拙著『座右の山本夏彦』の中にも書きましたが、
若い頃のボクには友人と呼べるものが一人もいませんでした。
〝トモダチ〟が欲しくなかったわけではない。でも、できなかったのです。
師匠の夏彦翁も同じような青春を送ったといいます。
師匠にとって友人の多くは死んだ人でした。すなわち書物の中にいたのです。
ボクも同じく早くに〝今人(こんじん)〟に望みを絶った身の上、
会話のできる相手は本の中にしかいませんでした。
書物を通して先人に親しむことを〝読書尚友〟といいますが、
ひとたびその豊饒さに目覚めてしまうと、生きている人との友愛の
不確かさと貧しさが一層身に沁みます。
それは当然でしょう。死んだ人の中には、プラトンやゲーテ、
孔子に老子……錚々たる先哲がウジャウジャいるのです。
ボクは書きました。
『目黒のサンマではないが、友だちは死んだ人に限る』と。
そんないびつな青春を送ったボクも、年を重ねるうちに、
(生きてる人間の中にも面白いのがけっこういるじゃん)
なんて思うようになり、今ではおかげさまで〝おもろい今人たち〟
に囲まれて楽しく暮らしております。
ボクは「口が悪い」とよく言われます。
言葉に毒があって辛辣だ、というのです。
たしかにそういうところはあるかもしれません。
しかしそう指摘する仲間たちは、
「言われても、つい笑ってしまう」
といいます。毒はあるけど、ユーモアの衣に包まれているから、
つい笑ってしまうのだそうです。
物の本にこうありました。老人施設で医師をしている人の話ですが、
「元気で長生きしている老人たちは、多くが人の悪口が好き」
というのです。憎まれ口ばかり叩いている老人は、
なかなかくたばらないようなのです。
わが団地(1600世帯以上)にはいろんな人がいます。
善人ばかりではありません。悪人もいます。それも愛すべき悪人ではなく、
文字どおりの根性の曲がったイヤな人間です。
H氏という70過ぎのじいさんは、団地の管理組合や理事長に
しょっちゅう噛みつきます。訴えたりもします。訴状を読むと、
バカバカしい限りで、敗訴は目に見えているのですが、それでもめげずに
「おおそれながら……」と訴え続けるのです。こちとら役員としては
いい迷惑です。弁護士費用だってままならないですし、それらの原資は
住民から集めた管理費の中から出されているのです。住民はこの訴訟マニアの
H氏に対してもっと怒らなくてはなりません。
自分の非を認めようとしない人は、ボクにはスケールの小さな人間
にしか見えません。人望もないでしょうから、友だちもいません。
唯一自分の存在を確認できる場が、団地総会で執行役員たちに噛みつくことと、
役員たちのあら探しをしてアジびらみたいなものをこさえ、各戸にバラまく
ことなのですから呆れます。この手の人間は、自分に自信がなく、
薄っぺらいプライドを守るのに汲々としているのです。70年以上生きてきたのに、
人生から何ひとつ学んでいない。ほんとうに憐れむべき男だと思います。
ボクは今でも〝友だちは死んだ人に限る〟と思っていますが、
生きている友だちでないと、いっしょに運動したり、おしゃべりしたり、
酒を酌み交わすことができません。新型コロナに席巻されたご時世ですが、
徐々に収束しつつあるという感触です。
居酒屋で生ビールなんぞを飲みながら、仲間たちとワイワイやって、
大いにうっぷんを晴らしたいものですね。
←拙著『座右の山本夏彦』
の中の序文。読書尚友の豊饒さに
目覚め〝友だちは死んだ人に限る〟
と書いた。
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