2019年3月18日月曜日

好きなもの・きらいなもの

齢のせいかだんだんワガママになってきた。また物事に対する好き嫌いも
ハッキリしてきた。以下、好きなものと嫌いなものを列挙してみる。
◆好きなもの
小学校低学年くらいまでの子供たち
(近所の保育園児たちが手をつないで散歩している姿を見ていると、ほんとうに
可愛いな、と思う。こんな天使みたいな子供たちに手を挙げる親がいるなんて……)
姿勢正しく、すがすがしい青年たち
(現代日本からはみごとに払底してしまっている青年たちなので
懐旧の念からあえて挙げてみた。いま巷間を跋扈(ばっこ)しているのは、
悲しいけれど自由と放埓(ほうらつ)をはき違えた異形の若者たちばかりだ)
本好きの若者
(かつて〝週刊誌の鬼〟と呼ばれた評論家の扇谷正造はこう言った。
若い者は1日4回めしを食え。3回は米のめしで、もう1回は活字のめしだ」と。
大学生協の調べでは月に1冊も本を読まない学生は50%を超えたという。
〝本を読まない学生〟って、かなりブラックなjokeだよね。いったい何しに
大学へ行ってるんだよ!)

◆きらいなもの
スマホに首っぴきで寧日(ねいじつ)もない人たち
(歩きながら、あるいは自転車や自動車に乗りながらの〝ながらスマホ〟族。
ボクが心から軽蔑する人間どもだ)
〝メイク男子〟と呼ばれる軟弱男たち
(薄く化粧をする若者が増えているという。平安期に流行ったことがあるが、
女性が強い時代にしばしば出現するという)
おばさんたちの空疎なおしゃべり
女の話には花は咲くが実はならぬ、と言うそうな……これって女性差別かしら?)
幼児化・空洞化しているテレビの笑い
(いまさら言っても詮方(せんかた)ないが、「バラエティ」という名のバカ番組が
どれほど日本人の知性と品性を貶めているか……)
インテリと便所のなめくじ
(これは「フーテンの寅さん」がきらいなものなのだが、あっしもきらいでござんす)
鳩左ブレ
(ルーピー鳩山の尊称を奉られた鳩山由紀夫元首相が、左寄りの政治姿勢で
ブレまくったことから、こう呼ばれた。ボクは昔から鳩サブレーが大きらいだった)
理屈っぽく観念的な理想論ばかり説くリベラル(を詐称する左翼)なおじさん
(理想主義を頭から否定しようとは思わないが、
彼らの言説にはリアリズムに依拠したfactがないんだよな。
空理空論につき合うほどヒマではないのよ)
なんでも「話し合い」で解決しようとするお人好しの人たち
(民主主義というのはもっと乾いた冷徹な政治思想で、「話し合えば分かり合える」
といった温情主義的な世界とはちがうのよね)
「背中を押してもらう」
「元気をもらう」
「感動をありがとう」
「敗けたけど、次につながる敗け方だった」などといった常套句
(なんか主体性がなく受け身的で、凛とした潔さもない未練たらたらの言葉ばかり)
「ら抜き」言葉と、それをふつうにしゃべる人たち
(耳ざわり、と感じないくらい言葉に鈍感な人たちだから)
自慢ばなし
(亭主自慢にこども自慢、孫自慢、学歴自慢……決してみっともいいもんじゃないぞ)

好きなものに比べ、きらいなものの何と多いことか。
自分でも呆れるほどきらいなものが多いのだが、
「人間」というものは基本的に好きである。
良いところも嫌なところも併せ持っているのが人間の性(さが)
それらをひっくるめて丸ごと愛そう、と心に決めている。
だんだん仏様のようになってきた気がする(笑)。もう長くはない?


←スマホの中に君の未来は見えるかい?

