毎日、とっかえひっかえ、本ばかり読んでいる。
ほんとうは近くの公園にでも行って、軽い運動でもしたいのだが、
ギックリ腰の後遺症と膝の具合がいまひとつなので、
しかたなくソファに寝っ転がり本を読んでいる。
この齢になっても「知る喜び」というものはある。
いや、知への渇望は増すばかり、といったほうがいいだろう。
アマテラスオオミカミとスサノオノミコトは姉と弟の関係だったが
夫婦でもあった、と知ったときは正直びっくりした。古代史の専門家
の間では暗黙のジョーシキらしいが、寡聞にして知らなかった。
古代では「血が散り広がる」ことを怖れ、高貴な王族間では近親結婚が
ふつうだった、ということは知っていた。古代エジプトでもそうで、
あのクレオパトラは弟のプトレマイオス13世の皇后であった。しかし、
日本の天照大御神と須佐之男命が夫婦で、後に離婚したということは、
さすがに知らなかった。
読書家になるには〝濫読〟の時期が必要だ。
特に方針を立てずに、目の前にある本を手当たり次第に読み漁るのである。
いわば〝水平的〟な読書で、この時期を過ぎると、自分の関心のある分野や
作家などが明確になってきて、こんどは特定の分野や好きな作家の作品ばかり
読むようになる。つまり〝垂直的〟に深く掘り下げていくのである。
ボクが最初に全集を買い込み、集中的に読んだのは文芸評論家の小林秀雄だ。
新潮社から出ている小林秀雄全集は何度も読み返したせいだろう、一部は
綴じが緩んでいるだけでなく、多くの書き込みや傍線があるせいで、
判読が困難で、何がなんだかわからなくなっている。
なぜ小林秀雄に魅かれたのか、自分でもよくわからない。
しいて言えば、あの独特の男っぽい断定調の文体だろうか。
『無常という事』という一文が高校の「現代文」などに載っていて、
学生の間では典型的な難解・晦渋な文章とされていたが、
ボクはそんなふうには思わなかった。意外とすんなり飲み込めたというか、
ストンと胸に落ちたのである。小林の文体はボクの肌合いにピタリと合っていた。
ボクは小林秀雄を通してドストエフスキーを知り、ランボオやマラルメを知り、
中原中也や志賀直哉に親しみ、モーツァルトに聴きほれた。小林の広範な
読書の後追いをしていくのだから、本棚はいくつあっても足りない。大学では
ドイツ文学科に属していたが、ボクの日常は小林秀雄を中心に回っていた。
それはまさに〝知の小宇宙〟だった。
10年にもおよぶ嵐のような〝小林秀雄時代〟が終わると、
次は〝吉本隆明時代〟が10年続く。それらは画然と分かれていたわけではない、
同時並行して読み進んでいる時期があった。両人とも「知の巨人」である。
小林には強固な文体と歴史観、人間観を学び、吉本からは思想の鍛え方というもの
を教わった。彼は論争にめっぽう強かった。向かうところ敵なしだった。
その後、多くの作家や思想家の全集を買い込み読み込んだが、
自分で多くの影響を受けたと思えるのは江藤淳や福田恆存、
そして山本夏彦だろうか。中核となる部分を小林と吉本で固め、
その周りを江藤や福田、山本が補強している、というかっこうである。
教養のあるなしは、相手と少し言葉を交わすだけでわかる。
言葉遣いや話の内容にふれるだけで、そのバックに控える〝知の総量〟
が問わず語りに知れてしまうのである。そう考えると、けっこう怖い。
福沢諭吉の〝心訓〟にこうある。
《世の中で一番みじめなことは、人間として教養のないことです》
この言葉を、なぜか死んだおやじがよく口にしていた。
親父は無学だったが、知への欲求はすさまじかった。
戦時中も手放さなかったという小さな国語辞典を見せてもらったが、
手垢にまみれボロボロだった。
「教育」のあるなしなど、どうでもいい。
どこの大学を出た? そんな瑣末でつまらぬことは訊かぬことだ。
有名大学を出たって、愚か者は愚か者だし、無学であっても教養人はいる。
世に低俗な衒学趣味ほど鼻持ちならないものはないのだ。
問題は品のよい「教養」があるかないか。
人間の値打ちはそれで決まる。
←「小林秀雄全集第2巻」
ボードレールの「悪の華」を
論じたページの見開きにある
書き込み。今から思えば、
青臭いことが大マジメに書かれている。
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