2019年7月16日火曜日

鼻の上下 臍の下

知り合いのNさんが、
「嶋中さんは相撲見てる?」と訊くから、
「見てますよ。最近は小兵の炎鵬とか竜電とか、
勢いのある新しい顔ぶれも出てきたからね」
と応えると、Nさんはニヤッと笑って、
「あたしは砂かぶりで観ている和装の〝きれいどこ〟を見ているんですよ」
ときたもんだ。この狒々爺さん、相変わらず女好きときてる(笑)。

相撲中継を見ていて気づくのは、土俵下の砂かぶり席に着物姿の〝きれいどこ〟が
多いことだ。あの着こなしを見ると花柳界のお姐さんや高級クラブのママたちだと
思われるが、なぜ彼女たちが特等席ともいえる土俵際の見物席を占めているのか。
芸妓は相撲が死ぬほど好きなのだろうか?
それとも彼女たちは相撲取りのタニマチなのだろうか?

こういう古川柳がある。

        日に千両 鼻の上下 臍(へそ)の下

寛文年間に作られたもので、鼻の上は目だから「歌舞伎芝居」。
鼻の下は口だから日本橋の「魚河岸」、そして臍の下とくれば、
言わずもがなの「遊里吉原」に決まっている。

これが当時殷賑(いんしん)をきわめた三大消費経済の中心で、
文字どおり日に千両、合わせて三千両が動いたという。

いささか三題噺めいた話になるが、震災(関東大震災)前の歌舞伎の隆盛を
支えたのは、魚河岸と色里の連中だった。〝総見〟と称して、日頃狂言に
馴染みのない者たちも打ち揃って見物してくれたのである。

歌舞伎役者(芸人)や漁民(海民)も、そして色里の遊女たちも、
身分的にはみな賤業視されてきた仲間同士だ。

魚河岸の連中が歌舞伎をひいきにしたのも、互いに〝化外(けがい)の人〟という
身の上が同じだったからに違いない。化外の人というのは文化の及ばない
野蛮な人の意である。歌舞伎役者はもともと河原乞食と呼ばれた連中だし、
漁撈の人たちも「士農工商」の身分制度の外側にいた。もちろん遊女たちは
最底辺に位置づけられたものたちである。

その被差別の者たちが、昔からの絆を大事にし、生活互助会的な見地から、
互いに助け合い支え合っていたとしても不思議はない。
「いや、ただのタニマチだよ」
といわれればそうかも知れない。本場所だけでなく地方場所に和装の美女たちが
多く出没するというから、相撲取りたちがひいきにしているクラブのママ
というのがたぶん真相だろう。

あの砂かぶりの特等席は「溜席(たまりせき)」と呼ばれるもので、
日本相撲協会に寄付した人たちが座れる席だ。15日間の通し席で、
東京場所だと年間390万円以上、地方場所だと130万円以上かかるという。
なかには暴力団がらみの人たちもいるというが、彼らを業界では〝維持員〟
と呼んでいる。古来からの相撲の維持発展に協力しているから「維持員」
と呼ぶのか。

芸者もクラブママも〝水商売〟と呼ばれる人たちだ。
客の人気だけが頼りで収入が不確かだからそう呼ばれる。
実はボクみたいなフリーのライターも彼らの同類で、
お堅い銀行屋から見ると、金を貸したくない最右翼らしい。
実際、ボクなんか食うや食わずの生活なのだから、
水商売と呼ばれるのも当然だろう。

先述した歌舞伎役者も、漁撈関係の人たちも、また芸妓たちも人気や
天候によって収入が左右される立派な〝水商売〟である。歌舞伎役者などは
名門と称して偉そうな顔をしているが、元をただせば河原乞食と呼ばれていた
〝化外の人〟たちで、つい最近までは堅気の人たちと画然と区別されていた。

以前も少しふれたが、藤山寛美が人気絶頂の頃、街中を歩いていたら、
小さな女の子が指さして「あっ、寛美よ。お母さん、寛美がいる!」
と叫んだら、かたわらの母親が、
「指でさすのはおやめ。指が腐る」と言ったとか。

今なら人権侵害といわれるかもしれないが、虚業と実業は当時ハッキリ区別されていた。
差別ではなく区別。事実、芸人は大衆に愛された。愛されはしたが、正当な労働で
稼いでいるわけではないから区別された。あぶく銭で食っている人たちばかりに
お天道様が当たったら、汗水たらして働いている堅気の人たちが報われまい。
そんなまっとうな精神から、この「区別」が生れたのである。
そんな世間の〝眼〟が肌身に沁みているからだろう、芸の鬼と呼ばれた勝新や寛美は、
その日稼いだあぶく銭をその日のうちに使い切ってしまおうと、狂ったように散財
したという。

さて砂かぶりの〝きれいどこ〟は誰なんだ、という話が妙な方向へ行ってしまったが、
歌舞伎役者も相撲取りも、また花柳界のお姐さまたちも、みな〝同じ穴の……〟
のような気がする。共通項は昔でいえば〝化外の人たち〟であり、現代風に言えば
〝水商売〟である。つまり堅実さを伴わない仕事、すなわち虚業に生きる人たちで、
ひと昔前であれば「指が腐る」と後ろ指をさされた人たちである。

ならば犬畜生と同類かといわれれば、そうではない。
水商売にも水商売なりの気概がある。矜持(きょうじ)もある。
ボクなんか金がない分、矜持だけで生きている。
しかし所詮はコトバという符丁を操って飯を食わせてもらっている〝虚業〟
という事実は片時も忘れたことはない。
だから、ごく控えめに、目立たないように地味に生きている。
地味でないのは酒の飲みっぷりだけ。
これだけは〝どもならん〟のでお赦しを(笑)。







←観戦中、ずっと正座だもんね。
膝痛で正座ができないボクなんか羨ましくて……


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