2018年11月20日火曜日

小児のような年寄りになりたい

ボクは雑誌記者を長くやってきた。
月刊誌の編集をやっていた頃はもちろん、フリーランスの記者になってからも、
手当たり次第に記事を書き、雑誌に投稿していた。
食わんがために、エッチな記事もいっぱい書いた。
今は雑誌に記事を書くような仕事はまれにしかしていなくて、
たまにゴーストライターの依頼があれば、
有名人の本をリライトしたりしている。

記者生活が長いと、当然ながら多くの人と出会う。
テレビによく出てくる有名人もいれば、文化勲章を
もらうような偉い人もいる。多くは名もない庶民だが、
彼らは一様にこう言う。
「あなたと話してると30分で丸裸にされちまう」と。

取材の場数を踏むと、どんな能無し野郎でも一丁前のフリはできる。
ボクのようなボンクラでも、傍目には腕っこきの記者に映るのだ。
記者稼業を長くやっていると、自然と度胸というか、図々しさが身につき、
どんな偉いさんと会っても動じなくなる。ほんとうはあがってしまっているのだが、
平常心を装う術に長けているので、傍目にはわからない。
心臓に毛が生えているのである。

取材で大切なことは、相手を過度に緊張させないことだ。
硬い質問ばかりでなく、時には冗談を飛ばし、雰囲気を和ませる。
むずかしそうに思えるかもしれないが、場数を踏んでいれば、自然と
身につく話術で、要はふだん通りの自分を出して話せばいい。
つまり、しゃっちょこ張らずに気さくに話しかければいいのだ。

初めて会う人でも、だいたい10分間話すと、人物の軽重が知れてくる。
もっと話すと教養を形作っているであろう知のバックグラウンドが容易に想像できる。
自己韜晦(とうかい)しようとしてもダメ。
目を見れば、心の裡側が問わず語りに見えてしまう。

(ああ、この人は人物だなァ……)
と畏れ入るような大器は、めったにいない。
上から目線の偉ぶっている人ほど小物が多く、発言も月並みだから、
ほとんど記事にならない。実るほど頭を垂れる稲穂かな、
という俚諺をそのまま実践しているような高徳の人物はすでに払底して
しまったのか、絶えてめぐり会ったことがない。

親鸞は自分のことを愚禿(ぐとく)と称した。
親鸞に倣ったわけではないが、ボクも自身を愚物だと思っている。
さて、わが団地には高学歴の人が多く、大学の先生やら医者、弁護士といった
〝偉い人〟が佃煮にするくらいいる。辞を低くする謙虚な人も中にはいるが、
たいていは自分のことを世の中で一番利口だと思っている。
ひとかどの人間だと思い込んでいる。ボクにはそう見えてしまう。

団地総会や棟の総会で発言する人はいつも同じ顔ぶれ。
(またあいつかよ……)
みな半分呆れている。吐くのは手垢にまみれた正論ばかり。
周りがみんなバカに見えるのか、得意満面の高っ調子でしゃべり続ける。
みなウンザリしている。

こんな田舎町の団地に高徳の士を求めること自体が荒唐無稽なこと
なのかもしれないが、「おれは一番の利口者」といった高慢チキな顔に出会うと、
つい顔をそむけてしまう。ボクは鼻っ先に才気をぶら下げ、
得意になっているような人間が大きらいなのだ。

いつも若芽のように好奇心にあふれ、
齢を重ねても金輪際〝わけ知り顔〟はしない――。
そんな小児みたいな年寄りになりたいと、
いまは心より希っている。









0 件のコメント:

コメントを投稿