2019年3月9日土曜日

いじめは決してなくならない

こどもは純真無垢、なんてよく言うが、
同時にひどく残忍な面も持っている。
おとなしい鳩は平和の象徴などというけれど、
ひとたび〝いじめ〟が始まると、徹底して相手の首をつつき、
瀕死の状態になるまで攻撃をやめないという。
平和の象徴どころか、悪鬼の一面も持っているのである。

〝いじめ〟や〝いじり〟によって命を絶つこどもが相変わらず
新聞紙上を賑わせている。今のいじめは陰湿さが増していて、
ネット上で悪口を言いふらし拡散させる。先日もそのことを苦にして
鉄道自殺した女子中学生がいた。ご両親の悲嘆はいかばかりか。

何度も書いているが、ボクは二人の娘たちに「人と群れるな!」
と絶えず言ってきた。何がきらいといって、主体性を見失い付和雷同的に
群れをなして行動することほどきらいなものはない。その極端な行動が、
みんなで寄ってたかって一人の子をいじめるという卑怯な行動につながってゆく。

人と群れるな、というのは「友だちなんか要らない、孤高を守れ」
ということではもちろんない。事実、社交的な娘たちには友だちがいっぱいいる。
が、いざとなったら友との訣別を恐れず、正しいと思ったことを敢然と行え、
という意味である。「いや」だと思ったら、いくら仲のいい友であっても
決然と「No!」と言う。安易に同調せず、自分の意見をハッキリ言う。
もしもいじめられている子がいたら、その子に寄り添ってやる。
いじめられている子にとって、そうした行為がどれだけ励ましになるか。
そのことによって一つのかけがえのない命が救われるかもしれないのだ。

いじめによる自殺が公になると、例によって学校や教育委員会は
大慌てで「第三者委員会」を設置し、公平な調査をやってますよ、
とばかりにその場を取り繕うことに必死になる。
ここ数年、「第三者委員会」というのがやたら流行っているが、
これさえ設置すれば事足りる、という考え方はどこかおかしいんじゃないか。
だいいち何なのよ、あの「第三者委員会」って? 
そんなに便利かつ万能なものなのか?

ボクが教師なら、毎日のように教室でこう弁じたてるだろう。
「いいかみんな、人間の行動の中で最も薄汚いのは、数をたのんで
一人の人間をいじめることだ。こういう連中を卑怯者という。昔はな、
卑怯者と呼ばれたら武士なら刀を抜いて〝決闘しろ!〟と叫んだものだ。
男が卑怯者呼ばわりされたら全人格を否定されたのと同じで、
生きてゆけないくらい恥ずかしいことだったんだ。
ところがどうだ、今の世の中は卑怯者だらけだ。君たちの中にこんな恥ずかしい
マネをする人間はいないと思うが、もしいたら先生が黙っちゃいない。
いいかみんな、ケンカというのは一対一でやるもんだ。数をたのんだり、
ネット上でコソコソ悪口を言うような人間はサイテーの人間だ。
そういう卑怯な輩には先生が相手になってやるからそのつもりでいろ!」

このくらい威勢のいい啖呵が切れるような教師がいたら、
いじめも相当数少なくなると思うのだが、
今どきの教師にそんな根性のある人間はいそうにない。

ネット社会というのは〝匿名社会〟でもある。
匿名だから悪口だって遠慮がなくなり、罪の意識も希薄だ。
いじめの対象が自殺したとしても、「あれっ? ちょっとやり過ぎちゃったかな」
てなもので、数日後にはすっかり忘れてしまう。
悪口言ったのは自分一人じゃないから、罪悪感も分散され、
生涯悔み通す、なんてことには金輪際ならない。
人間の「死」が単なる記号みたいで、やけに軽いのだ。

いじめは決してなくならない。
動物の世界にあるものが、人間の世界だけにはない、なんてことは絶対にない。
いじめは悲しいけれど本能に近いもので、この世に差別がなくならないように、
いじめも決してなくなることはないのだ。

