去る14日、銀座「カフェ・ド・ランブル」の店主・関口一郎さんが亡くなられた。
享年103。大往生と言えばまことにそうなのだが、遺族の思いに寄り添えば、
とてもそんなことは言えない。ただ100歳を超えても矍鑠(かくしゃく)としていた、
という事実を鑑みれば、げに関口一郎畏るべし、とはいえるのではないか。
関口さんは拙著『コーヒーに憑かれた男たち』(中公文庫)の中に
出てくる「コーヒー御三家」のひとりである。一番年若だった吉祥寺
「もか」の標交紀氏はすでに物故していて('07年)、最長老の関口さんが
彼のあとを追うことになった。南千住「カフェ・バッハ」の田口護氏は
とうとう置いてけぼりだ。櫛の歯が欠けるように、親しかったものが
次々と逝ってしまうのはまことに悲しく淋しい。田口氏にはお二人の分まで
せいぜい長生きしてもらいたい。
ランブルにはよく通った。
カウンターには座らず、入口付近にしつらえてあった関口さんの
隠居部屋みたいな特別席(ボクは「イチローコーナー」と勝手に呼んでいる)
に図々しく座らせてもらった。20代のまだ新米記者だったころから
のおつき合いなので、気心も知れ、軽口ばかりたたき合っていた。
歳は37も離れているのに、関口マスターは「嶋中君、嶋中君」と
可愛がってくれ、いつだって気さくに口をきいてくれた。
関口さんには何冊か著作があるが、
『珈琲辛口談義』と『銀座で珈琲50年』(共にいなほ書房)の
2冊はボクが聞き書きして本にしたものだ。
関口さんは生涯独身を貫いた。
愛人がいたという噂がないわけではないが、
「コーヒーに忙しくて、女にかまけてるヒマなんかなかったんだよ」
というのが本当のところだろう。いや、独身を通したからこそ
100歳の長寿を全うできたのではないか、とボクは思っている。
あるいは関口さんが口ぐせのように言っていた「長寿の秘訣はコーヒー」
なのかもしれない。あなたも100歳まで生きたかったら、生涯独身を通し、
オールドコーヒーを飲み続けることだ。これが関口さんの残した教訓その一(笑)。
実際、女に投じるカネと時間と精力はバカにできないものね(シミジミ納得)。
あれで寿命がどれだけ縮むことか(世の女性たちよ、心から🙇ゴメンナサイ)……
晩年、ランブルを仕切る甥っ子・林不二彦氏のもとに身を寄せた関口さん。
江東区森下のご自宅を二度ほど訪ねたことがある。2階にある関口さんの
部屋は20畳ほどの広さで、扉を開けた瞬間、何と言おう、パンドラの箱を
開けてしまったみたいなショッキングな光景が目に飛び込んできた。
そこにはビーカーやら試験管やらさまざまな実験器具が散乱していて、
足の踏み場もないのだ。大森の一軒家に独り住まいしているときも、
蜘蛛の巣が散見される部屋を見て、灰神楽が立ったようなすさまじさを
感じたものだが、こっちの部屋だって負けてはいない。
そんなボクの穏やかならざる心中を察したのか、関口さんは
飄々としながらも気を遣ってくれて、
「嶋中君、なにか食べますか?」
などと声をかけてくれた。言うなりいきなり冷蔵庫を開けたのだが、
庫内には試作中の菓子やらケーキがどっさり。色目を見ると、
いつ作ったのか判然としない、失礼ながら腹を下しそうなものが
いっぱいありそうだったので(笑)、
「いや、おかまいなく。先ほど遅い昼食を済ませたばかりなので……」
となんとかごまかした。
銀座のランブルは有名人たちの溜まり場だった。
川端康成に永井荷風、市川紅梅に水谷八重子、勘三郎に白洲正子と豪華絢爛。
ある時、ジョン・レノンとオノ・ヨーコがひょっこり顔を見せたが、
あいにくの満席。ジョンのジョの字も知らない竜子ママさん(関口の妹)は、
「ご覧のようにいっぱいなのよ、悪いわね……」
とあっさり断ってしまった。カウンターで働いていた若いスタッフたちは
心底ガッカリしたという。
哲学者の谷川徹三(詩人・谷川俊太郎の父)もよく来た。
「うちの女房、近頃とんとボケちゃってね、トイレに入っても
アレを流すの忘れちゃうんだ。で、いつもほっこりした立派な
オブジェが便器の上に鎮座ましましてる(笑)」
こう言って関口以下スタッフを笑わせるのだが、
当の本人がトイレから戻った後に便器をのぞくと、
小便が流していなかったりする(笑)。
銀座8丁目、新橋方面に向かって中央通りから一筋左に入ったところに
珈琲だけの店「カフェ・ド・ランブル」はある。昭和レトロの趣を湛えた、
無愛想なほど飾り気のない小さな珈琲店である。名物店主を失ってしまった
あの〝イチローコーナー〟はこの先どうなってしまうのだろう。
淋しさに堪えない。
ここに改めてコーヒー業界の〝巨星〟関口一郎氏のご冥福をお祈りする。
心からの合掌。
←左端のボクの隣が関口さん。
『コーヒーに憑かれた男たち』
に登場する「コーヒー御三家」
の勢揃いだ。
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