2019年3月9日土曜日

いじめは決してなくならない

こどもは純真無垢、なんてよく言うが、
同時にひどく残忍な面も持っている。
おとなしい鳩は平和の象徴などというけれど、
ひとたび〝いじめ〟が始まると、徹底して相手の首をつつき、
瀕死の状態になるまで攻撃をやめないという。
平和の象徴どころか、悪鬼の一面も持っているのである。

〝いじめ〟や〝いじり〟によって命を絶つこどもが相変わらず
新聞紙上を賑わせている。今のいじめは陰湿さが増していて、
ネット上で悪口を言いふらし拡散させる。先日もそのことを苦にして
鉄道自殺した女子中学生がいた。ご両親の悲嘆はいかばかりか。

何度も書いているが、ボクは二人の娘たちに「人と群れるな!」
と絶えず言ってきた。何がきらいといって、主体性を見失い付和雷同的に
群れをなして行動することほどきらいなものはない。その極端な行動が、
みんなで寄ってたかって一人の子をいじめるという卑怯な行動につながってゆく。

人と群れるな、というのは「友だちなんか要らない、孤高を守れ」
ということではもちろんない。事実、社交的な娘たちには友だちがいっぱいいる。
が、いざとなったら友との訣別を恐れず、正しいと思ったことを敢然と行え、
という意味である。「いや」だと思ったら、いくら仲のいい友であっても
決然と「No!」と言う。安易に同調せず、自分の意見をハッキリ言う。
もしもいじめられている子がいたら、その子に寄り添ってやる。
いじめられている子にとって、そうした行為がどれだけ励ましになるか。
そのことによって一つのかけがえのない命が救われるかもしれないのだ。

いじめによる自殺が公になると、例によって学校や教育委員会は
大慌てで「第三者委員会」を設置し、公平な調査をやってますよ、
とばかりにその場を取り繕うことに必死になる。
ここ数年、「第三者委員会」というのがやたら流行っているが、
これさえ設置すれば事足りる、という考え方はどこかおかしいんじゃないか。
だいいち何なのよ、あの「第三者委員会」って? 
そんなに便利かつ万能なものなのか?

ボクが教師なら、毎日のように教室でこう弁じたてるだろう。
「いいかみんな、人間の行動の中で最も薄汚いのは、数をたのんで
一人の人間をいじめることだ。こういう連中を卑怯者という。昔はな、
卑怯者と呼ばれたら武士なら刀を抜いて〝決闘しろ!〟と叫んだものだ。
男が卑怯者呼ばわりされたら全人格を否定されたのと同じで、
生きてゆけないくらい恥ずかしいことだったんだ。
ところがどうだ、今の世の中は卑怯者だらけだ。君たちの中にこんな恥ずかしい
マネをする人間はいないと思うが、もしいたら先生が黙っちゃいない。
いいかみんな、ケンカというのは一対一でやるもんだ。数をたのんだり、
ネット上でコソコソ悪口を言うような人間はサイテーの人間だ。
そういう卑怯な輩には先生が相手になってやるからそのつもりでいろ!」

このくらい威勢のいい啖呵が切れるような教師がいたら、
いじめも相当数少なくなると思うのだが、
今どきの教師にそんな根性のある人間はいそうにない。

ネット社会というのは〝匿名社会〟でもある。
匿名だから悪口だって遠慮がなくなり、罪の意識も希薄だ。
いじめの対象が自殺したとしても、「あれっ? ちょっとやり過ぎちゃったかな」
てなもので、数日後にはすっかり忘れてしまう。
悪口言ったのは自分一人じゃないから、罪悪感も分散され、
生涯悔み通す、なんてことには金輪際ならない。
人間の「死」が単なる記号みたいで、やけに軽いのだ。

いじめは決してなくならない。
動物の世界にあるものが、人間の世界だけにはない、なんてことは絶対にない。
いじめは悲しいけれど本能に近いもので、この世に差別がなくならないように、
いじめも決してなくなることはないのだ。

ならばどうする?
『憂きことのなほこの上に積もれかし 限りある身の力ためさん』(熊沢蕃山)
『願わくば、われに七難八苦を与えたまえ』(山中鹿之介)
こうした名言があるように、艱難辛苦に立ち向かうような強い精神を
コツコツ養うしかないだろう。初等教育の場で「怯懦は恥なのだ」と徹底して
教え込めば「千万人と雖も我往かん」とする強靭な精神が育つのではないか。

