そば屋に外国人客が入ってくると、さっきまでズズーッと景気よくたぐっていた音が
ピタリと止む。「音をたてて食べるなんて野蛮だ」などと、例によって上から目線の
異人たちが言うもので、野蛮と思われたくない日本人客は、ムリしてお品よく
そばをたぐり出すのである。ところがこの異人客、日本人顔負けの〝ズルズル〟を
やり出したから、店内は一瞬〝シーン〟となるが、ほどなく客たちは一斉に〝ズズーッ〟とやりだした。世の中これだから面白い。
わが家は毎年、異国からの高校留学生をあずかっている。すでに長短期含め15ヵ国
くらいにおよぶだろうか。来年もドイツ人のイケメン生徒をあずかってはくれまいか、
と頼まれてはいるのだが、金髪ボインちゃん希望のボクは「また男かよ!」と半分
ふてくされ、いまだ意を決しかねている。
彼ら留学生と寝食を共にすると、もちろんそば・うどんを食べることだってある。
さすがにパスタ類を食べるときは音はたてないがそばやうどんとなると我らが領域だ。
さほど景気よく音をたてるわけではないが、こればっかりは天下御免とばかりに
品よくズルズルやる。ところが概ね白人たちは、音をたてて食べることに極度の
ためらいがあるから、いつだって口の中でモソモソやっている。日本ではズルズルが
憲法で保障されているし(ウソ)、「迷惑行為防止条例違反」でもないから遠慮なく
ズルズルやっていいんだよ、と委曲を尽くして説明してやっても、生れた時から
音たて食いをきつくたしなめられているから、そう簡単に〝野蛮人〟にはなり切れない。
習慣とは悲しくも怖ろしいものなのである。
そばというと思い出すのは杉浦日南子さん。漫画家であり江戸研究家でもあり、
そして無類のそば通でもあった。残念ながら13年前に急逝してしまったが、
その杉浦女史と軽井沢の「はなれ山ガルデン」でお会いし、そばに関して取材
させてもらったことがある。その際、そばの〝音たて食い〟について質問してみた。
「そばをたぐる〝ズルズル〟は江戸の昔からあったんですか?」
杉浦女史曰く、
《それはなかったですね。江戸300年の間には、上つ方の礼儀作法(小笠原流)が
下々のレベルまで降りていて、長屋の八っつぁん、熊さんでさえ、そばは口の中へ
押し送って食べていた。そばにしろタクアンにしろ、あからさまに音を立てるのは
はしたないとされてたんです》
それがまたどうして〝ズズーッ〟が一般的になってしまったのか、そのことを
重ねて尋ねてみたら、
《明治期、寄席で噺家が擬音によってそばを食べる場面を演じたら、
その所作が庶民の間で流行しちゃった。つまり仕方噺から出たというわけ》
杉浦女史の話では、《古来より日本では「にごり」を忌み、そばであるなら
「つるつる」はいいのですが「ずるずる」は下品とされてきた。だから、ふつうは
口をすぼめてたぐっていたんです》と。
おそらくこれらの禁忌は神道から来ているのだろう。神道は「にごり」と「けがれ」
を忌む。言葉の濁りを忌むのもそのためだ。近頃は「やべぇ」とか「すげぇ」などと
いう濁った言葉の花盛り。日本語の清らかな響きは失われてしまった。
さて、こんな言葉がある。これも杉浦女史から聞いた話なのだが、
〝菊弥生(きくやよい)〟
という言葉だ。これを〝聴くや善い〟と洒落ることで、そばをたぐる音を聞くのは
耳に心地よい、とそばの「音たて食い」を正当化するようになったのである。
つまり、新そばが出盛る晩秋(10月末~11月初頭にかけての菊の季節)から桜の咲く
弥生(3月頃)までの期間にかぎって、かそけきそばの香りを楽しむため、音をたてて
たぐってもよし、とする暗黙のルールができたというわけ。しかし日清・日露戦役
後は、季節を問わずなし崩し的に〝ズズーッ〟とやるようになってしまった。
以上が杉浦女史から聞き取った話で、さすがに江戸文化に通じたお方、
目からウロコの「なるほど」と思わせる話ばかりであった。
こうしたそば文化にまつわる話を留学生相手に英語で説明するのは至難の業だ。
ただでさえヨコ文字のきらいなボクは、
「日本では〝ズズーッ〟が正統なマナーなんだ。四の五の言わずに食べろ!」
とばかりに、異人顔負けの高圧的態度で申し渡すのである。
やはり蛮人の末裔か?
←杉浦さんの実兄は鈴木さんというカメラマン。
彼と何度か仕事をしたご縁で、妹御である杉浦女史
と会うことができた。生で見ると超小顔の色白美人であった。
嶋中労さま
返信削除こんにちは。『金髪ボインちゃん』と友達になりたい田舎者です。
尚且つ「青い瞳のセリーヌ」ならば言うこと無しですね。
それはそれで置いといて、大陸の文化は日本の島国文化とはいつまでも混じりあう
ことはないのではないかと思います。実際には人をはじめ全てが混じり合っている
のが現状です。ですが島国である日本の気候風と国民性がそれらを上手く吸収し
あたかも日本に古くからあったようにへと変えてしまう適応性があるのだと思うのです。
世界を見渡してみると日本国では日本人では考えられない言動が隣国をはじめ沢山の
国々で起きています。日本国からしてみれば不思議な事も他国からしてみれば当たり前の
ことなのです。
つくづく日本国に日本人に生まれてよかった思うのです。
ありがとうございました。
田舎者様
返信削除〝青い瞳のセリーヌ〟というのは何のことやらサッパリですが、
男なら金髪ボインちゃんが一番、と誰もが思うよね。
なのに、無情にもあずかるのはいつも♂。
♀をあずけると、あの助平おやじがが何かトラブルを起こすとでも思っているのでしょうか。
ボクは実に不満なのであります。
ところで、田舎者さんの最後の締めはいつも。
「日本人に生まれてよかった」だね。
ボクもまったく同じ。つくづく思いますよ、日本人に生まれてよかったと。
金髪ボインちゃんが近くにいないのは不満だけど……ガマンします。
嶋中労さま
返信削除おはようございます。『ところで、田舎者さんの最後の締めはいつも。
「日本人に生まれてよかった」だね。』
このような考え方になったきっかけは。本の言葉からです。
『受けた恩はその人へは返せないものなのだから、自分の周りの人に返す
(幸せにする)ことをしなくてはならないんだよ。』こんなような内容でした。
そこで、この言葉を自分にできる範囲内で行いたいと考えたのと同時に
ご先祖さま、両親、師には感謝することを忘れてはならないとの考えに至ったのです。
たどり着いたのが日本国に日本人に生まれてよかったと感謝することにしたのです。
ありがとうございました。
田舎者様
返信削除立派な心掛けだね。ボクもできる範囲で見習うことにします。
ボランティア活動で有名な尾畠春夫さんがよく言う
『かけた情けは水に流せ 受けた恩は石に刻め』
という言葉は含蓄があるね。
もともとは仏教の経典にある言葉らしく、
《懸情流水 受恩刻石》
すなわち、懸けた情けは水に流し、受けた恩は石に刻むべし、との意。
世の中にはこの逆を行く人がけっこう多いよね。
日々感謝の気持ちを忘れない、というのは大事なことですね。