履歴書とか改まった書類の「職業欄」には〝文筆業〟と書くことにしている。
勤務時間などの制約を受けないから〝自由業〟と書く手もあるのだが、
自由業と謳うと1年じゅうのんきに遊び暮らしているようなイメージだし、
ちょっと怪しげな雰囲気もつきまとってくる。
そこへいくと、文筆業なら読んで字のごとく「ペン1本で食ってんだぞ!」
という感じがよく出ているし、着物姿で髪の毛を掻きむしりながら原稿に
向かっている、というレトロなイメージが、坂口安吾とか太宰治のそれと
重なってきたりする。ボクは無頼派でも破滅派でもない、ごくごく平凡で
非力な物書きなので、文筆業などと大上段に振りかぶるのはいささか
〝こっぱずかしい〟のであるが、半分は草莽に隠れた身のうえ、
いまさらカッコをつけても始まらない。
「お父さんは文筆業というより〝分泌業〟って感じだわね」
こう言って茶々を入れるのはわが女房殿である。
「だって、何やらクサそうなニオイを体じゅうから分泌するんだもの……」
などと失礼なことをのたまう。
まァ、ボクとしては「文筆業」だろうとクサそうな「分泌業」だろうと、
どっちでもいいのだが、ここは常識的判断として「文筆業」に軍配を
挙げておくことにする。
「どんな作品を書いておられるんですか?」
こんな問いかけをする人がいる。
「いやァ、かいているのは本ではなく大恥とか脂汗ばかりでして……」
などと、いつもは冗談交じりにこう言ってゴマかすことにしているのだが、
実際のところ「この本です」と自信をもって薦められる本がないので、
いつも妙な具合の脂汗だけをかく、という恥ずかしき仕儀となってしまう。
そんな中、某有名出版社のベテラン編集者から本の執筆を依頼された。
ゴーストライターの仕事ならそこそこあるのだが、自著となると久しぶりだ。
で、ふつうなら「ありがとうございます。ぜひ書かせてもらいます」と
一も二もなくお受けするところなのだが、どういうわけか気乗りがせず、
あっさり断ってしまった。書けばなんとか書けそうなのだが、
どうにも気が重い。たとえ書いたとしても魂の入らない駄本に終わって
しまいそうな気がする。本というのは、何がなんでも書きたいとする
内なる声に導かれたものでないと、人の魂を揺さぶるまでには至らない。
やっつけ仕事で書いた本など、たとえ売れても価値はないのだ。
じゃあ今、いったい何が書きたいの?
と問われても困る。今は特に書きたいものが見当たらない。
NHK総合の人気番組『チコちゃんに叱られる!』の中の、
5歳のチコちゃんの決めゼリフ、
《ボーっと生きてんじゃねえよ!》
的なエピソードを連ねた〝憂国おじさんの叫び〟みたいなエッセーなら
いつでも書けそうなのだが、それ以外はまったく思いつかない。
もともとそれほど才能豊かなほうではないので、たぶんこれが限界なのだろう。
数時間前、10㎏のダンベルを詰め込んだリュックを背負い、
近くの公園のウォーキングコースを数周してきた。歩きながら、
(おれはいったい何をしてるんだろ……)
と思った。リハビリには違いないのだが、その先に何があるのかというと、
いまひとつ「その先」が視えない。
前期高齢者の仲間入りを果たし、リッパな高齢者になったのだから、
余生はのんびり過ごせばいいじゃないの、とする声も聞こえてくるが、
足腰がまだしっかりしているうちは何かしら働いたほうがいいんじゃないの、
とする心の奥底からの叱責が聞こえてきたりもする。
働きバチの日本人には、どうあっても楽隠居はゆるされないらしい。
嗚呼、まじめな日本人をまっとうするのもけっこう骨が折れそうである。
嶋中労さま
返信削除おはようございます。
百姓をしていまして今考えていることは、日本国は日本人は
他国とも白人とも黒人ともアジアの国々の人とも違うということです。
もともとは多民族の国であったとされる日本ですが島国であったことや
四季のへんかを楽しめる豊かな土地や海からの恵みが人を穏やかに育てた
ように思えるのです。
そして「働きバチ」と言われてもそれが当たり前のような民族へと繋がって
きているのだと考えています。ただ、国会議員の先生方もそうですが三割
ぐらいの人は少しというか大分日本人的な考え方から外れている人もいるのが
現状なのです。
人間食えなくなったら死が待っています。食えなくなるを飛訳すれば働け
なくなること、自らの足で立てなくなることなのです。
ご家族のため日本国のため自分のためにもリハビリに励んでください。
農業政策もそうですがアメリカ方式をそのまま導入することは日本には
無理があるようです。
ありがとうございました。
田舎者様
返信削除〝和光市のドンファン〟と呼ばれている割にはカネがありません。
慢性的な金欠病ってやつで、生涯カネには縁がないのだな、と思われます。
ほんとうは熊谷守一みたいに仙人になってしまいたいのですが、
仙人になるにも才能が必要で、ボクみたいな凡骨の身はお呼びでないそうです。
ボクにはカネはありませんが、日本人としての誇りだけは売るほどあります。
その誇りこそがボクを支える唯一の宝なのであります。
誇りはどうやって植え付けられたかというと、
小林秀雄や福田恆存、江藤淳、山本夏彦、渡部昇一といった先達たちから
学んだものです。
読書もいいですが、誰を師と仰ぐかは重要です。
二流三流ではなく、第一級の人を選ぶ。その眼が備わっていないといけません。
ボクは第一級の師を選んできたと自負しています。
師から学んだものは膨大です。
それらは今でもボクの生きるうえでの羅針盤になっています。