ならばどうする?
『憂きことのなほこの上に積もれかし 限りある身の力ためさん』(熊沢蕃山)
『願わくば、われに七難八苦を与えたまえ』(山中鹿之介)
こうした名言があるように、艱難辛苦に立ち向かうような強い精神を
コツコツ養うしかないだろう。初等教育の場で「怯懦は恥なのだ」と徹底して
教え込めば「千万人と雖も我往かん」とする強靭な精神が育つのではないか。

あとは卑怯を憎む精神を子供たちに徹底的に植えつけることだ。
いじめは遠巻きにして傍観しているものたちも加害者と知るべし。
自分だけは責任を免れている、と信じている最も悪質な加害者といえる。
わが身の安全のみを願って「正義」とか「勇気」といった徳目に
無関心な近頃の親たちにも責任の一端があるかもしれない。
いじめられる側よりいじめる側にいたほうが安全よ、と子に教える母親がある
と聞いたときは、ほんとうにビックリした。世も末だと思った。

昔の薩摩藩や会津藩には『郷中(ごじゅう)や『(じゅう)の掟
といった子弟への独自の教育法があった。

「弱い者をいじめるな」
「ウソをつくな」
「負けるな」
「怯懦(臆病なこと)は恥だ」
「卑怯なマネをするな」
といったことどもを徹底して教え込むのだ。。

毎朝、教室でこれら千金の掟を大きな声で唱和させたらどうか。
それだけでもずいぶん状況が変わってくるのではないか。
それでも頭の固い文科省の役人やおバカな日教組の連中には、
おそらくピンとこないだろう。
へたをすると「修身や皇民化教育を復活させるつもりか!」などと
トンチンカンな反論をしかねない。左翼のバカは死ぬまでバカ。
いつだって口だけの彼らには、世の中を変える力など所詮ありはしないのだ。

「友だちなんか要らない。あたしゃ一人が一番いい」
小中高と一人も友だちのいなかったボクは、その分、読書の世界にのめり込み、
「読書尚友」(書物を通して古人を友とし語り合うこと)の喜びを知った。
わずか数年間、机を共にするだけの友なんて、真の友でも何でもない。
友だちなんて、長ずればいつだってできるものなのだから、
焦って作る必要などまったくないのだ、とボクは声を大にして言いたい。

「いじめられたら10倍にして返してやれ!」
「相手がグウの音も出ないくらいやっつけてやれ!」
ケンカ馴れしているボクなら、「やられたらやり返せ!」と教えてやる。
ついでに筋トレで身体を鍛え、どこを殴れば効果的か、ケンカ殺法も教示してやる。

「コワモテの金八先生を気取ってるの?」
フフン、なんとでも言ってくれ。
確信をもって言わせてもらうが、ボクならすばらしい教師になれると思う。
こどもたちに慕われ頼られるすばらしい教師に……。
ああ、どこかの学校で臨時に雇ってくれないかしら(笑)。
これだけラブコールを送っているのに、お声がかからないのは、
やたら人を殴りたがる凶暴なじいさんはお呼びでないってこと?
















2019年2月27日水曜日

ウソもたいがいにしてくれ!

韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権は相変わらず日本の悪口ばかり言っている。
前の「パクパク・クネクネ政権」は〝告げ口外交〟で名を馳せたが、
ムン政権だって負けてはいない。韓国人は息を吐くみたいに平気でウソをつく
というが、慰安婦問題にしろ徴用工問題にしろ、韓国は勝手に歴史を捻じ曲げ、
日本を悪者に仕立て上げようとしている。実際、事実に反するフェイクばかりで、
よくもまァここまでウソをでっちあげられるものだと、その厚顔無恥ぶりに
怒りも呆れもするが、ウソの歴史によって一方的に悪者にされた日本国や
日本国民はたまったもんじゃない。

ボクなんか近・現代史に関する歴史関連本をうんざりするほど読み漁っているから、
韓国歴代政権のウソなどすぐ見破ってしまう。文大統領は両親が北朝鮮の出身
ということもあってか、南北統一を是が非でも実現し、後世に名をとどめたい、
と思っているにちがいない。
「あの日本統治さえなかったら……」
南北朝鮮は世界に冠たる一等国になっていたはず……と文大統領は
ことあるごとにその思いを周囲にもらしているという。

