2019年4月9日火曜日

あなたは本を読んでますか?

旧制高校生の必読書は阿部次郎の『三太郎の日記』、倉田百三『愛と認識との出発』、
西田幾多郎『善の研究』だったそうです。ボクもbookishな人間としては人後に
落ちないので、極めて難解ではありましたが、高校時代にやっとこさっとこ
読破することができました。

数学者・藤原正彦の『国家と教養』の中に、こんなフレーズがあります。
本を読まない人間は井の中の蛙と同じになります。この蛙にとって、
世界は井戸の底と上に見える小さな丸い空だけです

またこんなエピソードも添えてありました。
《ある人から聞いた話ですが、日米戦争で零戦を操縦し、
数十機の米軍機を撃墜した帝国海軍の名パイロット坂井三郎は、
電車内で次のような若者の会話を耳にしたそうです。
「おい、お前、日本がアメリカと戦争したこと知ってるか」「えっ、ウッソー」
「マジだよ」「マジか。それでどっちが勝ったんだ」
坂井氏は、自分達が命をかけて戦った戦争とは一体何だったのか、
と考え込んでしまったそうです》

この話は以前から知っていました。『大空のサムライ』で知られる坂井三郎は
200回以上の空戦で、64機の米軍機を撃ち落としました。この本も高校時代に
読んでいますが、まさかその坂井がこのエピソードの発信元だとは知りませんでした。
「マジ」とか「ウッソー」なんていう若者言葉は坂井の存命中にはなかった
でしょうから、たぶん藤原の創作で、リップサービスではありましょうが、
いろいろな本にこのエピソードが登場してくるのは確かで、実際、
電車内にしろ学校の教室にしろ、この種の間の抜けた会話があったことは
事実なのでしょう。

book-worm(本の虫)になると、少なくとも物知りにはなります。
物知りになれば会話の幅が広がり、お相手によっては物事の本質に迫るような
エキサイティングな議論も可能です。

一昨年、わが家にホームステイしたフランス人のルカ(高校生)は、
茶目っ気たっぷりのいたずら坊主で、おまけに女好きでもありましたが、
大変な読書家でもありました。
「お父さん、ヒトラーの『我が闘争』読んだことある?」
 なんて、さらりと訊いてきます。
「ああ、もちろんあるよ。ルカと同じ高校生の時に読んだ」
フランス人からすれば憎っくき敵のアドルフ・ヒトラー。
しかし「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」という孫子の兵法を、
ルカが自ら実践しているところが立派だ、とボクは感心したものです。

近頃の大学生は月に1冊も本を読まないものが約50%もいる、とのことです。
「本を読まない学生」という言葉自体、すでに矛盾しているのですが、
現実に書物に無縁な大学生が2人に1人いる、というのだから驚きです。

本なんて読まなくたって生きてゆけます。
情報だけを取るのならスマホやケータイなどSNSの世界で十分間に合います。
しかし〝教養〟となると話は別。ローマ時代の昔、
学者であり政治家であったキケロは、
本のない部屋は魂のない肉体のようなものだ
 と言っています。また藤原の父親である作家の新田次郎は、
一日に一頁も本を読まない人間はケダモノと同じだ
 とまで言っています。つまり日本の大学はどこもみなケダモノだらけで、
「〇△大学」と名乗るより「〇△動物園」と看板を掛け替えるべきなのです。

民主主義というシステムは最高のシステムではありません。
衆愚政治になる危険性を常に孕んでいるからです。
実際、歴史を振り返ってみれば、民主主義といわれた国で
衆愚政治に陥らなかった国は皆無なのです。
藤原は、
《民主主義とは、世界の宿痾(しゅくあ)ともいうべき国民の未熟を考えると、
最低の政治システムなのです》
 と切り捨てています。かつて英国のチャーチルが奇しくも言ったように、
民主主義は《独裁制や共産制よりは少しだけまし》
 といったレベルで、衆愚政治に陥らないためには政治家も国民も、
成熟した教養人にならなくてはいけないのです。
そんなこと、可能でしょうか?

