2016年8月3日水曜日

厚顔無恥も捨てがたし

夏祭りのステージで歌ったのは全部で9曲(うち2曲は〝音姫さま〟オンリー)。
ほんのお耳汚しに、と謙遜しつつも、45分間も歌い続ける厚顔無恥。
ああ、あれほど気弱で繊細だった紅顔の美少年も、
半世紀もたつと〝厚顔〟で人擦れした千枚張りの面の皮になり果ててしまうのか。

人間って、だから面白い。
あれほど無口で人見知りをしていた少年が、
いまはどうだ。だれ彼となく声をかけ、つまらぬ〝おやじギャグ〟を飛ばしている。
記者歴が長いということもあるが、どんな人間を相手にしても動じなくなった。


ボクはよくこんな話をする。
人生の前半に無口だったものは、後半に入るといきなりしゃべり始めると。
一生のうちにしゃべる言葉の量は決まっていて、
前半おしゃべりだったものは、後半口をつぐんで無口になる。
神様というのは実に平等で、最後には帳尻が合うように作ってくれている、と。

だからボクは、かつての自分みたいに、
社会の中で居場所の見つからない若者たちにこう言ってやりたい。
「君が今抱えている深刻な悩みなどは、あと10年もすればあっさり解決してしまう。
そして50の坂を越えるころには、かつて悩んでいたことさえ思い出せなくなってしまうだろう。
だから心配しないでいい。いっぱい悩んで、いっぱい苦しむことだ。
それがきっと君の心の糧になるのだから……」

「ポケモンGO」をやれば、いわゆる「ひきこもり」がなくなるのではないか、
という議論がある。スマホもケータイも持たず、あのようなゲームアプリを
蛇蝎のごとくきらっているボクには、その効果測定をする資格も自信もないが、
ポケモン探しにうつつを抜かし、世間様に迷惑をかけるくらいなら、
部屋にひきこもってくれていたほうが、よほど世のため人のためになるような気がする。

問題はひきこもって何をしているかだ。
ボクはひきこもりではなかったが、
遊んでくれる友もいなかったので、もっぱら本を読んでいた。
『人間失格』とか『デミアン』とか『若きウェルテルの悩み』といった類の暗~い本である。

幸か不幸か、ボクは小学生のころから文学書に親しんできた。
なぜ文学書なのか。カッコいい言い方をすれば「心の渇きをいやすため」だ。
寒風吹きすさぶ心の部屋に、かそけき春の息吹を吹きこむためだ。
でないと、生きていく力が湧き上がってこなかった。
ボクは必死だった。

その「悩みのデパート」でもあった少年が、いまは図々しくも人前で歌を披露し悦に入っている。
なんという変身ぶりか。あの繊細でナイーヴな心はいったいどこへ行ってしまったのか。

いや、どこにも行っていませんよ。
いまでもボクの心の奥底にひっそりと息づいています。
そのガラスの心を悟られないように、幾重にもぶ厚いバリアを配しているだけの話で、
実は何にも変わってなんかいないんです。


スマホを穴のあくほど眺めたって、教養は身につきません。
教養を身につけるに一番手っ取り早い方法は、本を読むことです。それも文学書を。
それ以外にはありません。これだけは確信をもって言えます。
本を読まなければ、生涯、教養とは無縁の人生を送るハメになります。

高学歴でも教養のない人はいます。教育と教養はイコールではありません。
教養のない人には確たる歴史観、世界観、人間観がありません。
そのため付和雷同、あっち行ったりこっち行ったり……
背骨の軸がブレっぱなしです。


教養のない人間はさびしい。
教養のない人間は哀しい。
教養のない人間はつまらない。
教養のない人間にはやさしさが欠けています。






←ボクは太宰治のおかげで
生きながらえております。





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