おバカな個人が勝手に夢を見るのは自由だが、
一国の指導者がそれをあたかも真実のように発言するのは問題だ。
「あの日本統治がなかったら……」
答えは「ずっと古代国家のままだろう」というのと、
「朝鮮人は今ごろはロシア語をしゃべっているだろう」
というのが大方の専門家の見方だ。当時、ロシアがその毒牙を半島へと
のばしつつあったからだ。また日韓併合前の李氏朝鮮に渡り、
朝鮮紀行』を著した英国女性イザベラ・バードは、その本の中で、
「ソウルは世界一汚い都市」とつづっている。中世や封建時代を
経験していない李氏朝鮮は500年もの間、ずっと古代のままであった。

以前も書いたが、植民地というのは搾取の対象で、日韓併合時代を
韓国朝鮮の人たちが「むりやり植民地にされた」というのなら、
苛斂誅求の証拠とやらをぜひ見せてほしい。搾取どころか、あの40年は
すべて日本からの〝持ち出し〟であった。鉄道は5000㌔以上めぐらし、
小学校は併合時のわずか100校から5960校(1943年時)にまで増やした。
おかげで識字率は6%から22%にまで上昇している。欧米諸国の植民地では
絶対にありえないことである。また、お節介にも稲の品種改良まで伝授し、
北の寒い地域でも稲作ができるようになった。だから英語表記ではcolonization
(植民地化)ではなくannexation(併合、ニュアンスとしては増築するといった意)
という単語を使っている。

「創氏改名」で名前を奪った、などと文句を言うものがあるが、
両班や中人など一部の特権階級以外ではそもそも苗字がなかったし、
女性には名前すらなかった。賤人、白丁と呼ばれた下層階級は
ほとんど奴隷同然で、その奴隷たちがめでたく解放されたのは日本統治
のおかげであった。場合によっては「リンカーンの奴隷解放より大規模で、
その意義たるや、もっと広く顕彰されるべきだろう」という専門家もいる。
「名前を奪った」どころか「名前を与えてやった」というのが正しい認識
なのである。朝鮮半島の人たちは真実の歴史を学んでいないから、
日本統治時代を一方的に非難するが、実際は半島近代化の基礎を作った、
というのが真実で、感謝されこそすれ恨まれる筋合いなどみじんもない。

文大統領は最近、韓国で唯一の英雄とされる安重根の遺骨を掘り出そう、
と中国などにも協力を求めている。1909年10月、中国はハルビン駅構内で
伊藤博文を暗殺したテロリストである。テロリストが国家的英雄という国も
珍しいが、遺骨は中国大連市の旧旅順刑務所付近に埋葬されているらしい。

この日韓併合のきっかけを作った暗殺事件、巧妙に仕組まれた謀略という説がある。
物の本によると安重根はピストルで伊藤を撃った。遺体解剖の所見によると、
伊藤の体内からは3発の銃弾が見つかったらしい。しかしそのうちの1発は
拳銃の弾ではなく小銃(ライフル)の弾であった。銃創を見ると、体内への
射入角が上方からのもので、どうやらビルの屋上などから狙撃した可能性もある。

ということは、安重根の単独犯行ではなく協力者がいた?
安重根が知っていたかどうかはわからないが、伊藤博文は「日韓併合」に
どちらかというと反対していた。皮肉なことに安重根は自分たちの味方を
殺してしまったのである。伊藤の暗殺によって日韓併合の勢いは一気に進み、
翌1910年、そのことが現実のものとなった。
それではライフルで狙撃したのはいったいどこの誰なのか?
思うに、日韓併合を強力に主張していた日本の軍部強硬派あたりがひどく怪しい。

