえ』(山中鹿之介)
こうした名言があるように、艱難辛苦に立ち向かうような強い精神を
コツコツ養うしかないだろう。初等教育の場で「怯懦は恥なのだ」と徹底して
教え込めば「千万人と雖も我往かん」とする強靭な精神が育つのではないか。

あとは卑怯を憎む精神を子供たちに徹底的に植えつけることだ。
いじめは遠巻きにして傍観しているものたちも加害者と知るべし。
自分だけは責任を免れている、と信じている最も悪質な加害者といえる。
わが身の安全のみを願って「正義」とか「勇気」といった徳目に
無関心な近頃の親たちにも責任の一端があるかもしれない。
いじめられる側よりいじめる側にいたほうが安全よ、と子に教える母親がある
と聞いたときは、ほんとうにビックリした。世も末だと思った。

昔の薩摩藩や会津藩には『郷中(ごじゅう)』や『什(じゅう)の掟』
といった子弟への独自の教育法があった。

「弱い者をいじめるな」
「ウソをつくな」
「負けるな」
「怯懦(臆病なこと)は恥だ」
「卑怯なマネをするな」
といったことどもを徹底して教え込むのだ。。

毎朝、教室でこれら千金の掟を大きな声で唱和させたらどうか。
それだけでもずいぶん状況が変わってくるのではないか。
それでも頭の固い文科省の役人やおバカな日教組の連中には、
おそらくピンとこないだろう。
へたをすると「修身や皇民化教育を復活させるつもりか!」などと
トンチンカンな反論をしかねない。左翼のバカは死ぬまでバカ。
いつだって口だけの彼らには、世の中を変える力など所詮ありはしないのだ。

「友だちなんか要らない。あたしゃ一人が一番いい」
小中高と一人も友だちのいなかったボクは、その分、読書の世界にのめり込み、
「読書尚友」(書物を通して古人を友とし語り合うこと)の喜びを知った。
わずか数年間、机を共にするだけの友なんて、真の友でも何でもない。
友だちなんて、長ずればいつだってできるものなのだから、
焦って作る必要などまったくないのだ、とボクは声を大にして言いたい。

「いじめられたら10倍にして返してやれ!」
「相手がグウの音も出ないくらいやっつけてやれ!」
ケンカ馴れしているボクなら、「やられたらやり返せ!」と教えてやる。
ついでに筋トレで身体を鍛え、どこを殴れば効果的か、ケンカ殺法も教示してやる。

「コワモテの金八先生を気取ってるの?」
フフン、なんとでも言ってくれ。
確信をもって言わせてもらうが、ボクならすばらしい教師になれると思う。
こどもたちに慕われ頼られるすばらしい教師に……。
ああ、どこかの学校で臨時に雇ってくれないかしら(笑)。
これだけラブコールを送っているのに、お声がかからないのは、
やたら人を殴りたがる凶暴なじいさんはお呼びでないってこと?