「……てゆうか」
「……みたいな」
「……かな、と思うんです」
「冬とか寒いじゃないですか……」
近ごろの若いもんはこんなしゃべり方をする。
「とか」は二つ以上の事物を列挙する際に使われる言葉で、
「冬とか寒いじゃないですか」とか「メールとかで連絡します」
といった使い方は間違っている。
ボクなんか、意地が悪いから、
「冬の他に何が寒いんですか?」とか、
「メールのほかに何で連絡するの?」
と突っ込みを入れたくなってしまう。
いずれにしろ、こんな言葉遣いが、テレビ番組の中でも街中でも氾濫している。
なぜこんなしゃべり方が流行ってしまったのだろう。
思うに、自分に自信のない人間が増えているのだと思われる。
あるいは周りの人間に気を遣いすぎている。
〝空気〟を読みすぎるあまり、
「……だ」
「……と思う」
と断定口調で言い切れなくなってしまう。
言い切ってしまうと、時に波風が立つことがある。
当たり前のことだが意見のまったく異なる人間がいたりする。
そんな人に反撃を食らうのも癪だし、穏便にコトを図ろうとするのもまた面倒くさい。
で、相手の顔色をうかがいつつ、半分腰を引きながらものをしゃべることになる。
そしていつしか、語尾をボカすことで反撃をかわす術を身につけるに至る。
「和をもって貴しとす」の伝統精神が奇妙に変形して流通した感じだ。
ボクはこうしたボカし言葉がきらいだ。
「とか」「とか」言ってるコンニャクみたいな人間は張り倒したくなる。
自信過剰人間も鼻についていやだが、軋轢をきらう軟弱人間はもっといやだ。
ボクは友達も多いが、たぶん敵も多いだろう。
いつも断定調でものをいうし、相手にもそれを求める。
定見のないやつはきらいだし、付和雷同の輩を心底憎んでいる。
日本人が和を尊び、人との摩擦を避けたがるというのはわかる。
しかしボカしてばかりで、責任回避に走ることが本人のためになるのだろうか、
とつい考えてしまう。ボクの目には自ら困難に立ち向かわず、
いつも「八方美人のいい子ちゃん」でいたがる、無責任な人間に映ってしまうのだ。
軋轢(あつれき)、おおいにけっこうではないか。
口角泡を飛ばして言い争う、というのもたまにはあっていい。
小さい頃から、幼稚園や保育園で、友達でもないのに「お友達とは仲良くしましょうね」
などと教えられ、擬似的な〝似非フレンドリー〟な関係に慣れきってしまうと、
人との諍いを努めて避けるのが君子の生き方みたいに勘違いしてしまう。
ボクはそうしたニセの友情など信じないし、
ホンネを語れない友などほしくもない。
人はみな違う。
生きてきた環境が異なれば、ものの考え方だってみな違って当たり前だ。
その違いを互いにぶつけ合い、
「なるほど、こんな考え方もあるのか」
と教えられて初めて、互いを高め合うことができる。
馴れ合い、ウソの親和性でその場を取りつくろって、
いったい何が得られるというのか。
ののしり合い、どつき合って友情を育んできた前世紀の遺物のような
ボクには、こうした「親和」の築き方はさっぱり分からないし、
いかにも女々しいものに映る。
KY(空気が読めない)などという言葉がいまだに幅を利かせている。
「あのひとKYなのよね」などという不名誉なレッテルを貼られないように、
常に周囲の顔色をうかがい、ホンネを隠しタテマエだけの発言でお茶を濁してしまう。
要は他人を傷つけたくないし、自分も傷つきたくない。
そのことが習い性になってしまうと、いつしか、
「自分のホンネって、いったい何だろう?」
自分で自分が分からなくなってしまう。
傷つくことがそんなに怖いものなのかねえ。
それほど打たれ弱いのかねえ。
「男だろ、おい、もそっとシャキッとせい、シャキッと!」
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