案の定、今どきの日本人は「教養」といったものに最も遠いところにあります。
坂井三郎が呆れ果てたような無残な光景が、至るところで繰り広げられているのです。
教養はつぶさに顔に出ます。実にふしぎなことですが、これは確かなことです。
ボクの敬愛する文芸評論家の福田恆存も、
《人相と人柄――この二つのものは別物であるどころか、
実は心憎いほど一致しております。人相を見れば、
その人柄はだいたい分かります。そういうものなのです
 と断じています。心すべき言葉だと、改めて思います。


←藤原正彦のベストセラー本に
便乗して、ちゃっかり宣伝して
しまう我が小人根性。売れないわけです。

2 件のコメント:

  1. 嶋中労さま

    おはようございます。生まれ育ちは隠せないものと信じている田舎者です。
    今朝、キャベツの収穫に向かう途中、市議会議員選挙立候補のポスターを観察して
    みました。投票したい顔をもつ人はだれ一人としていなかったのが現実です。
    ですが投票には行きますがね。福田恆存の言葉を忘れないように努めます。

    それとですね。こんなことを思い出しました。二十歳を過ぎた頃でしょうか、
    高校時代の国語の先生に手紙を書きまして、高校を卒業し社会人として
    恥ずかしくない読むべき本を教えていただけないでしょうか。そして五冊ほど
    読んだ記憶があります。
    倉田百三「出家とその弟子」長塚節「土」パールバンク「大地」
    サマセットモーム「人間の絆」ヘルマンヘッセ「?」

    そして読んではいませんが、倉田百三『愛と認識との出発』で書かれている
    周りの人から愛される人に成りたいものです。

    ありがとうございます。


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  2. 田舎者様

    ヘルマン・ヘッセはたぶん『車輪の下』ではないでしょうか。ボクはどっちかというと『デミアン』のほうが面白かった。それとボクが先生なら、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を挙げますね。いずれにしろ全部読みました。

    ボクは多感な少年で、どっちかというと引っ込み思案の子でしたし、友人なんか1人もいませんでしたから、デミアンとかウェルテルの悩みには共感できましたね。あと太宰治の『人間失格』や漱石の『こころ』かな。どれもみな暗~い本ばかりですが、あの頃のボクには心に沁みました。本は孤独を癒してくれる唯一の〝ともだち〟でした。

    いまのような図々しいジイサンになると、これらの作品は甘ったるくて数ページも読めないでしょうが、だからといって価値がないとは言えない。多感な青春期にはなくてはならない必読書なのです。

    いじめが原因で自殺してしまう子供たちが多いですが、本に救いを求める子供はいないのでしょうか。ボクなんか本によって命びろいしたクチですから、書物の効用を先生や両親はもっと説いたほうがいい。といっても近頃の教師や親たちはスマホ中毒患者ばかりだから、本なんて読んでいないものね。独断と偏見で言わせてもらうと、教師の顔から〝威厳〟といったものが消えてしまいました。昔の先生はおっかなかったし、威厳がありましたものね。

    戦後70余年、のんべんだらりと平和な日々が続いています。おかげで間延びした顔が増えたような気がしています。アメリカの〝囲いもの〟を長くやっていると、妾根性が身についてしまって、本来あったとされる日本人の気概が雲散霧消してしまったような気もします。

    いじめられたら、すぐ死んでしまう。敢然と戦う、という選択肢があるのに、それを選ばない。そして恨み言を遺書に綴って、あっけなく高所から飛び降りてしまう。なぜ戦わない。
    敗けたっていいじゃないか。戦うという気概を見せれば、以後、いじめはなくなるものなのだ。

    大人たちはお行儀がよくなったのか、「戦う」という野蛮な行為に蓋をするようになってしまった。全校生徒を前にして、「やられたらやり返せ」とか「卑怯なマネをするな」「死ぬ気になって戦え」と校長はなぜ教えない。ケンカ殺法を教師たちはなぜ教えない。

    ボクは世に瀰漫する〝平和主義〟〝非武装中立〟的な考え方に真っ向から反対します。野蛮でけっこう。死ぬまで野蛮人で生きてゆきます。

    田舎者さんは平和主義者ですか? 
    んなわけねーよな(笑)。お後がよろしいようで。

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