スマホやケータイを持たない人間から言わせてもらうと、
「歩きスマホ」といった〝ながらスマホ〟ほど危険極まりないものはない。
日本では電車内はいうに及ばず、街中のいたるところでスマホの画面に
見入りながら歩く〝あるきスマホ族(略してあホ族)〟を見かける。
車の運転中でもスマホを手放せない連中がいる。
首都高を走っているとき、ふと隣の車線を見たら、
メール打ちに熱中しているトラック運転手がいた。
(高速道路でメール打ちかよ!)
ボクは事故に巻き込まれたくないので、すぐにこの車から離れた。
こういう危険行為は歴とした犯罪なのだ、
と彼ら〝スマホ中毒患者〟に思い知らせてやる手立てはないものか。
一方で、「歩きスマホ」をやっている人を専門に狙う〝当たり屋〟が
街に出没していると聞く。あえてよけずに、わざとこちらから
ぶつかっていくのである。スマホ中毒患者が文句を言ったら、
「前を見ずに歩いてるお前が悪いに決まってるやろ!」
とちょっぴり凄んでやれば、相手は〝シュン〟となってしまう。
ボクなんか根が凶暴だから、この「当たり屋」にはむしろ賛同したくなる。
どさくさまぎれに肘打ちかなんか喰らわせ、
「どこ向いて歩いていやがるんだ! このスットコドッコイ!」
カッコよく啖呵を切ったら、さぞ絵になることだろう。
スマホという〝おしゃぶり〟を片時も手放せない白痴化寸前のみなさま。
前方にボクらしき怪しい人間を見かけたら、くれぐれも気をつけてくださいませ。
『その男、凶暴につき』、肩を怒らせて体当たりしてくるかもしれません。
あるいは豊田真由子センセーみたいに、
《ぶつかった? ちがうだろッ――――! バカかお前は!》
《痛かった? ちがうだろッ――! お前はどれだけあたしの心を叩いてる!》
などと、怖ろしい形相で反撃してくるかもしれませんゾ。
スマホなんぞチョロチョロのぞいているヒマがあったら、
たまには静かに本でも読んだらどうなんだ、エ――ッ?
スマホからつまらぬ「情報」は得られても、生きるうえでの糧になる
「知恵」は得られませんよ。もちろん深い「教養」も。
第二次だか第三次だか「一億総白痴化」のニッポンを間近に見るにつけ、
憂国の情抑えがたく、ひとこと言わせてもらいました。
あるきスマホの常習者たちよ! そんなにスマホが好きなら、
事故にあってみごと昇天しても、あの世でスマホを離さないでね。
←いいね、このポスター。
日本じゅう「あホ」だらけや
出典:神戸新交通提供
嶋中労さま
返信削除おはようございます。
AT産業の進化により便利になったような世の中ですが、昨日草に覆われた生姜の
手入れをしながら考えさせられたのです。
両親が健在な時は少しずつではるが毎日コツコツと野良仕事をしてくれたおかげで
こんな草取りもすることが無かったよな。そうです、産業革命以前は全てが手作業で
あったのです。その後機械の開発により重労働が軽減され、人手を減らし一見豊かに
なったように感じられるのですが、実はそこには大きな落とし穴があったように感じ
られるのです。具体的には人を切ってしまったので、和がその一つだと考えています。
そのようなことが現在のAT産業にも当てはまるのではないかと思った次第なのです。
これからの世は何を捨てるのでしょうか。
田舎者様
返信削除この世はすべからく〝trade-off〟の関係と心得るべし。つまり何かを得れば、何かを失う。ボクの師匠の山本夏彦はこう言ってます。《「友あり遠方より来る」という何千年来の人と人との仲はこの30年で断たれたのである。電話が世界を一変させたことはこれでお分かりだろう。こんどはパソコンの番である。次は何だか知らないが次から次への番である。そして人は時々『パパラギ』のたぐいに感動したなどと言うのである。嗚呼!》『パパラギ』はサモアの酋長がヨーロッパを旅し、白人文明の矛盾をユーモラスに語った文明批評の書で、メカニズムの進歩が人間の生活をますます貧しく不自由にする、としています。まあ、これはフィクションですが、いわばスローライフの原点みたいな本です。便利になった先に何がある? 心の隙間を埋める作業が延々と続くのでしょうな、たぶん。