あとは卑怯を憎む精神を子供たちに徹底的に植えつけることだ。
いじめは遠巻きにして傍観しているものたちも加害者と知るべし。
自分だけは責任を免れている、と信じている最も悪質な加害者といえる。
わが身の安全のみを願って「正義」とか「勇気」といった徳目に
無関心な近頃の親たちにも責任の一端があるかもしれない。
いじめられる側よりいじめる側にいたほうが安全よ、と子に教える母親がある
と聞いたときは、ほんとうにビックリした。世も末だと思った。

昔の薩摩藩や会津藩には『郷中(ごじゅう)や『(じゅう)の掟
といった子弟への独自の教育法があった。

「弱い者をいじめるな」
「ウソをつくな」
「負けるな」
「怯懦(臆病なこと)は恥だ」
「卑怯なマネをするな」
といったことどもを徹底して教え込むのだ。。

毎朝、教室でこれら千金の掟を大きな声で唱和させたらどうか。
それだけでもずいぶん状況が変わってくるのではないか。
それでも頭の固い文科省の役人やおバカな日教組の連中には、
おそらくピンとこないだろう。
へたをすると「修身や皇民化教育を復活させるつもりか!」などと
トンチンカンな反論をしかねない。左翼のバカは死ぬまでバカ。
いつだって口だけの彼らには、世の中を変える力など所詮ありはしないのだ。

「友だちなんか要らない。あたしゃ一人が一番いい」
小中高と一人も友だちのいなかったボクは、その分、読書の世界にのめり込み、
「読書尚友」(書物を通して古人を友とし語り合うこと)の喜びを知った。
わずか数年間、机を共にするだけの友なんて、真の友でも何でもない。
友だちなんて、長ずればいつだってできるものなのだから、
焦って作る必要などまったくないのだ、とボクは声を大にして言いたい。

「いじめられたら10倍にして返してやれ!」
「相手がグウの音も出ないくらいやっつけてやれ!」
ケンカ馴れしているボクなら、「やられたらやり返せ!」と教えてやる。
ついでに筋トレで身体を鍛え、どこを殴れば効果的か、ケンカ殺法も教示してやる。

「コワモテの金八先生を気取ってるの?」
フフン、なんとでも言ってくれ。
確信をもって言わせてもらうが、ボクならすばらしい教師になれると思う。
こどもたちに慕われ頼られるすばらしい教師に……。
ああ、どこかの学校で臨時に雇ってくれないかしら(笑)。
これだけラブコールを送っているのに、お声がかからないのは、
やたら人を殴りたがる凶暴なじいさんはお呼びでないってこと?
















2 件のコメント:

  1. 嶋中労さま

    おはようございます。
    労さまの講義を受けてみたいと考えてしまった田舎者です。 

    いじめについてですが、なくられないです。それは人類の歴史でありますから。
    そして大の大人が手本として子供たちに示しているのが現実なのです。

    親をはじめ、学校での先生、テレビの放映内容と様々な形で知らず知らずのうちに
    子供たちを洗脳しているのです。

    そしたらどうしたらいいのかと考えますと、どこかの国の反日教育ではありませんが
    修身というか教育勅語の義務教育での義務化をして子供たちに暗記されるという案を
    出したいとおもいます。

    労さまの言われるように日教組と反日先生が目くじらを立てて反対するんでしょう。

    このように書かせていただきましたが、今までいじめたりいじめられたりを繰り返して
    いる大人の一人でもあります。

    ありがとうございます。

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  2. 田舎者様
    たしかに大人の社会がそもそも〝いじめの市〟だからね。
    こどもに「いじめをしちゃいかん!」と偉そうに説教を垂れる資格はありませんよ。

    有史以来、人間はいじめの中で生き抜いてきた。
    「適者生存」の原則から外れた弱者は、いつの世であっても自然淘汰されていったんだろうね。

    ボクは人にいじめられたことは多々あるけど、人をいじめたことはあまりない。
    いや、実際は無意識のうちにいじめていた、ということはいっぱいあると思う。
    人間は自分に都合の悪いことはスッパリと忘れるようにできているから。

    ボクは怒る時は本気で怒ります。
    こどもでも大人でも、目の前で迷惑行為がなされていたら、ボクは叱責します。
    「なんだこの野郎!」
    と、歯向かってきたら堂々と戦います。

    「人生は気魄です」と、ボクの尊敬する佐藤愛子は言ってます。
    そう、気魄で立ち向かうのです。

    齢のせいか年々気魄を醸成するエネルギーが衰えつつある、と自覚しているのですが、
    生きているかぎり、他を圧倒する気魄を持ち続けたいと思っています。

    お互い、カッコいいおやじでいようね。

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