2020年6月1日月曜日

寛美や志ん生の芸が懐かしい

加齢とともに食べものの好みが変わっていくように、
テレビ番組の好みも変わっていく。
近頃、面白いと思わせる番組が極端に少なくなった。
バラエティーやドラマなど、若い人は面白がっているのかもしれないが、
古稀目前の老人には少しも面白くない。

たとえば「ワイドショー」と呼ばれる番組がある。
司会を務めているのはたいがいお笑い系のタレントである。
「バラエティー」も同じ。司会も出演者たちのほとんどがお笑い系で、
場合によってはコメンテーターと呼ばれる人たちの中にもお笑い系が混じっている。
日本のテレビ番組は今、お笑い系と〝オカマちゃん〟の天下なのである。

だから、どのチャンネルを回しても〝ゲラゲラ、ガハガハ〟という
バカ笑いしか聞こえてこない。その笑いも〝高次〟のそれならまだ許せるが、
ほとんどが駄ジャレに毛が生えたような低次のものばかり。
このレベルで〝ゲラゲラ〟と大口あけて笑っているのだから、
番組の質が知れる。

予算の問題もあるとは思うが、番組制作者の質も相対的に落ちているのではないか。
お笑い芸人やタレントを使えば、終わりまでなんとか番組をもたせてくれる。
それに終始和やかな雰囲気も作ってくれる。

『鶴瓶の家族に乾杯』といった旅番組やローカル路線バス乗り継ぎの旅といった
番組も同じで、お笑い系のタレントを混ぜることで、現地の人たちとの交流を
明るく和やかなものにしている。その意図するところは分からないではないが、
ここまでお笑い系が出しゃばってくると、ボクみたいなへそ曲がりは
「つまらない笑いはもうけっこう」と拒否反応を示したくなってしまう。

特に鶴瓶がきらいなボクは、鶴瓶がテレビCMに出てくるだけで
反射的にチャンネルを変えてしまう。ウド鈴木や石塚英彦もダメ。
石塚の目を細めた見え透いた作り笑いを見ると、
「ウェーッ、またやってるよ」
これまたチャンネルを変えてしまう。

お笑い系というのは、かつては芸能界の中ではランクがずっと下だった。
藤山寛美が全盛期の時でさえ、町で見かけた子供が
「お母ちゃん、見て、寛美だよ!」
と指さしたりすると、
「おやめ、指が腐る」
と叱ったとか。芸人と堅気が峻別されていた時代の話である。
芸人には芸人の「分」があり、客には客の「分」がある。
その「分」をわきまえろ、というわけだ。

そんな時代から比べると、芸人たちの地位は上がり、
お笑い系の芸人も、お天道様の下を堂々と歩けるようになった。
こんなふうに書くと、職業差別はいけない、と反発するムキがあるだろうが、
「差別」ではない、「区別」をしている。

虚業で得た金は所詮あぶく銭で、堅気の衆が汗水たらして働いて得た金とは
まったくの別ものだ。そのことを知っていた寛美は、その日に入った金は
その日のうちに使った。狂ったように使った。
お金というものは蓄財したりすると〝ふつう〟の金に似てくる。
それじゃあ堅気衆の立つ瀬がなかろうと。

時代遅れかもしれないが、ボクは〝分際を知れ〟という言葉の重みを
知っているつもりだ。どんなに人気のある売れっ子でも、
「錦着て布団の上の乞食かな」という視点は忘れてはいけない。
ボクはそう思うのだ。

というわけで、芸人ずれと同じ穴の狢でもある〝物書きずれ〟の
ボクも、10万円の給付金は狂ったように使うつもりでいる。
現にもう使っている。蓄財なんて芸人の風上にも置けない、
というわけである。

お笑い芸人たちとは、互いに〝虚業〟同士。
シンパシーは感じるのだが、近頃の芸人は芸の質があまりにお粗末すぎる。

ああ、古今亭志ん生や三遊亭圓生の磨き抜かれた笑いが懐かしい。
あれほどまでの高次の芸を演じられる芸人が今どきいるだろうか?
ハッキリ言ってしまうが、レベルが違いすぎるのである。

戦後70有余年、平和続きで芸人の芸も吹けば飛ぶような軽い芸に
成り果ててしまっている。戦中派の志ん生や圓生の芸はいぶし銀の
輝きを放っていたが、今の芸人の芸はすぐにメッキが剥がれてしまう。
芸に人間的な深みが投影されていないからだ。
百年河清を待っても、たぶん追っつかないと思う。







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