2018年6月25日月曜日

サッカーはこの世の写し鏡か

外国へ行くと、横断歩道で交通信号を守らない人がけっこういる。
右見て左見て、車が来なかったら赤信号でも平気で渡ってしまう。
ただしマヌケなことに轢(ひ)かれてしまったら、自己責任で文句は言わない。
交通ルールは尊重するけど、それを絶対とは思わない。
融通無碍と言うのか、法律とは個人を縛るものではなくむしろ解放するもの、
という考え方で、責任取るんだから「文句ねえだろ!」という理屈なのだ。

ボクも横断歩道の信号は守ったり守らなかったりする。
明らかに車が来なかったら、堂々と渡ってしまう。
ただし小学生などが信号待ちしていたら青になるまで待つ。
子供たちのお手本になるべき大人が、平気で赤信号を渡ったら
ちょいとばかりあんべえ悪いだろ。もちろん偽善的な行為だが、
ここは「ホンネ」ではなく「タテマエ」で押し通すのである。

子供の見ている前で、赤信号を無視して渡るという手だってもちろんある。
「世間なんてものはな、きれいごとだけじゃあ済まされないんだよ!」
と、大人の世界の実相を目の前に広げて見せてやる。
もちろん実践教育の一環としてだ。

子供の視点から見た大人世界の奇怪さを童話にしたのが、
ボクの愛読書でもあるサン=テグジュペリの『星の王子さま』だ。
王子さまは大人たちの奇矯な行動を目にするたびに、
〝The  grown-ups are certainly very odd.(大人ってわけわかんなーい)
と当惑気味につぶやく。

さて、ボクも含めた大人たちは子供たちを前にこう言って諭す。
●ウソはつくな!
●卑怯なマネはするな!
●ルールは守れ!
立派な教えで、古くは会津藩の「什(じゅう)の掟」にもあるし、
薩摩藩の郷中(ごじゅう)教育の中にもある。

話変わってロシアW杯のサッカーについて一言。
あれを子供に見せるべきか否か、という問題だ。
ボクは正直、サッカーは好きではない。
理由ははっきりしている。どいつもこいつも反則ばかりで、
汚い手のオンパレードだからだ。

ペナルティキックを得るためとかフリーキックを得るために、
敵方とぶつかり合うたびに大げさに倒れ込む。ダイブと呼ばれる反則行為だ。
スローで見てみると、ちょいとさわった程度なのだが、
足の骨を折ったかのように大仰に倒れ、ウンウンと唸りピッチを転げまわる。
しかし審判が無視すると、数秒後には何事もなかったかのようにすっくと立ちあがり、
元気いっぱい走り出す。
何なんだよ、あれは?

ブラジルの名選手ネイマールも、ロシアW杯のコスタリカ戦でそれをやらかした。
ビデオで見ると、ネイマールは誰ともぶつかっておらず、明らかに
〝シミュレーション(ファウルをされたふりをする行為)〟だと分かる。
フェアプレー精神もクソもない。サッカーという競技は騙すかだまされるか、
という「反フェアプレー精神」を、これでもかというくらい究極まで追求した、
実にあざとく、とことん勝利至上主義に徹したうす汚い競技なのである。

こんな反則ばかりがてんこ盛りの競技を純な心を持つ子供に見せたら、
「大人って汚いね」「ぜんぜんルールを守らないね」
「誰も見てなかったら、悪いことをしてもいいんだね」
「大人の世界ってウソで固めた世界なんだね」
などとこの世の実相に絶望し、反社会的人間になってしまうのではないか。
ボクはついそんなことを憂え、考えこんでしまうのである。

子供の社会が純粋で美しい、などとは毛ほども思わないが、
できれば「予定調和的」に、この世の実相をちょっとずつちょっとずつ
知っていってほしい。男女の秘め事だって時が来れば自然と分かる、
というのが一番いい。だがインターネットが普及した時代にあってはそれは叶わず、
若年にして知らなくてもいいことを知ってしまう。
早熟も早熟、けた違いの早熟児が世界中に溢れ返っている。
この事実は、決して喜ばしいことではない。

子供は徐々に大人になるのがいい。
正邪美醜、理非曲直は齢を経るごとに自然と理解するのがいい。
急いで学んだものにロクなものはない、と知るべし。

現にボクは、小学生の時すでに吉行淳之介の『砂の上の植物群』や
『原色の街』『驟雨』といった娼婦を題材にした小説を読んでいた。
早熟だったのだ。で、とどのつまりはロクデナシになり果てた、というわけ。
これ、ボクのささやかな人生訓だ。

←なんと大げさに倒れることか。
サッカー選手より役者をやれ!










0 件のコメント:

コメントを投稿