2020年5月17日日曜日

ボクの写真を撮らないで!

ボクには若い頃の写真がほとんどありません。
あっても、カメラを意識しすぎた不自然な写真か、
心ここに在らずといった魂の抜け殻みたいな写真ばかりです。

ボクは写真に撮られるのが苦手でした。
心の中はいつだって大忙しだったから、写真なんか撮ってる場合では
なかったのです。何に忙しかったって? 自分に折り合いをつけるのに
ひたすら忙しかったのです。

前にも書きましたけど、ボクは少し頭のいかれた男の子でした。
小学校5年の頃に、吉行淳之介の『砂の上の植物群』だとか『原色の街』
といった本を読んでいました。どちらも男女間の性を描いた作品です。

おませな少年、というのならまさにそれで、チン〇コも満足に
育っていないのに、妄想だけはたくましくしている、というひねこびた
少年でした。ガキのくせに変に老成している、というのは気持ちが悪いものです。

今でも写真写りは悪いです。
自分の中で一番醜い、見てほしくない部分が強調されて写されてしまうからです。
ボクなら自分の写真を見てすぐわかります。その時、何を考えていたか……。
だから、こっそり知らないうちに撮られた写真が一番出来がいい。
変な自意識がそこにはないからです。

あの三島由紀夫が自意識過剰な人間だったことは広く知られています。
彼が生来の過剰な自意識から解放される唯一の瞬間は、自衛隊に体験入隊し、
空挺団で落下傘の降下訓練をしている時だけ、と聞いたことがあります。

歳をとって老成していくというのは、
自分の心の内を容易に見せない技術を身に着けることでもあります。
ボクは開けっぴろげでout-goingな性格と思われているようですが、
半分は正しくとも半分は違います。それらしく演じていたら、
いつの間にやら〝ホンモノっぽく〟なってきた、というだけのことです。
ボクの中では〝痩せ我慢の哲学〟と呼んでいるものなのですが、
痩せ我慢をしながらそれらしく演じ、何年も繰り返していると、
いつの間にかホンモノと見紛うほどになってしまうのです。

「顔立ちは生まれつきだが、顔つきは自分が作る」
とよく言われます。性格も同じで、生涯をかけて自分の理想とする性格に
自分を作り変えるのです。ボクは若い頃の自分がキライでした。
思い出すだに、「ウェーッ!」となるくらいキライでした。

で、ボクは人格改造計画に着手したんです。
自分のことばかり考えていないで、他人(ひと)のことを思いやる人間になろうと。
他人(ひと)が喜んでくれるようなことをしようと。きれいごとに聞こえる
かもしれませんが、ようやくたどり着いた境地がここなんです。

「他人(ひと)にやさしく!」
これはボクのモットーでもあります。誰に対しても分け隔てなく接する。
大企業の社長であろうと便所掃除のおっちゃんであろうと、
ボクの接する態度はほとんど変わりません。記者生活が長く、各界の一流人士
と呼ばれる人にもずいぶん会いました。その中には立派な人もいれば、
俗人もいました。いや、ほとんどが世間ずれした俗人といっていいかもしれません。

そんな経験を積み重ねるうちに、人を見る目が自然と養われてきたような気がします。
「人は見かけじゃない、中身だよ」とよく言われますが、
ボクは「人は見かけがすべて」と思っていて、そのことに自信を持っています。
残酷なようですが、その人の人となりはすべて顔つきに出てしまうのです。

だからボクは「お見かけどおりの人間です」と開き直るしかない。
事実、それ以上でも以下でもないからです。

背伸びせず、身の丈に合った人生を送る。
ボクには自分の可能性と限界がよく見えています。
「各員一層奮励努力せよ!」とハッパをかけられても、
(そんなに頑張ってどうするわけ? 頑張った先に何があるの?)
と、ちょっぴりニヒった自分がそこにいます。

もう2年もするとめでたや古稀です。
信じられません。ボクが70歳のジイサンだなんて。
男が歳を取り損なうと、世に言う「暴走老人」とか「正論おじさん」
に成り果てるといいます。彼らは人生から何一つ学ばず、
自分の考えを唯一正しいと思い込み、他者に押しつけようとします。
はた迷惑もいいとこです。

娘たちや孫に愛され、友人や隣人たちにも愛されるジイサンになれるよう、
奮励努力する覚悟であります。どうか皆さま、お見捨てなきように願います。






腕白小僧の孫のS太と心優しい?ジージ。


















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