結局、安重根は救国の〝義士〟として祭り上げられ、
事件の真相は永遠に葬り去られてしまった。


←テロリスト安重根を英雄視する韓国人



















2019年2月25日月曜日

役人根性大っきらい

独断と偏見で言わせてもらうと、ボクは〝役人〟が好きではない。
役人を公務員と言い換えてもいい。ただし例外があって、警察官と消防隊員と
自衛隊員(特別国家公務員)はその限りではなく、むしろ尊敬している。

「役人」と「官僚」とは違うらしく、後者は国家公務員Ⅰ種の資格を持つ公務員の
ことで、平たくいうと国を指導する立場の公務員のことを指す。以前も少し触れたが、2010年、「APEC首脳会議」が横浜で開催されたとき、各国首脳たちをどんな食事で
もてなすか、ということでボクの女房が「知恵を貸してくれ」と外務省から頼まれた
ことがある。

カミさんは料理記者としてはベテランの部類で、キャリアは40年以上。
和洋中の料理に通じ、プロ向けの料理雑誌の編集長を務めただけでなく
有名料理人の本を数十冊も手がけている。で、この「横浜APEC」に際しては、
いろいろなアイデアを提供した。だが、外務省の担当が細かいことにまで
くちばしを挟んでくる。そのことごとくが的外れで慇懃無礼な応対であった。

「一見、低姿勢なんだけど、実は尊大そのものなんだよね」
カミさんはもう二度と一緒に仕事をやりたくない、と思ったという。
官僚の中でも財務省に次ぐエリート中のエリートといわれる外務官僚。
東大卒のキャリア官僚ともなれば、それは鼻高々だろうし、
いかな低姿勢を演出しても〝官尊民卑〟に似たエリート意識はぬぐえない。
〝上から目線〟の物言いは骨がらみで沁みついてしまっているのである。

閑話休題。
ユダヤ人にとって「杉原千畝」という元外交官は〝生命のビザ〟を発給した
人物として知られている。当時、リトアニア領事代理だった杉原は、
ナチス・ドイツに追われたユダヤ人難民に日本通過ビザを発給した。

当時の日本の外務省はナチス・ドイツとの関係でビザ発給を認めなかったのだが、
杉原は訓令違反を承知でビザを発給し、そのおかげでユダヤ人6000人の生命が
救われた。この〝生命のビザ〟の話は、今やだれでも知っている。

かつて〝外務省のラスプーチン〟と呼ばれた作家の佐藤優は、
ノンキャリア組だっただけにかつての古巣に対しても遠慮がない。
佐藤の敬愛するのは元衆議院議員の鈴木宗男だ。1991年、日本が独立を承認した
バルト三国に政府特使として派遣された鈴木(当時外務政務次官)の通訳をした
のを機に、二人は強い紐帯で結ばれるようになった。佐藤が外務省の主任分析官
となった背景にも鈴木の威光があったといわれている。

←鈴木宗男(左)と佐藤優








その鈴木の功績の一つに〝杉原千畝の名誉回復〟がある。
鈴木は本省からの訓令に逆らってまで〝生命のビザ〟を発給したという
史実に感銘を受け、杉原夫人を外務省の飯倉公館に招き、直接謝罪したのである。
ところが当時の外務省幹部はこのことに猛反対をした。杉原千畝は外務省の
訓令を破った張本人だったからだ。

外交政策の決定において、もっとも考慮されるべきは人道的なものが基本中の基本、
とボクなんか素人は考えてしまうが、融通の利かない先例主義、法規万能主義
といったものに凝り固まっている役人たちには、そのことがわからない。
官僚の一番いやらしい面が出た、というべきだろう。

うちのカミさんの外務官僚嫌いと、杉原千畝の〝美談〟を
むりやり結びつけるつもりはさらさらないが、ガッチガチの形式主義と
「前例がないですから……」と新規なものを避けようとする先例至上主義は、
昔も今も少しも変わっていないような気がする。創意が欠如し、保身第一に
走る独善的な官僚主義が、この国を静かにそして着実に蝕んでいる。

←罷免覚悟でビザを発給した
杉原千畝。











2019年1月24日木曜日

いいかげん土俵の形を変えたらどうなんだ?

