2017年1月15日日曜日

佐藤愛子さん大好き!

43万部突破したという佐藤愛子の『九十歳。何がめでたい』を読んだ。
高齢者向きなのか、活字が大きいので、ものの30分で読み切ってしまった。
御年93歳の愛子さん、《強く生きるとは満身創痍になること》、スマホの普及で
日本人総アホの時代が来る》などと、相変わらず威勢がいい。

ボクは愛子さんが〝大好物〟で、若い頃から愛読している。
どこが好きかというと、見てくれなんか気にしない、髪ふり乱し、地金丸出しで
本音で生きている。それなのにさらっとして嫌味がなく、品格さえ感じさせる。

愛子さんはいつだってこう言う。
《卑怯なマネはするな!》
《ケンカは素手で1対1でやれ!》
《怯懦(きょうだ)は恥だ!》
《負けるとわかっている戦いでも、
男はやらねばならぬ時がある》

いじめる子、いじめられる子のことばかり識者は問題にするが、
いじめっ子に付和雷同している大半の子供たちに問題はないのか?
いじめられている子に、勇気ある友だちが1人でもいれば、彼は死ななくても
済んだかもしれない。あの〝カチカチ山のウサギ〟のような子が一人でもいれば……

ボクが教育者であれば、ずっとずっとその昔、いじめられる側にいた人間として
こんなことを訴えたい。「いいかみんな、戦うべき時には勇気をもって戦うんだ!」と。
ボクがそうだった。いじめっ子を呼び出し、敢然と戦いを挑んだのだ。そして殴り合いの
末に、相手を組み伏してしまった。完勝である。愛子さんの言葉を借りれば、
正々堂々と、素手で1対1でやり合った。

いじめによる自殺事件が起きると、当該学校長はマスコミに対して、
「命の大切さを教えないと……」などと言葉少なに紋切り型のコメントを繰り返す。
何が命の大切さだ。そんな抽象的な話を百万遍繰り返したって、子供たちの
心に響くもんか。

いじめを見ても、見ぬふりをする多くの子供たち。君たちは惰弱でかつ卑怯である。
きっと空涙を流して友の死を悼むのだろうが、数分後にはもうケロリと忘れている。
親たち、それも母親たちはわが子の安全のみを願い、「正義」や「勇気」といった
徳目にはまるで関心がない。できれば「いじめる側」にいてほしい、などと考えてしまう。
母性のダメなところがつい出てしまう。

そんな風潮の中で、愛子さんは、
人生は気魄(きはく)である。意志である
人は困苦欠乏によって鍛えられる
《だってみんながそうしてるんだもの。私はこの「みんながそうしてる」
というヤツが大きらい》
《人間にとって大切なもの、それは抵抗に堪え、乗り超えようとする意志力だ。
上っ面ばかリ撫でさするきれいごとの似非ヒューマニズム。そんなものに
溺れていると、人間はみなフヌケになるんだ》

ボクは愛子さんの薫陶を受け、自分の娘たちに、
「人と群れるな!」
「つむじ曲がりの何が悪い!」
「腹が立てば怒れ。嬉しかったら笑え。人間はシンプルが一番なんだ!」
などと教え諭した。

こんな言葉もある。
《人間は弱い存在である。私も弱い。弱いから私は強くなりたい。
だから強いフリをする。強いフリをしているうちに、強い人間であると
自他ともに錯覚するようになる。その錯覚の積み重ねによって、
少しずつホンモノの強さに近づけるのではあるまいか》

覚悟というものは口に出して言っているうちに固まっていく。
強がり、痩せ我慢をする――これを繰り返していくうちに
強さみたいなものが培われていく。ボクは愛子さんからこのことを学んだ。

そう、相手のことを慮ってばかりいないで、地金丸出して生きることだ。
相手に気ばっかり遣っていると人間性そのものが衰弱してしまう。
地金を出し、本音で生きる。佐藤愛子の愛読者たちは、
そんな生き方を模索し憧れているのだと思う。



←拙著『コーヒーに憑かれた男たち』(中公文庫)
の冒頭にも愛子さんのやけくそ気味の言葉を
引用させてもらった。身も蓋もない話をさせたら、
愛子さんが一番だね。つまり言葉を飾らず、
ホンネで生きているってこと

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