彼らの「未熟さ」と、その裏返しともいえる「驕慢さ」が鼻につくのである。
事実、拙著『おやじの品格』の帯には〝若者なんか大っきらいだ!〟と謳ってある。
青い春とはよく言ったものだが、その何ともいえぬ青臭さが、
彼らの顔にそのまま滲み出ている。
ボクは思わず顔をそむける。
そういえば、ポール・ニザンの『アデン・アラビア』の書き出しはこうだった。
《J'avais vingt ans. Je ne laisserai personne dire que c'
僕は二十歳だった。それが人の一生で一番美しい年齢だなどと誰にも言わせまい……》
この強烈な殺し文句に魅かれ、ボクは思わずこの本を衝動買いしてしまった。
当時ボクは、青春なんてものには一文の価値もない、と思っていた。
なぜそこまで若者をきらうのか。理由はもとより承知している。
若かった頃の自分の顔が、彼らの未熟そのものの白面郎(はくめんろう)に、
ぴったり重なるからである。まるでわが身を鏡に懸けるがごとし、なのだ。
およそ40~50年ほど前。
驕慢を絵に描いたようなボクは、世間を斜めに生きていた。
本で学んだ知識で頭をいっぱいにして、さもわけ知り顔で街を闊歩していた。
ほんとうは人生について何にも知らず、自信もなく、人一倍不安に苛まれていた
くせに、そんな惰弱な気持ちをさとられまいと、傲然と肩をそびやかしていた。
まるで精神病理学の標本が歩いているようなものだった。
学生時代、聞きかじったにわか知識を友人の前で得々と披露におよんだら、
そばで聴いていた友人の姉が「まだまだ青いわね」とピシャリと断じ、
ボクの高慢チキな鼻をへし折った。その時の哀れにも滑稽な情景を今でも
まざまざと思い出すことができる。
ボクは当時、ニーチェ哲学に重度に〝かぶれ〟ていて、それがいかに深遠なもの
であるか、滔々とまくし立てていたのだが、意外にも彼女はその分野の専門家だった。
ボクの生嚙りの知識などは、完膚なきまでに粉砕されてしまった。
「無知は罪なり」とソクラテスは言った。
ボクは中学時代からの旺盛な読書慾のおかげで、知識だけは人並み以上に詰め
込んでいたが、それが生きるうえに役立つ叡知というレベルには達していなかった。
ただの頭でっかちの、嘴(くちばし)の黄色い、生意気なクソガキだったのである。
たぶん大人たちは、そんな若者を目の当りにしたら、今のボクがやるように、
思わず目をそむけたであろう。まるで穢らわしいものでも見るかのように。
フーテンの寅さんのセリフを借りるなら、
《思い起こせば恥ずかしきことの数々……》
といったところだろうか。穴があったらすぐにでも入りたくなる。
あの頃の目立ちたい一心のキザな服装や不遜な物言いを思い出すたびに、
冷汗三斗の思いがする。嗚呼、未熟であるということは悲しいものだ。
で、還暦をとうに過ぎた今の自分はどうなんだ、と問われたら、
「相変わらず山のアナ、アナ、アナ……」と歌奴のタヌキみたいなありさまで、
ひたすら首をすくめて縮こまるしかない。顧みれば、碌々(ろくろく)と為すところ
なく過ごしてきた六十有余年。ただべんべんと命永らえてきただけなのである。
白髪が知恵のしるしでないことぐらいは承知している。
老年が青春に劣らぬくらい虚ろなことも知っている。
知っているがゆえに、未熟であることに寛大すぎる世の風潮に、
ひとこと苦言を呈しておきたいのである。
未熟であることは決して美しくない。
無知はとても恥ずかしいことで、それ自体が罪なのだ、と。
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知らないよ、そんなもん。
だって生まれてないもの……」
若者たちはノーテンキにそう言う
のだが……知には想像力というものがある。
同時に、知ってしまったがゆえに味わう
哀しみってものもある。
イラスト:作者不詳
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