大相撲の中継を見ていていつも思うのだけれど、
あの土俵の形はもう少しどうにかならないものだろうか。
土俵の大きさは径4.55㍍(15尺)と決まっているらしいが、
200㌔以上ある逸ノ城(モンゴル人)とか魁聖(ブラジル人)といった
巨漢力士が土俵に立つと、
(うーん、ちょっと狭すぎるんじゃないの?)
とつい思ってしまう。

力士は年々大型化してきているが、統計によると、
1918年の幕内力士の場合、平均身長が174.6㎝、平均体重は102.9㌔だったものが、
1968年になると、身長が180.9㎝、体重が130.6㌔に増えている。
これが2018年になると、身長が184.2㎝、体重が164.0㌔になっている。
なんと50年で体重が30㌔も増えているのである。
身体が大きくなった分、土俵の大きさを拡げてやったほうがいいんじゃないか、
とボクなんか単純にそう思うのだけれど、日本相撲協会でそんな話が話題に上った
なんてついぞ聞いたことがない。頑ななまでに「伝統」を重んじようとする
日本相撲協会にはハナから変える意思などないのだろう。
いや、そんな考えは思いもよらないのではなかろうか。

百歩譲って土俵の大きさは、まあよしとしよう。
ただ、土俵の高さだけは何とかならないものか。
土俵の高さは34~60㎝が決まりらしい。
2017年の春場所、横綱に昇進したばかりの稀勢の里が日馬富士と対戦した。
この試合で、稀勢の里は日馬富士に寄り倒された際、左前肩と胸部を
しこたま打ちつけ、このケガがもとで引退にまで追い込まれてしまった。
ようやく日本人の横綱が誕生したと思ったら、ケガであっけなく引退してしまう。
地元後援者だけでなく日本じゅうの相撲ファンはさぞがっかりしたことだろう。

もしも土俵が低く、土俵下にクッション性のあるマットでも敷いてあれば、
稀勢の里のケガも軽傷で済んでいたにちがいない。ところが実際は、
崖から突き落とされるみたいな脳天逆落とし。砂かぶりで見ている観客だって
危険がいっぱいだし、何より突き落とされた力士がたまらない。
あの痛みにゆがんだ稀勢の里の顔が今でも目に浮かぶ。










今のように土俵を高くしたのは江戸の享保年間だという。
観衆にあまねく見せられるようにと、土俵の土を高く盛ったのである。
これは余談だが、土俵の土は「荒木田土」といって、
もともとは国技館近くを流れる荒川流域で採れた土を使っていた。
が、今は埼玉県川越市で採取された土を使っている。
ボクは川越生まれだが、うかつにもこの事実をまったく知らなかった。

川越の土は粘性が高く砂が適度(30%くらい)に混じっていて滑りにくいのだという。
土の総量は約45㌧。かつて地方場所などは現地で土を調達していたが、
今は両国国技館だけでなく、大阪や名古屋、福岡の各会場まで川越の土を
運んでいるという。

話を元に戻そう。
くどいようだが、力士が大型化すればするほどケガに泣かされるハメになる。
ケガの程度を軽くするために土俵の大きさや高さを工夫すれば
力士たちの選手生命も必然的に長くなるだろうに、相撲協会は「伝統ですから」
の一点張りで、力士に寄り添った改善を試みようともしない。
相撲取り同士の暴行事件もそうだが、伝統の名を借りた因循姑息な体質は
今も昔もまったく変っていない。

相撲という特殊な世界に生きてきた人たちが相撲協会を牛耳っているのだから、
社会性がないというのも首肯できるが、時代の価値観は刻一刻と変わっていくので、
そうしたものとの摺合わせはどうしたって必要になる。伝統というものは
新しい価値観を上手に取り入れてこそ、より磨きがかかってくる。
ただ唯々諾々としきたりを守っていればいい、というものではないのだ。
協会幹部たちの〝石頭〟が豆腐みたいにグニャグニャになることを祈ってやまない。


←このDVDは同じD棟に住むHさんの作品。
土俵ができるまでを追ったドキュメンタリーで、
優秀作品賞を受賞したものだ。右はそれを
フランス語のナレーションに変えたもの。
仏語はこれまた友人のT女史(G棟)が担当した。
ボクの周囲には才能あふれる人たちがいっぱいだ。

2019年1月15日火曜日

「全然、大丈夫です」とはなんだ!

いつの時代にあっても耳障りな言葉というのはある。
まずは「私って〇〇じゃないですかァ」という言い方。
知り合いの女性編集者がよく使うのだが、言われるたびに
「知らんよ、そんなもん」とツッコミを入れたくなる(笑)。
「こちら〇〇になります」もツッコミを入れたくなる言い方だ。
「お待ちどうさま、こちらシーザーズサラダになります」
「えっ? いつなったの?」

「私のお母さんは~」「ボクのお父さんは~」
という若者も気に障る。「母は」「父は」となぜ言えない。
公私の境界線がハッキリしていない証拠で、未熟の一語に尽きる。
「ってゆーかーァァァ」というのも未熟者の常套句。
「やばい」を連発する若者や「くそかわいい」などというバカ者は、
いっそ逆さ吊りにして思いきり蹴りを入れたくなる。

「全然、大丈夫です」もよく耳にする。「まったく問題ありません」が
正解で、「全然」という副詞がきたら次には打消しの否定語がくるはずなのに、
「全然、オーケーよ」と言われたら拍子抜けしてズッコケそうになる。

またサッカー選手や野球選手のインタビューなどでよく聞かれるのが、
「~ですし」と「~ますし」。いつの頃からかこの「ですし」「ますし」で言葉を
つないでいく選手が多くなった。中田英寿が流行らせた、という説があるようだが、
いつまでもダラダラと際限なくしゃべり続ける言い方で、実に聞き苦しい。
また語尾に「ね」をつけるしゃべり方も不遜で偉そうな響きをもつのだが、
オツムの弱い選手たちはまったく気づいていないようだ。

一方、政治家たちがよく使うのが「粛々と」という言葉。
竹下登元首相が使い始めてから、あっという間に広まったといわれている。
もともとは詩吟などにも謡われる頼山陽作の、
《鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく) 夜河を渡る……》から来ている言葉で、
ひっそりと事を行う、の意だ。

武田信玄の待つ川中島の敵陣へ、上杉謙信の大軍が、
夜陰にまぎれて千曲川を渡る。全軍無言で、隊列を乱さず、
ただ鞭(むち)の音だけが粛々と聞こえてくる……

この「粛々」を竹下元首相は、世上の雑音などに惑わされず、
ひたすらに事を進める、の意で使った。

それはそれでいいのだが、現政権の要である菅官房長官が、
沖縄の辺野古埋め立てを「粛々と進める」とやっちゃった。
「粛々」は相手に気づかれないように静かにこっそりの意だから、
沖縄県人は怒った。これだけ埋め立てに反対しているのに、
知らんぷりして埋め立てを敢行するのか、と。

菅官房長官は、これには辟易(へきえき)し、以後「粛々」という言葉は
使いません、と約束したんだと。お粗末さま。


←♪ 号令粛々、夜浜を埋める

2019年1月7日月曜日

日本人の8割が〝スマホ首〟

正月2日、練馬区谷原にある新鮮市場「フレッツ」に買い出しに行った。
都内最大級の鮮魚店で、お客さんがあると刺身などを買いに時々ここまで足を運ぶ。
さてこの店の隣はふつうの民家だが、珍しや庭に二宮金次郎の像があった。
「民家の庭に金次郎の像があるって珍しいよね……」
女房と2人で顔を見合わせたものである。

ボクが子供の頃はどこの小・中学校にもこの像が立っていた。
二宮金次郎、長じて尊徳と称したこの人物は農政家・思想家として知られ、
「報徳思想」を世に広めた。内村鑑三の『代表的日本人』の中でも取り上げられ、
〝農民聖者〟と讃えられている。

だがこの聖者、近頃は今一つ人気がないという。
「こどもが働く姿は勧められない」
「戦時教育の名残だ」
「歩きながら本を読むのは危険」
などという理由で、「児童の教育方針にそぐわない」ということらしい。



←かつて、どこの小学校にもあった
二宮金次郎像。










質素倹約と勤勉を絵に描いたようなこの像のどこが「教育にそぐわない」のか、
ボクにはサッパリわからないが、戦後民主主義バンザ~イ! を叫ぶ日教組の
センセーたちにとっては、『修身』の権化みたいなこの人物像が、古臭くて
忌まわしい像に思えるのであろう。

そのおバカなセンセーたちの教え子が今、歩きながらスマホをいじっている。
なかには自転車をこぎながらスマホに見入っているものもあるし、あろうことか
車を運転しながらメールを打っている不届きものもいる。いったいどっちが
〝危険〟なのか、とボクは怪しむのだが、日教組のセンセー方は怪しまない。

話は変わるが、日本人の約8割が〝スマホ首〟を患っているという。
スマホ首というのはいわゆる〝ストレートネック〟のことで、
頸椎の緩やかなカーブが失われてしまった状態を言う。
頸椎のカーブが失われてしまう ということはすなわちカーブのクッション機能が
失われ、頭の重みが直に頸椎にかかるということを意味する。
頭の重さは体重の約10%というから、ボクの場合、約8㌔の重さが頸椎にかかる。

実はボクはスマホ首ではないが、ストレートネックと診断されている。
一昨年、頚椎症性筋萎縮症という病気に罹ったとき、レントゲン検査で
わかったのである。パソコンを使う人間がかかりやすいというから、
たぶんそっちの影響だろう。PCが商売道具の物書きにはストレートネック患者が
多いのではないだろうか。ボクはケータイもスマホも持たないから、
パソコンが原因としか考えられない。

それにしても〝スマホ中毒患者〟が多すぎる。
電車の中はもちろんのこと、横断歩道を渡っている時も、
若者たちはスマホの画面に見入っている。
一時停止違反の車が突っ込んできたら、それこそ一巻の終わりである。

1日17時間、スマホから離れられないという中毒患者の若者がいた。
新聞記事に出ていたのだが、寝る時間以外はすべてスマホに捧げているらしい。
いったい17時間もスマホを使って何をしているのか。メール? 動画?
それともゲーム? いずれにしても二宮金次郎の読んでいた四書の一つ
『大学』の中身とは天と地ほどの違いがありそうだ。とてもじゃないが、
二宮尊徳の衣鉢を継ぐ人間にはなれそうにない。

さて、史上最年少で囲碁棋士に内定することが決まった
仲邑菫(なかむらすみれ)ちゃん(9歳)の面構えがいい。
6日、トップ棋士の井山棋聖と対局したが、おめず臆せず、
鋭い視線を井山棋聖に送っていた。この仲邑家にはテレビがないという。
菫ちゃんはバラエティと称する〝バカ番組〟とは無縁のところで
純粋培養されたのである。近頃珍しい、まことにすばらしい一家である。

ボクもバラエティ番組など糞くらえのクチだが、ニュースとスポーツ番組だけは
見ている。ほんとうはテレビなどなくてもいいのだが、薄志弱行の身ゆえ、
つい人並みの生活へと流されてしまった。スマホに熱中している若者の中に、
あの菫ちゃんほどの凛とした面構えを有する者があるか? 

みんな揃ってアホ面なのは、決して偶然ではあるまい。
本を読まず、スマホでゲームやユーチューブ動画に熱中している連中に
輝かしい未来はない、とボクはあえて断言する。スマホなどという
大人の〝おしゃぶり〟は単なる時間つぶしの道具でしかない。
そんなヒマがあったら、本の一冊でも読んだらどうだ?
ああ、二宮金次郎の質朴さを愛しんだあの時代がひどく懐かしい。




←井山棋聖を見据える仲邑菫ちゃん。